2014-10-19

"FREE" Chris Anderson 著

なぜ、最も人気のあるコンテンツを無料にしても商売が成り立つのか?あらゆる価値が貨幣換算される時代では、フリーとは無を意味するはず。フリーを巡っての論争は、間違った状態とするか、自明な結果とするかで二分されてきた。無から有を生み出す概念だけに、誤解されやすく、恐れられもする。だが、いまやフリーは当たり前と考える方が優勢であろうか。著作「ロングテール」で名を馳せたクリス・アンダーソンは、この得体の知れない概念の正体を暴こうとする。そして、二元論に陥ることなく、 読了後にはどちらにも与しないことを願っていると語る。
フリー経済では無料のものが有料よりも価値の高い場合が生じる。それは、貨幣に頼らない価値判断を促しているのだろうか?真の価値で経済循環を促そうとしているとしたら、それは良い風潮かもしれない。生活様式や価値観が多様化する中で、仕事の価値を収入でしか測れないのでは、あまりにも寂しい。オープンソースの世界には、技術を磨くために無料奉仕で仕事をする人たちがいる。ネット社会には、見返りを求めずプロ顔負けの情報を提供する人たちがいる。彼らの創作意欲を動機づけるものが、お金でないとすればなんであろうか。彼らなりに自由を謳歌することであろうか。フリーとは、貨幣経済では無駄を意味しても、精神哲学では自由を意味する。彼らは無駄の意義をよく知っているのだろう。贈与の心理学は、無駄をめぐる倫理観において顕著となる。自己啓発された利己主義ほど力強い動機はあるまい...

今まさに、無の概念を後ろ盾にしたビジネスモデルが社会を席巻しつつある。ソフトウェア業界では、OS, ブラウザ, SNS, 辞書サービス, クラウドサービスなどが無料化され、各種開発ツールまでもオープンソースで提供される。ハードウェア業界もまたその恩恵を受けながら、デスクトップ上の設計やシミュレーション手法によって開発コストを抑え、ますます無へ近づこうとしている。
プロとアマチュアの境界も曖昧になり、むしろ取り組む姿勢、すなわち能動性と受動性でバンドギャップを広げるかに映る。製造工程までもロボット化が進めば、人間から見出せる価値はアイデアを創造する力だけということか。いや、ネット社会にはアイデアまでも溢れ、ちょいとググれば済む話。ほんの一部の頭脳があれば、人間社会は成り立つというのか?その他大勢は、商品同様、人間性においてもコモディティ化が進むというのか?最後の砦は人件費ぐらいなもの、そして人間の価値までも無へ帰するのかは知らん...

とはいえ、フリーは古くからあるマーケティング手法である。95% の製品を売るために、5% を無料で提供するオマケという発想によって。
ところが、コンピューティング上の仮想社会、いわゆるビット世界ではフリーの概念を逆転させる。5% の製品を売るために、95% を無料で提供する「フリーミアム(Freemium)」という発想によって。尚、Freemiumとは、Free(無料)とPremium(割増)を組み合わせた造語で、ベンチャーキャピタリストのフレッド・ウィルソンが広めた。多くのユーザが無料でサービスを謳歌し、グレードの高いサービスを有料にして賄うという意味では、不幸に遭遇した人を金持ちが施す仕組みにも映る。
こうした仕組みを可能にするのは、二つの経済的要素がある。それは、経済学で言うところの限界費用をゼロにすることができること、そして、想像もつかないほどの大規模な市場が潜在的に存在することだ。テクノロジーはムーアの法則に従い、情報処理能力、記憶容量、通信帯域幅の限界費用を限りなくゼロに近づけてきた。市場においては、コンピューティングは1人1台に留まらず、無人機器や無人施設にまで拡大し、もはや人間の数では測れない。製造、販売、流通などあらゆる中間コストがゼロになれば、消費者にとってこれほど嬉しいことはあるまい。仮想店舗の構築にコストがかからないから、ロングテールの概念が成り立つ。電子決済では、1円払うのも百万円払うのも手間は同じで、コンテンツのダウンロードが1円でも商売が成り立つ。取引の基点サーバが海外にあれば、税金の概念までも変える。そして、フリーはユーザを惹きつける最良の価格となった。
一方で、消費者もまた、なんらかの仕事をやっているわけで、生産者でもあることを忘れてはなるまい。結局、キャッシュフローを生み出さなければビジネスは成り立たない、という経済常識は変わらないようだ。
それでもなお、お金のかかるべきでないところがフリーになるとすれば、どうであろう。従来型の経済循環は、必要以上にお金を回そうとしてきた。実際、政治家が打ち出す景気刺激策は、消費を煽るぐらいしか能がない。賃金が下がることに労働者が激しく抵抗すれば、相対的に貨幣価値を下げることになる。労働資本のように硬直性の高い価値と、為替のように柔軟性の高い価値を共存させるには、経済全体としてインフレ方向に振れざるをえない。
その一方で、ネット社会はデフレ側にバイアスをかけるという見方がある。余計なキャッシュフローを抑制するという意味では、そうかもしれない。経済界はデフレを悪魔のように言うが、それは本当だろうか?景気を煽るために無理やり消費者物価指数を高めようとする政策が、はたして理に適っているのだろうか?フリー経済は、インフレやデフレの概念までも変えようとしているのかもしれん...

1. フリーの形態
フリーといってもその形態は無数にある。ただ基本的な思考では、内部相互補助というものが働くようである。要するに、他の収益でカバーすることである。
例えば、DVDを買うと2枚目はタダとか、クラブの入場料は女性を無料にするとか... いつも男性諸君は倍返しを喰らうのよ。生命保険は、健康な者が不健康な者をカバーする仕組みで、したがって健康者をいかに募るかがビジネスの鍵となる。フリーとは、こうしたマーケティング戦略を大げさにしたものらしい。
本書は、四つのフリー形態を提示してくれる...
  • 一つは、直接的内部相互補助。消費者の気を引いて、いかに他のモノを買ってみようと思わせるか。
  • 二つは、三者間市場。まず二者が無料で交換することで市場を形成し、三者が追従することで参加のための費用を負担させる。メディア戦略は、この構図が基本であろうか。広告主を基盤にするテレビやラジオの発展型が、google の戦略と言えよう。インプレッションモデルでは、視聴者やリスナの閲覧回数に対して支払われる。他にも、クリック単価(CPC)や成果報酬(CPA)という概念が生まれ、サイト訪問者が有料顧客となった場合にのみ広告料を払うといったモデルが登場した。リードジェネレーション広告では、無料コンテンツに興味を示した見込み客(リード)の氏名やメールアドレスなどの情報に広告主がお金を払う。
  • 三つは、フリーミアム。本書で最も重要視される戦略で、基本版を無料で広め、プレミアム版を有料にする。アプリケーションとOSの関係もこれに属す。OSを無料で配布して有料のアプリケーションで儲けるか、あるいはその逆も。典型的なオンラインサービスには、5%ルールというものがあるという。5%程度の有料ユーザが、無料ユーザを支えていると。
  • 四つは、非貨幣市場。対価を期待せず、提供するものはすべて。それは、喜びや満足感、あるいは知性や感性など、自己存在を確認できるものすべてに価値が生じるといったところか。
さらに、フリーミアムにおける四種類の戦術を提示している...
  • 一つは、期間制限。30日間無料で使用できるアプリなど。
  • 二つは、機能制限。有料でフル機能装備など。
  • 三つは、人数制限。一定数を無料に、それ以上は有料にするなど。
  • 四つは、顧客のタイプによる制限。小規模で創業まもない企業は無料で提供するとか、ビジネスとアカデミックで料金を分けるとか。
いずれの形態も、通信業界やソフトウェア業界でよく見かける価格モデルだ。

2. ペニーギャップ
フリーは気分がええけど、ちと良すぎるところがある。フリーならば多少の品質の悪さに目をつぶることができても、有料なのにフリーよりも品質の悪いものが出回る。最新版を買い続けたところで、機能アップばかり謳いながら、品質ではむしろ劣化しているケースも珍しくない。
ソフトウェア開発で、最もコストのかかる要件の一つにテストがある。ウィルス対策ソフトなどでは、基本エンジンを無料公開すれば、マニアたちが厳しいストレステストをやってくれる。彼らの情報をフィードバックしながら、GUIを整えプラスアルファの機能を盛り込めば、精度の高い製品が安価で提供できる。
フリーは、価格が安いというだけの意味ではなく、そこには別の市場が生まれる。需要供給曲線は、有料市場からフリー市場に移行した瞬間、線形性を失う。ブラックホールかアトラクターに陥ったかのように。ペンシルヴェニア大学のカーティク・ホサナガー教授は、こう語ったという。
「価格がゼロにおける需要は、価格が非常に低いときの需要の数十倍以上になります。ゼロになった途端に、需要は非線形的な伸びを示すのです。」
これが、ペニーギャップってやつか。需要の価格弾力性は、価格を下げれば需要が増すなんて単純なものではない。現実に、たった1円を払わせることが、いかに難しいことか。フリーモデルでは、心理的効果が大きな意味を持つ。
「値段ゼロは単なる価格ではない。ゼロは感情のホットボタン、つまり引き金であり、不合理な興奮の源なのだ。」
行動経済学は、フリーに対する複雑な反応を、社会的意思決定と金銭的意思決定に分けて説明する。無料なものは、使い捨てという心理が働くのも確かだ。あまり注意を払わないことも、フリーの弊害となろう。
しかし、たとえ無料でも資源として存在するならば、大事に使おうという社会的意識が働くかもしれない。そこになんらかの価値を見出すことができれば、粗末にはしないだろう。経済的合理性とは反するかもしれんが。
ちなみに、「economics」の語源は、古代ギリシア語の「oikos(家族)」と「nomos(習慣、法律)」に由来するという。家庭のルールという意味だそうな。家族の絆まで貨幣で測られるのでは敵わん!

3. 潤沢な社会
「潤沢な情報は無料になりたがる。稀少な情報は高価になりたがある。」
フリーになりたがる、という意志と、フリーであるべきだ、という結果では言葉の響きが違う。経済理論では、価格は市場が決定することになっている。
では、無料であるべきか有料であるべきかなんて、市場が決めることができるのか?潤沢となった商品の価値は他へと移り、新たな稀少を求めてそこにお金を落とす。潤沢さに価値を求めるか、それとも、相対的に見いだされる新たな稀少に価値を求めるか、はたまた、その両方か、価値に対する考え方はますます多様化するであろう。人間ってやつは、贅沢に馴らされると、次の刺激を求めてやまない。社会学者ハーバート・サイモンは、こう書いたという。
「情報が豊富な世界においては、潤沢な情報によってあるものが消費され、欠乏するようになる。そのあるものとは、情報を受け取った者の関心である。つまり、潤沢な情報は関心の欠如をつくり出すのだ。」
さて、フリー経済では、無料と有料が極端に乖離しながら、共存できるという奇妙な現象がある。その典型的な事例は、TEDカンファレンスに見ることができよう。参加者にはベラボウに高いチケットを販売しておながら、Web閲覧者には無料公開される。VIPたちにとって、ライブで味わえる幸福感はなによりも代えがたいのであろう。その一方で、一介の貧乏泥酔者でも鑑賞できるのはありがたい。これは、ある種の民主主義の形体を提示している。
「デジタル市場ではフリーはほとんどの場合で選択肢として存在することだ。企業がそうしなくても、誰かが無料にする方法を見つける。複製をつくる限界コストがゼロに近いときに、フリーをじゃまする障壁はほとんどが心理的ものになる。つまり、法律を犯すことの恐れ、公平感、自分の時間に対する価値観、お金を払う習慣の有無、無料版を軽視する傾向の有無などだ。デジタル世界の製作者のほとんどは、遅かれ早かれフリーと競いあうことになるだろう。」

4. フリー経済の参入障壁
従来型の経済モデルで潤ってきた企業にとって、フリーへの参入障壁は大きい。「死ぬ瞬間」の著者で、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは、「悲嘆の五段階」という説を唱えたそうな。
本書は、この説にマイクロソフトの事例を重なる。海賊版が多く出回るようになり、不正コピーを撲滅しようとすれば、却ってコストがかかり、ついにはユーザが逃げ出す。一方で、GNUが登場すると、フリーウェアに秩序を与え、特別なライセンス形式がオープンソースの概念を定着させる。なぜマイクロソフトは、Linux を無視してきたのか?
  • 第1段階、否認。いずれ消える、とるに足らないと考える。フリーウェアがマニア仕様であった時代、一般に普及するとは思わない。
  • 第2段階、怒り。Linux がライバルになることが明確になると、今度は敵意を見せ、経済性を攻撃する。真のコストはソフトウェア価格ではなく、サポートなどの維持費にあると主張。Linux を導入すれば専門家にお金を払うことになり、無料は表面上に過ぎないと警告した。
  • 第3段階、取引。マイクロソフトのやり方に怒りを覚えた民主家ユーザたちがいた。彼らは、Linux をはじめ、Apache HTTP Server, MySQL, Perl, Python などのオープンソースを使い続け、その勢力は拡大していった。マイクロソフトの非難戦略は、墓穴を掘る羽目に。
  • 第4段階、抑鬱。オープンソースが使っているライセンスは、GPL。マイクロソフトの戦略と真逆な発想だ。フリーライセンスから、自社製品にウィルスをまき散らす可能性を恐れ、現実からに目を背ける。
  • 第5段階、受容。市場は、三つのモデルに居場所を与えた。すべて無料、フリーウェアに有料サポート、昔ながらのすべて有料...
小口ユーザほど予算がないのでオープンソースを選択する傾向があり、大企業ほどリスクを恐れて金を払う。だからといっって、マイクロソフトのサーバに信頼が置けるのか?そこで、サポート付きの有料 Linux(redhat あたり)を選択する手もある。フリーと相性がいいのは、既存企業よりも新参企業の方であろう。そして、ユーザに愛着を持たせることが、最良の戦略となろうか...

5. クルーノー理論とベルトラン競争
1838年、数学者アントワーヌ・クルーノーは、経済学で傑作とされる「富の理論の数学的原理に関する研究」を出版したという。それは、企業競争を数学的にモデル化したものだそうな。製品競争の中で生産量が増えれば値崩れを起こすので、価格をなるべく高く維持するために、作り過ぎないように生産量を自主的に規制するというもの。生産者側から語った古そうな論理だが、現在でも影響力があるらしい。
1883年、数学者ジョセフ・ベルトランが、クルーノー理論の再評価を試みたという。当初ベルトランも、クルーノーに批判的だったとか。ところが、クルーノーモデルの主要変数を生産高ではなく、価格にして計算してみたところ、整然とした理論になったという。結論はこうだ。企業は生産量を制限し、価格を上げて利益を増すよりも、価格を下げて市場シェアを増やす道をとりやすい。実際、企業は製造コストのギリギリまで安くしようとし、価格を下げるほど需要は増える傾向がある。ベルトランの時代、競争市場はそれほど多いわけでもなく、製品の多様性もなく、価格操作もなかったという。
当時、二人の理論は、経済学モデルを無理やり数学の方程式に持ち込んだとして一蹴されたようである。そして20世紀、競争市場が激化すると二人の数学モデルが再評価されることに...
潤沢な市場では、生産量を増やすのは簡単なので、価格は限界費用まで下がりやすい。実際、ソフトウェアの限界費用はほぼゼロ。それでも、Windows や office を高額で売り続けられるのはどういうわけか?ユーザが多ければ、他の人も使わされることになる。実際、依頼元から excel + VBA の形式でデータが提供されれば、下請けは泣く泣く office を買う。
しかしながら、マイクロソフトが独占してきた市場が、ネット社会によって無料経済を解放してきたのも確かだ。グーグルの万能振りが巨大化すると、独占に至るまでに他の競争相手を創出する。SNSの世界でも、Twitter や Facebook が、そのまま独占しそうな勢いだったが、後続を許している。収穫逓減の法則は、伝統的に生産者側の原理を語っているが、デジタル市場では消費者側の重みが大きい。価格競争で勝てば市場が支配できるかといえば、そうでもない。これは民主主義にとって良い傾向であろう。オンライン市場では、独占の原理よりも多様化の原理の方を求めているように映る...

6. 贈与経済と注目経済
贈与経済ってやつは、非常に分かりにくい。ブログは無料で、通常は広告もなく、誰かが訪問する度に何らかの価値が交換されている。PageRank などの発想は、恐ろしく単純で、恐ろしく機能しやがる。まるで一種の通貨のごとく。リンクを張るだけでページの評判や信用を広め、おかげで仕事を受けることもできれば、評判がお金に変わることもある。
オンラインは、コストが安いという利点以上に流動性の効果が大きい。YouTubeは、千人に一人が動画をアップロードすれば成り立つ。一方で、スパムメールは百万通に一人が反応すれば成り立つ。ちなみに、雑誌業界では、定期購読を勧めるダイレクトメールの返事が、2%以下なら失敗とされるらしい。
簡単に価値が創出できるということは、同時に犯罪リスクをともなう。不正コピーを巡って著作権訴訟をやりあうのは日常茶飯事。真の著作元そっちのけで、というより真の著作者が誰かも分からないにもかかわらず、大声で主張した者の勝ち。風評流布や流言蜚語の類いは冗長されやすく、犯罪の限界効用もゼロとなる。タダより高いものはない!という原理は、やはり働くようだ...
「お金を払わないために時間をかけることは、最低賃金以下で働いていることを意味する。」
また、単に注目されたいという動機でフリー経済に参入する人も多い。基本的な動機が自己存在の確認のための注目度にあるとすれば、フリー経済が民主主義を高度に発達させるかは別の問題か。注目経済について経済学者ゲオルク・フランクは、こう語ったという。
「私が他人に払う注目の価値が、私が他人から受ける注目の量によって決まるとすれば、そこには個々人の注目が社会的株価のように評価される会計システムが生まれる。社会的欲求が活発にやりとりされるのはこの流通市場だ。注目資本の株式取引こそ、虚栄の市(バニティ・フェア)を正しく体現したものにほかならない。」

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