2014-11-23

"人類の星の時間" Stefan Zweig 著

ほんの一瞬に過ぎ去るからこそ輝いて見える...
毎日が栄光に満たされていれば、退屈病に襲われる。無数の凡庸人で溢れているからこそ、一人の天才が出現する。芸術精神もまた、地道な思考の繰り返しの中から、霊的なものに憑かれる一瞬によって創造される。閃きってやつだ。そして、無限の坦々たる時間が流れ去った後、歴史に刻まれる一瞬が生まれる。平凡の内に一瞬にして宿る天才的資質とは、歴史のみが発明しうる矛盾とでもしておこうか...
時世の勝利者が、歴史の勝利者となるわけではない。どんな星の下に生まれ、どんな運命を背負うかは、やってみなきゃ分からん。だからこそ、終世、活力ある生き方をしたいと願う。情熱を持ち続け、若さを保つ秘訣は、やはりホットな女性との恋ですかねぇ... ゲーテ爺ちゃん!

ツヴァイクの仕事は確固とした形に打ち鍛えられているが、中心にはいつでも炎が燃えている。...  リヒャルト・シュペヒト

「ジョゼフ・フーシェ」や「マリー・アントワネット」の本格的な歴史叙述とは違い、ちと趣向(酒肴)を変えた12の物語。歴史の影に潜むウンチク話とは、いかなるものであろうか。得てして、こうした裏話の方に歴史の本質が隠されているものである。現象を皮相的に捉えるのではなく、心情的現象としていかに解釈するか、これぞ歴史小説の醍醐味であろう。
「歴史は余計な後押しの手を少しも必要とはせず、ただ畏敬をもって叙述する言葉だけを必要とする。」

1. 大罪人の逃亡劇から生まれた太平洋の発見
コロンブスの堂々たる誇張癖は、アメリカ大陸をインドだと思い込み、無尽蔵の金があるとスペイン王に報告させた。そして、デスペラードどもがこぞって黄金郷に群がり、数年間で土着民の人口を根絶に致しめる。荷箱に入って密航したバスコ・ヌニェス・デ・バルボアもまた、そうした一人。スペイン王が派遣した総督が命を失ったのも、彼のせいだという。
しかし、スペインは遠い。断頭台に送られる前に権力の横領を正当化するには、なんらかの功績が必要だ。当初、フランシスコ・ピサロと協力して土着民から略奪するが、未開の地を探検するには原住民を味方にする方が得と見て、小王国コイバの酋長カレタの娘を妻にして同盟する。
そして、パナマ地峡の横断に挑む。兵士190人を派遣し、原住民を運搬人や案内人にし、病人や足手まといは見捨てられるという苛酷な旅。土着民の話によれば、ある山の頂上から二つの大洋、すなわち、大西洋とまだ名の付けられていない太平洋が見下ろせるという。山頂に近づくと、あと一歩というところで、バルボアは行進停止を命令する。太平洋を初めて見るキリスト教徒は、自分でなければならないからだ。さらに、酋長は「南の海」の彼方にある国の名を言った。ビルー!どうやらペルーのことらしい。
一方、スペイン王は、バルボアを処罰するために、ペドロ・ペドラリアス・ダビラを派遣して総督に任命した。だが、バルボアの偉業を知ったスペイン王は、、バルボアを臨時総督に任命し、二人で計るよう命令する。次の目標は、新世界の黄金郷を征服すること、すなわち、誰よりも先駆けてペルーを征服すること。しかし、兵員や物資の不足に悩まされ、今度は幸運に恵まれず、その功績を戦友のピサロに譲る。ピサロは、インカ帝国の征服者として知られる人物。バルボアの失敗は、ダビラの嫉妬の餌食に合い、断頭台へ送られる。
「運命というものは運命の寵児たちに対してさえ、決して過度に寛大であることはない。運命の神々は一人の人間に一つ以上の不滅の行為を恵んでさせることは稀である。」

2. コンスタンティノープル陥落のあっけない真相
オスマントルコの穏健な皇帝ムラード(ムラト2世)に代わって、ずるく精悍な若い王子マホメット(メフメト2世)が帝位に就くと、ビザンチンの人々を恐れさせた。トルコ人によって包囲され、最後の皇帝コンスタンティヌス・ドラガセスの帝位も風前の灯。ドラガセスは何度もイタリアへ援軍を要請するが、古来カトリック教とギリシア正教の遺恨は深い。
とはいえ、西方教会も東方教会も元を辿れば同じキリスト教であり、共通の強敵が出現すれば、ローマ法王の特使とギリシア正教の総主教グレゴリウスが肩を並べて和解のミサを行うという奇跡も起こる。しかしながら、歴史において、理性と和解の瞬間ほど、すぐに過ぎ去るものはない。聖堂の中で共同の祈りが行われている間も外では罵り合う始末。またもや狂信主義者どもによって引き裂かれた。
しかし、包囲戦が始まっても、千年に渡って補強されてきた難攻不落の城壁は、最新の大砲をもってしてもびくともしない。マホメットは、どんなに大金を払っても、新しい攻撃手段を作るとの声明を出す。大砲の鋳造家ウルガス、あるいはオルバスという名のハンガリア人はキリスト教徒で、以前コンスタンティヌス皇帝にも仕えていたという。彼は「弩砲」と呼ばれる新型の大砲をこしらえ、マンモスのような大砲の群れが城壁の前に出現した。だが、歴史を変える決定弾とはなりえない。
この時代のトルコとビザンチンの国境は地理的に分かりやすい。ボスポラス海峡のアジア側の海域がトルコ。深く陸地に入り込み、盲腸みたいな形をした「黄金の角」と呼ばれる湾港が、自然の要害となっていた。マホメットは、ハンニバルやナポレオンに匹敵するほどの空想家だという。湾港に船団を侵入させることが不可能と見るや、船団を山越えさせるという途轍もない計画を実行したとか。ハンニバルやナポレオンが、突然アルプス越えでオーストリア人を脅かしたように。だが、これも歴史を変える決定弾とはなりえない。
さて、城壁をめぐる激烈な攻防戦にあって、およそ起こりえないことが起こるものである。「ケルカポルタ」という城門だけが、なぜか?開いたままだったとか。平和時には歩行者たちの通用門として使われるちっぽけな門が、興奮のるつぼの中うっかり忘れられていたのか?歴史的な戦闘が、こんなにあっさりと城門を突破させるとは、なんと間抜けな話!

3. ヘンデルの復活に見る「メサイア」誕生秘話
1737年、急に倒れたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは四ヶ月もの間、まったく身動きができぬ無力の状態にあったという。話すこともできず、右半身不随となり、医者が諦めるほどの重病だったとか。短気な性格が、急激に精神を病ませたのか?医者が熱い湯に3時間以上入ってはいけないと警告したにもかかわらず、毎日9時間も入って意志力を回復させ周囲を驚愕させる。音楽に対する執念がそうさせたのか...
しかし、せっかく創作意欲を取り戻したものの、時代は彼に敵対する。女王崩御のための上演は中止され、スペインとの戦争が始まると民衆は音楽どころではない。評論家からは冷笑され、借金がかさみ、心は暗澹とし、ますます自己に閉じこもる。
1741年8月21日、そんな絶望の日に小包が届く。「サウル」と「エジプトにおけるイスラエル」の台本を書いた詩人ジンネンスからの手紙を添えて。
「新作の詩をお送りする、音楽のけだかい守護神、音楽の不死鳥が、願わくば彼の貧寒な詩に慈悲を垂れて、その翼に乗せて、永遠界の大空に天(あま)がけり給わんことを...」
お前まで嘲るか!と憤るヘンデル。もう一度、冷静に台本を手にしてみると、最初の言葉に「慰めあれ!」とある。この言葉が、彼の本能を刺激したのか?得体の知れぬ好奇心のようなものが、そうさせたのか?一度、肉体の麻痺から立ち上がらせたヘンデルを、今度は、精神の麻痺から立ち上がらせる。そして、歓呼のフレーズに出会う。「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!(神を頌せよ)」そう、あの名曲だ。三週間自室に閉じこもり、魔術的な素早さで完成させたという。時間の観念をまったく失い、リズムと拍子だけが支配する空間とはいかなるものであろうか...
1742年4月13日、アイルランドの首都ダブリンで講演。この演奏で得た金は、心を開いてくれた感謝とともに、すべて寄付することに決めたという。1759年、重い病にあるヘンデルは74歳。最後の審判を仰ぐ日を、聖金曜日としたいと願う。それは、ちょうど4月13日、メサイアの初演を飾った日。自分が更生されたその日に、世を去りたいというわけか。実際、この無比なる意志力は、死の時期までも支配することに...

4. 一晩だけ宿った才能が生んだ「ラ・マルセイエーズ」
フランスは、急進派の勢いでオーストリア皇帝とプロイセン王に宣戦布告。1792年4月25日、革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届く。市長ディートリヒ男爵は、大広場で宣戦布告文書をフランス語とドイツ語で読み上げた。初めての軍歌「サ・イラ」は、連隊の歩調とともに軍隊的な調子を帯びていき、カフェやクラブでも歌われる。ディートリヒは、乾杯の時に側にいた要塞守備隊のルジェ大尉が、憲法発布時に自由のための歌を作ったことを思い出し、明日進軍するライン軍のために軍歌を作ってくれと頼んだという。ルジェは、正当な理由もなしに貴族っぽいルジェ・ド・リールと名を変えていたとか。そして、翌日生まれたのが「ラ・マルセイエーズ」。凡庸な才能が、一晩にして天才的な霊に憑かれるとは...
この歌が革命の象徴へと育っていくと、逆に作曲家の名は忘れ去られる。ルジェ・ド・リールという名は、誰一人として顧みる者はなく、楽譜にも名が印刷されなかったという。しかも、この作曲家はまったく革命的でなかったとか。パリの民衆が「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら、チュイルリー宮を襲撃して王位を引きずり下ろした時、革命に酷く幻滅。共和制に宣誓するのを拒み、軍人としてジャコバン党に奉仕するよりも、軍籍から去ることを望んだという。彼は、外国の王冠をかぶった暴君たちを憎んだが、それに劣らず、国民議会の新奇な暴君たちと専制者たちを憎んだという。革命の公安委員会にも公然と反感を示し、革命の象徴を作った男が祖国を裏切った罪に問われた。まだしもギロチン刑にされれば、歴史に名を残したかもしれない。やがてフランス国歌となる作曲家は、地味なうちに人生を終えたという...

5. ナポレオンを百日天下とさせたグルシー元帥
歴史は奇妙な気まぐれによって、重大な運命をそれに相応しくない人物に委ねることがある。凡庸人は、高い地位を得たり、大金を得たりすると、ほんの束の間の幸せを味わうことに没頭する。更なる高みに上る機会を掴んでもなお欲望に溺れ、自己を高めようとはしないことが、凡庸たる所以であろうか。
ウォーターロー(ワーテルロー)の決戦の瞬間が、まさにそれだ。西洋史において、この時代ほどイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアの王侯たちが一致団結を見せたのも、珍しいのではあるまいか。北方からはウェリントンが進軍し、それにブリュッヘア元帥が指揮するプロイセン軍が続く。ライン河畔ではシュヴァルツェンベルクが戦備を整え、後方にはロシア軍。ナポレオンはプロイセン軍をや破り、その追撃を命じた。追撃隊を一任されたのはエマニュエル・ド・グルシー元帥、3分の1もの軍隊を任せる。20年間の数々の戦場で戦うが、目覚ましい功績もなく、ゆっくりと元帥まで昇進した人物だという。ナポレオンの天才的直感とは正反対に、自発的な行動に慣れない人物だとか。ナポレオンも、その器を見抜いていたらしいが、なにしろ忠実な人物。独裁的な人物ほど、やたらとイエスマンを好むようである。
しかし、戦争のような混沌とした状況では、応用力と決断力こそが決め手となる。雨の中、泥道をゆっくりと進軍し、敗走するプロイセン軍の足取りは依然つかめない。農家で朝食をとっていると鈍い轟音が。ナポレオンがイギリス軍を大攻撃しているのは明らか。副官は、大急ぎで砲声の方へ向かうべきだと進言する。だが、ひたすら服従で昇進してきた人物は、新たな命令がない限り、自分の義務から外れるわけにはいかない。副官ジェラールは、自分の分隊だけでも援軍に行かせてくれと歎願するが、拒否される。もう一人の副官ヴァンダームも、この判断に憤慨。その間、ウェリントンはフランス軍の4回の攻撃を押し返すものの、かなりのダメージを受ける。総攻撃を命じようとしたその時、森の中から援軍が現れた。どちらの援軍か?言うまでもなく、ブリュッヘア。3分の1の部隊が無意味にうろつきまわっている間に、プロイセン軍はいち早くイギリス軍と合流したのだった。わずか4時間の地点にありながら、いまだのんびりと追撃を続ける。副官たちは敗戦を悟ったのか、死に場所を求めるかのように森をさまよう...

6. 老人の失恋から生まれた芸術詩「マリーエンバートの悲歌」
1823年9月5日、カルルスバードからエーガーの国道をゆっくりと走る一台の四輪馬車がある。中には、ザクセン・ヴァイマル大公国の枢密顧問官フォン・ゲーテと、老僕と秘書ヨーンの三人。それは、沈黙の旅であったという。74歳のゲーテが19歳の娘ウルリーケ・フォン・レヴェツォフに求婚するも、確かな返事がもらえない。ちなみに、1822年2月、ゲーテは何度も意識を失うほどの重病にかかり、死を感じたという。医者たちも手の施しようのない病状だったとか。そりゃ、恋の熱病は誰にも治せんよ。
6月には、マリーエンバートへ行き、深夜まで女性たちと戯れたとか。お爺ちゃんが、マリーエンバートからカルルスバードへ愛する者を追うが、やはり返事はもらえない。心の中を秋風が吹き抜ける帰路で作られたのが、マリーエンバートの悲歌。
「人が苦しみのあまりに無言になるとき、自分で苦しんでいることを言い現わす術を、一人の神が私に授けている。」
昔馴染みのウェルテルにでも目覚めたのだろうか。人生の最後を恋で締めくくることができれば、なんと素晴らしいことだろう。こりゃ負けちゃおれん!と呟いて、さっそく夜の社交場へ消えていく一人の男を、鏡の向こうに見かける...

7. 西部開拓史を先駆けた破産屋
1834年、西部開拓史の始まりを予感させる時代、ヨーハン・アウグスト・ズーターという男が、妻子を置き去りにしてニューヨークへ渡ったという。破産屋、泥棒、手形偽造者の彼は、荷造人、薬種商、歯医者、売薬商人、居酒屋の主人、宿屋の主人などをやり、時流に乗ってミズーリーへ。そして、財産を売り飛ばして、誰も見極めていないカリフォルニアを目指す。
当時、哀れな漁村だったサン・フランシスコを見て、この土地が大農場に適しているばかりか、一つの王国を建てるに相応しいと感じたという。そして、知事と面会し、開拓権を得る。農場建設から、続々と入植者が流れこんできて、運河や製粉場や工場が作られる。やがて、蒸気機関車がアメリカ全土を横断し、イギリスやフランスの最大の銀行に資金を持つ。45歳で成功した彼は、見捨てた妻子を呼び寄せた。
1848年、使用人の大工ジェイムズ・W・マーシャルが土を掘っていると黄金が出てきたと、慌てて駆け込んできた。これでさらに富めるはずが、瞬く間に噂が広まりコールドラッシュ!銃で意志を通すしか知らない連中が大挙して押し寄せる。従業員たちも仕事が手につかず、巨大経営も停止。財は奪われ、またもや破産屋となる。妻子が到着した時、妻は旅の疲労で死に、三人の息子は静かに農業経営に励む。真の西部開拓史は、ズーターよりも、むしろ三人の息子によって受け継がれているのかもしれん。
1850年、カリフォルニアがアメリカ合衆国連合に組み込まれると、法の秩序がもたらされる。ズーターは、失った土地や運河や製粉場などの所有権を主張して倍賞請求する。1855年、裁判はズーターの権利を認め、世界最高の富豪に返り咲く。だが、またもや致命的な打撃を受け、破産屋へ引き戻す。判決が世間に広まると、民衆が暴動を起こし、裁判所を襲ったのだ。農園は焼かれ、財産は略奪され、長男は暴徒たちに強迫されて拳銃自殺、次男は殺害、三男はスイスに帰る旅で溺死。
辛うじて命を救われたズーターは、すべてを失って気が狂う。25年が過ぎ、数十億ドルの権利を請求しようと惨めにワシントンの裁判所の周りをうろついていると、そこに訴訟をそそのかす弁護士やペテン師がつきまとう。事件を派手に演出するために、おかしな将軍の制服を着せられたりと、不幸な男はまるで操り人形。役人たちの嘲笑の的となった彼は、乞食として死んでいったという。
「依然としてサン・フランシスコとその一体の土地は、他人の所有地の上に立っている。これについての権利のことが問題とされたことはまだない。」

8. ドストエフスキーの作風の転換点
夜中に突然眠りから引きずり起こされると、地下の幽閉室にはサーベルの音がガチャガチャ鳴る。馬車にいきなり押し込まれれば、まるで車輪に揺られる墓穴。行き先は処刑場。
中尉が宣告文を読み上げる... 銃殺刑!
コサック兵が目を布で隠そうとすると、見えなくなる前に辺りをむさぼり見る。光を失った瞬間、忘れ去られていた過去が蘇る。鼓動は静かに弱まり、突如として溢れる浄福感。弾丸をこめる音と、太鼓の音が空気を揺さぶり、その一瞬が永遠に感じられる。
その時、叫び声が聞こえた... 処刑中止!
士官が命令書を読み上げる。皇帝は聖なる意志によって恩赦を与えると。死は突然、こわばった手足の関節から立ち去る。これを機に、ドストエフスキーの作風が社会主義から、キリスト教的人道主義へ変化したとされる。
「そしてそのとき彼は、地上のすべての苦悩が、全世界にその悲しみを熱烈に叫びつづけているのを、今初めて聴きとった。ささやかな者らの声、弱い者らの声、むだな献身をした女たちの声、自嘲する娼婦らの声、つねにしいたげられる者らの黒い恨みの声、どんな微笑にも心をうごかされない孤独者らの声、すすり泣いて悲しみなげく子供らの声、そして、こっそり誘惑におちいった者らの無力な悲嘆、悩みをになっているあらゆる人々の声を彼は聞いた。... 死の中に生をさとった人間にとっては、苦悩が喜びに代わり、幸福が苦痛に変わる。」

9. 時間と空間の概念を変えた大西洋横断ケーブル
サイラス・W・フィールドは、技術屋でもなく、電気の知識もなかったという。だからこそ、海底ケーブルという単純な発想が浮かんだのかもしれない。そのために会社を設立するが、民間企業だけでは資金調達も難しく、国家を巻き込んだ大プロジェクトとなるは必定。こうした地道で遠大な事業計画は、ある種の使命じみた執念が必要である。専門家からも馬鹿にされる。なにしろ、水に弱い電気を海の中に通そうというのだから。
途轍もない遠距離の電線を運ぶだけでも、どんな船舶を用意すればいいか想像もつないし、電線を通したからといって性能テストがうまくいくかも分からない。嵐の吹く大西洋上で苛酷な作業を強いられ、リスクも高い。おまけに、電線の寿命も計り知れない。実際、電信記号が不明瞭になって、すぐに音信不通になったという。当初、あれほど称賛された電信は、無能呼ばわれ。フィールドは罪なき罪人として悪意のこもった憤慨の的となる。英雄に崇めた人物を、一夜にして大罪人に仕立てあげるのは、マスコミの常套。そして6年間、海底ケーブルは忘れ去られる。
19世紀の最も大胆な計画は、内戦や政治の激動によって話題をさらわれた。沈黙が破られるのは1865年のこと。先人たちの熱意が物理的障害を乗り越えて、今日のネット社会を支えている。大陸間の移動速度、情報の伝達速度は、飛躍的に進化した。
しかし、世界旅行で現地を気軽に見聞できるようになり、地域情報がリアルタイムで得られるようになれば、知識を高められ、普遍的価値というものに素早く到達できそうな気もするが、実際には遠ざかっている感がある。時間と空間の概念は、数倍、数十倍とムーアの法則に従って広がっているというのに。どんなに人体の周りが進化しようとも、内的時間と精神空間は変えようがないということか...

10. 未完成に終わったトルストイの戯曲「光闇を照らす」
1890年、トルストイは自伝的な戯曲を書き始める。それは、彼が計画した家出の正当化と、妻への弁明であったという。人生の決心を見い出せないまま、意志の放棄ゆえに、この戯曲は完成に至らない。主人公は、まったく途方に暮れたままで、ただ神に乞い求め、自己矛盾による分裂を早く終わらせるよう祈るのみ。すべてを清算し、家出を敢行するのは、精神の浄化を求めてのことか?いや、現実逃避か...
ツヴァイクは、この未完に仕えながら終曲を綴る。主人公は、サリンツェフという二重人格者ではなく、トルストイという実存者。
学生は議論を持ちかける... 革命に参加すべきだと、大義名分を大切にすべきだと、数々の人命が牢獄で滅んでいく様を知っているあなたなら、それを文章に書き続けるあなたなら、と...
トルストイは反論する... 暴力を是認したことはないと、暴力なんぞで悪を世界から根こそぎ排除できるなどと本気で思っているのか?それこそ思い上がりだ、と...
「まことの強さは暴力に対して暴力をもってこたえることをせず、その力は謙虚さと通じて相手を無力ならしめるのだ。」
その一方で、贅沢な生活を見捨て、巡礼となって旅することが、自分の義務であることを告白する。自分の人生を心の底から深く恥じると。この悩みまでも自慢するとしたら、まさに思い上がりであると。
「たといただ一つの生命でも、その生命の死の責任がわたしにあるということになるなら、わたしは自分の良心に対してその弁明をすることができまい。」
80を過ぎれば、死を見ないふりをすることはできない。死を目前にしてこそ、決意すべきことがあるはず。学生の問うた、実行すべきことを実行しない理由、それは魂の臆病さにほかならない。そして、遺言をしたためる... 全財産を全人類に捧げると、切羽詰まった良心から発した言葉を金儲けの道具にしてはならないと...
トルストイの妻ソフィアは世間では悪妻と評されるが、ツヴァイクは、死を前に妻を証人として呼び寄せ、彼女をヒステリックにさせたのは夫に責任があることを感じているかのように演出する。娘アレクサンドラ(サーシャ)をともなって家出を決心。これが最後の巡礼の旅となる。そして、小さな停車場アスターポヴォの駅長の宿舎で息を引き取る...

11. 南極点到達で名声は奪われたものの、真の研究家であり続けたスコット大佐
人類の飽くなき知への渇望は、とどまるところを知らない。ナイル川の源泉、アマゾンの森林、チベットの屋根... ついに人類を極点へ導くが、数十年も企てられてきた氷の館は、死骸が横たわる氷の棺と化す。33年後、ようやく発見された亡骸は、スウェーデン探検家アンドレー。気球で北極を越えようとした男だ。
アメリカでピアリーとクックが北極探検の準備をしていた頃、ヨーロッパでは二艘の船が南極に向けて出発。ノルウェーのアムンゼンとイギリスのスコット。スコットは真面目で義務感の強い人物だという。何が彼を冒険に駆り立てたのか?全財産を犠牲にしてまで。船の名は「テラ・ノヴァ(新しい土地)」。彼は風変わりな準備をしている。ノアの方舟のごとく、いろいろな動物を積み、船そのものが近代的な実験室のように研究器具を備え、一行には、動物学者、地質学者、技術者など様々な専門家を伴う。計画は壮大な冒険であるものの、緻密に計算された科学調査団のようである。
1910年6月1日、イギリスを出航。ニュージランド側のエヴァンス岬附近に越冬の家を作る。ところが、西方を探索した者たちが、アムンゼンの越冬の家を見つけて愕然とする。この家が、地図上で110キロメートル極に近い位置にあることを知ったのだ。科学調査団は、突然、冒険家に変貌。しかも、国の威信をかけた。もし、アムンゼン隊を偶然見つけなかったら、緻密な計画の上で無事帰還することも適ったかもしれない。
愛情をそそいできた動物たちを殺しながら、白い荒野をさまよい、30人の隊列は20人になり、10人になり... ついに決行のために選抜された5人は、スコット、バウアース、オーツ、ウィルソン、エヴァンス。最初の功績という歴史的な手柄とは、よほど魅力があるものと見える。もはや名誉だけが意志を支える。そして、南極点に到達するが、アムンゼンのキャンプの痕跡を見つけ、悲しげにユニオン・ジャックをアムンゼンの勝利の旗と並べて立てた。帰路はさらに苛酷となる。行きは羅針盤によって極点に導かれるが、帰り道は見失ったら終わり。不名誉な帰国に意志も挫け、病に一人倒れれば、足手まといにならぬよう死に突進。それでもなお科学者たちは、観測の義務を怠らない。16キロもの重量の珍奇な鉱石を積みながら...
一方、目的地まで同行する名誉を得られなかった仲間たちは、数週間、一行の帰りを待つ。救援しようにも悪天候に見舞わる。南極の春は遅い。10月になって、英雄たちの遺骸と遺言を見出すために出発。そして、凍死した悲壮な姿を発見する。
スコットは、到達競争という意味では敗れた。しかし、だ。貴重な標本を残したという意味ではどちらに軍配を上げるだろうか?歴史の勝利は、ちょいと視点を変えるだけで違ったものに映る。人類の目的が、叡智を伝承することにあるとしたら。実際、南極の景色が、乾板やフィルムとして残され、スコットの手記も貴重な情報をもたらしたという。
「わたしは自分が探検家として価値があったかどうかを知らない。... しかしわれわれの実行の結末は、勇気の精神と克己力とがわれわれの種族から今なおなくなっていないことを証明するだろう。」

12. レーニンを革命家に導いた封印列車
世界大戦の間、四方面から囲まれた中立国スイス。それだけに推理小説の舞台としては絶好だ。交戦国の外交使節、経済界の要人、ジャーナリスト、政治家たちが入り混じり、スパイの組織網が互いにしのぎを削る。そんな場所に、情報の材料にほとんどならない人物がいる。カフェにも行かず、口数も少ない。隣人ですらロシア人であることを知らない。しかし、毎日規則正しく図書館へ行き、決まった時間にきっちり帰る。多くを読書し、孤独に学ぶ人物が、世界を驚かせる革命をもたらすとは...
1917年、革命が勃発したとのニュースが飛び込むと、亡命者たちはロシアへ帰国できると歓呼する。偽の旅券を使わず、本名を隠すことなく、堂々と。だが、数日後には失望。ちっとも革命ではなく、政府上層部がドイツとの講和を締結させまいとする、ツァーリに対する叛乱であった。主戦派と帝国主義者、そして将軍たちの陰謀であり、市民革命ではなかったのだ。
レーニンは、マルクス主義的な革命を欲し、なんとか帰国できないかと模索する。ドイツはロシアとの和睦を求めており、ドイツの外交ルートを利用すれば、帰国の道が開けるのではないか。しかし、戦争中に敵国に入ることは、国家反逆罪となる。それを覚悟した無名の亡命者は、既に将来のロシア代表者であるかのように条件を伝え、ドイツ政府に好意を示す。条件とは、列車に治外法権が承認されること。ドイツは焦っていた。アメリカが宣戦布告したからだ。
そして、ドイツ政府の援助で封印列車を確保し、スイスからドイツを経由してペテルスブルグに到着。当時、ペトログラードと呼ばれていた町は、祖国癖に憑かれた愛国心に見舞われ、再逮捕されるのではないかという懸念がある。しかし、亡命からの帰国者は、民衆に盛大に歓迎されるのだった...

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