ジョン・ロックといえば、個人的には哲学者の印象が強い。「悟性論」の影響であろう。だが、政治や経済の書では、政治学者と紹介されることが多く、本書にもそんな香りがする。似たような印象に、アダム・スミスのものがある。世間では経済学者と呼ばれるが、「国富論」に触れてみると、そんな狭量な人物でないことが伺える。彼らには、政治学や経済学といった枠組みで人間社会を観察しようなどという意識はなさそうである。
ロックは、人間本性的な集団性から「自然状態」を探り、本来人間が保持すべきもの、所有すべきものを考察する。そして、自然に適った自由と平等の権利が、すべての人間に等しく与えられると主張する。言い換えると、自然に適っていなければ、自由も平等も制限されるということだ。したがって、政治における最重要課題は、法律が誰もが納得できる自然法となりうるか、これが問われることになる。
ひとりの人間が生まれると、血筋でつながった家族という集団単位を形成し、家族同士の結びつきから集団性の意識を育む。集団社会が形成されると、そこにまつりごとが生まれ、代表会が生まれ、首長が生まれ、さらに法が生まれる。誰一人として、生まれる地も、生まれる国も、両親も、自由に選ぶことができない。つまり、人間社会とは、生まれながらにして、どこぞの政治組織に隷属させられる奇跡的なシステムとすることができよう。はたして政治は自然の産物なのか?あるいは政治を自然な存在にし得るか?これが統治論の問い掛けであろう...
「完訳...」と命名されるのは、岩波文庫の「市民政府論」(鵜飼信成訳)が後編だけを掲載したのに対し、本書が全訳版(加藤節訳)ということである。
「前篇では、サー・ロバート・フィルマーおよびその追随者たちの誤った諸原理と論拠が摘発され、打倒される。後篇は、政治的統治の真の起源と範囲と目的とに関する一論稿である。」
統治二論の背景には、王権神授説との宗教的世界観をめぐっての対立が見て取れる。フィルマーは、君主を人間を超越した絶対的存在とし、民衆に服従する宗教的義務を唱えたらしい。対してロックは、君主とて人間であり、人間の自然性を考察しながら宇宙論的義務を見出す、といったところであろうか。そして、政治権力の起源を人民の合意、すなわち社会契約に求めている。
「人間の自由および自分自身の意志に従って行動する自由は、人間が理性をもっているということにもとづくのであって、この理性が、人間に自分自身を支配すべき法を教え、また、人間にどの程度まで自らの意志の自由が許されているかを知らせてくれるのである。」
この書が、ルソーの「社会契約論」の引き金となり、アメリカ独立宣言やフランス革命に影響を与え、その余波が遠く日本国憲法にまで及ぶことは、言うまでもあるまい。また、所有権の起源を労働に求めるあたりは、ある種の労働価値説を唱えており、アダム・スミスやデヴィッド・リカードを経てマルクスに受け継がれているのも確かであろう...
ところで、本書は、翻訳において、ちょっとした特徴を見せてくれる。「文庫版への序」の中で、所有権が身体や人格に及ぶ場合、「固有権(プロパティ)」という訳語を当てると宣言される。所有にもいろいろあるが、政治学や経済学が対象としがちなのは、財産、資産、土地、貨幣、住宅といったものである。ロックの所有は、生命や健康、あるいは自由や平等までも含め、普遍的人権のようなものを唱えている。その権利を得るための責任と義務とは何かを問い、政治の役割を相互保存の保障において問うている。なるほど...
ただ、偉大な哲学書には、一つの用語を多義的に用いたり、一つの概念にいくつもの同義語を当てたりするところがある。真理を探求しようとすれば言語の限界にぶちあたり、必然的に読者の理解力に委ねることになろう。それゆえに難解な書となりがちだが、おかげで思考に柔軟性を与えてくれる。実は多くの哲学者が、この柔軟性を意図しているのではなかろうか。そうせざるを得ないのかもしれんが...
完璧に精神を言い当てるような言語など存在しえないだろうし、もし存在するとすれば、人間は完全に精神の正体を知ったことになる。なんでも特別な用語に当てはめて定義しようとするのが学術界の常套手段であるが、却って奇妙なニュアンスを与えることがある。経済学における「信用」という用語など、その典型であろう。
実際、「固有権」という用語には、民族的な帰属意識やアイデンティティのようなものを感じる。自然状態というより社会状態に近いような。そうしたニュアンスを含めてもあまり違和感はないし、文脈を辿ると、基本的人権や自己保存の保障といった意味合いを強く感じる。固有といっても、私有と共有でも捉え方が違う。まぁ、好みの問題かもしれん。酔いどれ読者は翻訳者の苦労を解せず、さらりと読み流すのであった...
1. 統治二論の背景
ロック自身は、ピューリタンの家庭に生まれ、敬虔なキリスト教徒だったようである。神の目的から自然権を見出すという思惑は変わらないにしても、宗教的な神というより、宇宙論的な神を唱えているように映る。
ただ、第一論には、フィルマーの主著「パトリアーカ」への痛烈な批判が込められ、ちと感情的で、らしくない面も目立つ。自然な統治がなされない場合、すなわち暴力や征服の類いに対して、断固として抵抗する権利や革命の正当性を唱えるあたりは、ピューリタンらしいといえばそうなんだけど...
統治二論の成立には、イングランドの王位継承問題が複雑に絡んでいる。17世紀、オランダからの思想流入で、イングランド国教会はカトリック派とカルヴァン派の板挟みにあった。カトリック化を進めるチャールズ2世からジェームズ2世の継承の流れに対抗したのは、ロックのパトロンであったシャフツベリ伯爵(アントニー・アシュリー = クーパー)だが、反逆罪に問われオランダへ亡命。統治二論には、シャフツベリ伯爵を擁護することが意図されているそうな。その後、名誉革命によってプロテスタントの盟主であったオランダ総督ウィリアム3世が即位。本書の冒頭には、ウィリアム国王の正当性が綴られる。いかに人民の支持を受けた統治であるかを。
国王継承問題において、血筋などではなく民意の優位性を唱えることは、この時代には難しかったことだろう。革命後も、カトリック最強国フランスの軍事介入が続き、ロックもまたオランダへ亡命。イギリス人ロックの政治哲学が、フランスで活躍するルソーやモンテスキューに受け継がれるのも、歴史の皮肉を感じずにはいられない...
2. アダムの権原とイヴの幻影
正統な後継者を統治者の血筋に求めてきたのは、ほとんどの国や民族の慣例に見られる。直系、嫡子、正妻の子など。近代民主主義ですら世襲制が色濃く残る。そんな性向に理由付けするのも、詮無きことかもしれん...
キリスト教的な理由付けでは、アリストテレスの思想解釈がある。フィルマーは、アリストテレスの政治学に関する「考察」の序文に、こう書いているという。
「世界で最初の統治は、全人類の父における王的なそれであった。アダムは、子孫を殖やして地を満たし、それを服従させよと神に命じられ、また、全被造物への統治権を与えられることによって、全世界の王となった。彼の子孫の誰一人として、彼の認可あるいは許可を受けるか、彼から継承するしかない限り、何物をも所有する権利をもたなかった。」
父親の権力と、それに無条件に服従することの正当性は、人類創造に由来するというわけか。まぁ、百歩譲ってそうだとしよう。では、アダムの子孫は王家だけなのか?祝福されるべき人間は国王だけなのか?すべてが神の意志で誕生するとすれば、人民にこそ権利が認められるはずだが。そして、すべての動物、植物にも、同じく主権を与えることになるはずだが。親が子を保護するのは生物的本能であって、神が父親に子供を支配する権力を与えるなどとするから、おかしなことになる。父の祖先が絶対的な権威となれば、慣習は絶対となり、子孫は盲従するしかない。そして、反省の基準は服従の度合いで計られ、責任や義務もまた服従で理由付けられることになるではないか?
ロックは答えてくれる。「アダムが創造されたということ... それは全能の神の手から直接生を享けたということ以外のことを意味しない」と。あの世でアリストテレスも、迷惑がっているに違いない...
ところで、イヴの影が薄いのはなぜか?子を産むのは女性であり、主役はこちらのはず。ヘシオドスの神統記にも、カオスから生まれた原初神の一つに大地の神ガイアを置き、彼女が多くの神を産む母神としている。今日の男女の社会的優劣は、どこから生じるのだろうか?腕力か?それとも精子の持ち主か?自然界はそうでもなさそうである。無数の働き蜂に囲まれる女王蜂は複数の雄と交わり、カマキリの雄は雌に喰われる。なんと不条理な!
神の世界では、主神ゼウスがあらゆる女神の寝所に化けては進入し、子を孕ませる性癖がある。雷オヤジにも困ったものよ!人間の世界では、このだらしない遺伝子が女性に寛容力を養わせ、その隙に男性優位社会をこしらえたのかは知らん。女が子を産むという物理的優位性に対して、男は権威やら名声やらの幻覚的優位性に縋っているだけのことか。いや、野郎どもは、黒幕に操られる女性優位社会で踊らされているだけのことかもしれん。実際、三行半という言葉は愛想をつかすという意味で使われるし。ちなみに、ソロモン王の箴言に、こんなものがあるそうな。
「我が子よ汝の父の誡命を守り、汝の母の法を棄てるなかれ」
父が威張りくさっている間に、母が法となって裁くとすれば、アダムは永遠にイヴの幻影に怯えることになろう...
3. 自然状態と陪審制
ロックもルソーも、政治権力の正当性を導くために人間の「自然状態」を考察すべきだという立場は同じである。ただ、自然状態そのものの捉え方は、違いを見せる。ルソーの自然人は、理性や知性もなければ、徳も不徳もない、純真な情念にしか支配されない未開人とした。一方、ロックの自然人は、やや理性的観念を持ち自分を律することはできるものの、その情念は非常に不安定で、第三者の目を必要とするといったところであろうか。ただし、第三者とは、自然に適った法であって、宗教的戒律ではない。
「人それぞれが、他人の許可を求めたり、他人の意志に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全な自由の状態である。」
集団社会において、自由と平等の権利がすべての人間に等しく与えられるとするならば、必然的に自由と平等の範囲が制限されることになろう。統治の正当性を合理的に説明しようとすれば、統治の手段として用いられる法律が自然法に適っているかを問うことになるのも道理である。
また、抵抗や革命の正当性のようなものが語られる。
「すべての人間は自然法の侵犯者を処罰する権利をもち、自然法の執行者となるのである。」
ただ、この文章だけ切り出してみると、陪審制の理念のようなものを感じるから奇妙である。民衆の自然的な意思が裁くという意味では同じで、民意を尊重することが真の政治だとすれば、陪審制こそ象徴的なシステムと言えよう。だが、民意もまた宗教論や感情論と結びつきやすいだけに、魔女狩りの類いに変貌しやすい。
ところで、日本の裁判員制度は、哲学的な議論がなされているだろうか?裁判制度を国民の意識に適合させようというなら、それもよかろう。だが、国民は本当に自然法の在り方を学んだ上で、あるいは議論した上で参加をうながされているだろうか?そうした議論が慣習化されていれば、ある程度機能するだろうが、手段にとらわれやすい国民性は否めない...
4. 立法権と父親の権力
「立法権力とは、共同体とその成員とを保全するために政治的共同体の力がどのように用いられるべきかを方向づける権利をもつものである。」
政治の目的は固有権の平和かつ安全を享受すること、そのために、まずもって立法権を樹立することが必要だとしている。個人の安全保障に関する契約というわけだ。最高権力といえども、個人の同意なしで所有物を奪うことに正当性を感じない。となれば、最高権力を支える立法者は、よほどの人間性を具えた人物でなければ務まるまい。立法権力に他の権力が従属するというロックの立場は、ルソーに受け継がれる。日本国憲法第41条においても、国会を国権の最高機関とし、唯一の立法機関に位置づけられるが、このことが、国会議員を他の誰よりも格上に位置づけられるならば本末転倒。この点において、モンテスキューの分権論は修正版と言えようか。
また、国家の権力に父親の権力を重ねながら、その正当性を議論している。親子は無条件に血縁で結ばれ、そこに保護のための責任や義務が生じる。では、国家と個人の関係はどうだろうか?基本的人権の保障がなければ、税金を徴収する正当性もあるまい...
「父親の権力は、未成年のために子供が自分の固有権を処理できない場合にのみ存在し、政治権力は、人々が自分自身で処分できる固有権を持つ場合に、そして、専制権力は、まったく固有権をもたない人々に対して存在するのである。」
2014-10-05
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