2014-11-30

"昨日の世界(I/II)" Stefan Zweig 著

歴史とは、客観的に語られてこそ、より輝きを放つもの。だが、ツヴァイクは、あえて自我を主役に据えた歴史小説を綴る。大量殺戮の世紀と化した20世紀の証言者という使命を背負うかのように...
しかしながら、自我を綴ることは危険だ。自ら無へ帰することになりかねない。
「私が物語るのは、私の運命ではなく、ひとつの世代全体の運命である...」
こう記した二年後、亡命先のリオ・デ・ジャネイロで、再婚して間もない夫人と共に命を絶つ。これはツヴァイクが残した最晩年の自伝書であるが、ヨーロッパ文化が残した遺書と言うべきかもしれん...

近い過去にあっては人間悲劇、遠い過去にあっては人間喜劇となるのが、歴史というものか。同じ愚行を繰り返しているだけなのに、時間の観念のみが心持ちを変える。同じ言葉を発しても、同世代の人間にはライバル意識を燃やし、大昔の偉人には素直に耳を傾けることができる。そのくせ死人に口なしの原理に縋って、過去の人たちに子どもじみた議論を持ちかけては欠席裁判を仕掛ける。
講和を唱えようものなら、ヨーロッパでは敗北主義者と罵られ、日本では非国民と罵られた時代。自由論者も平等論者も同じく狂気し、もはや勝利か!破滅か!の選択肢しか与えられない。この物語の影には、不可能な賠償金を課せられ、空前のハイパーインフレに喘いでいた経済を、あっさりと立て直した独裁者の演説に陶酔する大衆がつきまとう。政治家ってやつは、経済政策さえうまくやれば、少々悪い政策を持ち込んでも大衆を黙らすことができると考える。そして、知らず知らずのうちにメフィストフェレスに魂を売るのだ。
「歴史は、同時代人には、彼らの時代を規定している大きなさまざまな動きを、そのほんの始まりのうちに知らせることはしない、というのが、つねに歴史のくつがえしえぬ鉄則である。そこで私も、いつ初めてアドルフ・ヒトラーの名前を聞いたのかをもはや思い出すことはできない。」

ツヴァイクがユダヤ人としてウィーンに生を享けた1881年、神聖ローマ帝国が解体されたとはいえ、依然ハプスブルク家はオーストリア = ハンガリー帝国として強大な勢力を保っていた。芸術の都ウィーンは、まだ世界市民的な風潮が旺盛だったようである。文化だけでなく民族的に、ドイツ人も、チェコ人も、ユダヤ人も、時には愚弄しあうことがあったとはいえ、共存共栄の下で暮らしていたという。
やがて、新たなスピードの時代が訪れる。自動車や航空機などの機械化が進み、電話やラジオが普及すると、憎悪のヒステリーを世界中に感染させていく。その意味では、グローバリズムの波に対抗して愛国心を煽ったり、インターネットの普及によって欺瞞情報を瞬時に拡散させる現代と何が違うというのか。人間社会ってやつは、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強いようである。普遍的な学問よりも金儲けの手段を学ぶ方が手っ取り早いし、子供じみた衝動に駆られ続けるのは、何千年もの昔から変わらない。究極の知性人が、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは必然なのか。彼らには、寒山拾得のごとく社会から距離を置き、あるいは、世間の目に晒してはならないシャングリ・ラのような保護区が必要なのかもしれん。
ツヴァイクもまたそうした知性人たちの例に漏れず、やがて勃発する第一次大戦に絶望し、わずかな望みを託した国際連盟にも絶望し、さらに第二次大戦へ突入するだけでは飽き足らず、ゲットーを目の当たりにして、人間というものに完全に絶望し、その批判的言論が亡命生活を余儀なくされる。
「しかし、私はそれを嘆くまい。故郷なき者こそが、新しい意味において自由であり、何ものにも束縛されない者のみが、もはや何ものをも顧みる必要がない。」

1. ファシズムとステレオタイプ
ツヴァイクが、「マリー・アントワネット」や「ジョゼフ・フーシェ」のような伝記小説を残したのは、フランス革命に始まる民主主義の本性を暴きたかったからかもしれない... と、なんとなくそう思いながら読んでいる。
「ジョゼフ・フーシェ」は、不本意ながらナチズムの国家主義者たちに愛読されたようである。確かに、政治陰謀のバイブルのような小説だ。人間社会には常に集団的な野獣性が潜んでおり、政治戦略はこれをいかに利用するかにかかっている。フロイトは、破壊的な衝動によって理性が簡単に無力化される性質を指摘し、パスカルは、人間を狂うものと定義した。集団性の前では、理性とてファシズム化する。禁煙ファシズム、環境保護ファシズム、動物愛護ファシズム、絆ファシズム...
理性人どもが、なんでもかんでも、けしからん!不謹慎だ!と憤慨すれば、冗談も言えない窮屈な社会となる。笑いの情念は高等な動物にしか持てないとされるが、笑いの質こそが人間社会の成熟度を測る物差しとなろう。
「人間の性質のうちには寛濶に答えるには寛濶をもってし、充溢に答えるには充溢をもってする、というところがある。」
価値観の多様化が進む現代社会にあってもなお、多数派に反対するには勇気がいる。一般市民が魔女狩りのごとく追求し、全体思想を押し付ける風潮があるのは、いつの時代も変わらない。おまけに、有識者どもが率先して吹聴する傾向がある。ファシズム、ナチズム、ボルシェヴィズムといった悪疫は、いずれもナショナリズムが高揚した形で現れた。政治屋どもが正義を掲げれば、報道屋どもはもっと大きな正義を掲げ... 正義の暴走ほどタチの悪いものはない。メディアには公平性と客観性が求められるが、現在のメディアとて、一斉に持ち上げるだけ持ち上げ、叩けるだけ叩き、どちらか一方に傾倒する。いまや、どこの国も民衆の意志は一枚岩ではない。ダブルスタンダードどころかマルチスタンダードだということだ。だが、いつの時代も、国粋主義的な風潮とステレオタイプ的な視点が強調され、傍観と無関心な態度が彼らを暴走させる。そりゃ、ヒステリーな熱狂者と関わりたくはないが、政治ってやつは、性質上こうした連中と結びつきやすい。自国に誇りを持つことと、他国を蹴落とすことでは、まったく意味が違うというのに。民主主義の成熟度は、国粋主義的な傾向の度合いや、ステレオタイプ的な見方の強弱によって測れそうか...
「安定という言葉をずっと前からひとつの幻影として、語彙から消し去ってしまったわれわれならば、あの理想主義に眩惑した世代が、人類の技術的進歩は同じように急速な道徳的向上を無条件にもたらすと信じたその楽天的な幻覚を、冷笑するのもたやすいことである。」

2. 人生大学
「私にとっては、良書は最良の大学のかわりをする、というエマーソンの原理が、確固として妥当し続けて来たのである。人は大学、あるいはギムナジウムにさえも通うことなくして、すぐれた哲学者、歴史家、文献学者、法律学者、そのほかの何にでもなりうる、と私は今日でも確信している。」
生の万象を示してくれる人生の大学を求めて、書物を漁ってまわるのも悪くない。若い頃は、優れた人物から学ぶことも大きいが、同世代の仲間と議論することの方が、より多くを学べたような気がする。本質を学ぶ資質は、政治的な態度に毒された大人よりも、純粋に学びたいと欲する子供の方が優っているのだろう。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。偏見に見舞われれば、自己の正当性を主張するのに必至になる。
ツヴァイクの交友関係は、実に広い。少年時代に出会った天才ホーフマンスタールの衝撃に始まり、ヘルツル、リルケ、ヴェルハーレンとの交友を語り、ロラン、ジイド、ヴァレリー、トーマス・マン、バルトーク、フロイト、ゴーリキーといった知識人との回想を織り交ぜる。彼らは、生き証人としての義務を果たすかのように協力しあう。偉大で悲惨な時代だから、互いに引きつけたのだろうか。平和で凡庸な時代では、真の自由について考えることもあまりない。ちなみに、フロイトを真理の熱狂者と呼び、彼はこう語ったという。
「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはありませんね。」
狂気の社会では、冷静に物事を考える人間を排除し、子供じみた虚栄心や野心が旺盛となり、エリートほど危険な存在となる。教科課程が生徒を平均化させることを意図し、多数派に属することで安住できるように仕向ければ、権威主義が蔓延り、軍部の思い上がりが民衆を先導する。国家主義を育むには、実に都合のいい構図だ。
政治の思惑が、自己実現をいかに廻り道させてきたことか。粗暴に加担しないというだけでは充分ではない。戦争責任は政治指導者にあるが、独裁者一人でやれるものではなく、民衆の後ろ盾が必要だ。集団の不自然さ、すなわち、無関心を装い傍観者であり続けることが、戦争という不自然な現象を招き入れる。虚栄に乱されず、自由で朗らかな人間でありたいものだが、俗世間の泥酔者には、大人になっても似た者同士で集まることぐらいしかできん。困ったものよ...

3. 引き金の繰り返し
1914年の大戦は、フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボで暗殺されたことが引き金となった。だが、この帝位継承者は大衆に人気がなく、愛嬌や人間的魅力に欠けていたとか。対して、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の唯一の子息ルードルフは、感じのいい皇太子だったという。ルードルフはマイエルリンクで銃で死んでいるのを発見されるが、この事件については陰謀説がくすぶる。
しかし政治的には、サラエボ事件の犯人は、ボスニア系セルビア人とされ、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。独墺伊の三国同盟にあったドイツも宣戦布告し、英仏露の三国協商にあったロシアがオーストリアへ宣戦布告すれば、連鎖反応で世界大戦となる。
では、1914年の悲惨を経験しながら、なぜ、1939年にも同じことを繰り返したのか?ツヴァイクの答えは単純だ。1939年には、1914年と同じぐらい子供らしい素朴な信仰を持ちあわせていなかったと。皇帝フランツ・ヨーゼフが84歳にして血の犠牲を欲したことを、誰も疑問に思わなかった。そんなことが、1939年にも起こったというのか...
ヴェルサイユ条約の破綻に幻滅すれば、外交を軽蔑する。ウィルソンの偉大な綱領を信じたところで、はたまたロシア革命に希望を持ったところで、再び地獄に引き戻される。時代は、チェンバレンの妄想的な平和宣言よりも、戦争屋チャーチルを欲した。当初、単なる国境や植民地のための戦争ではなく、イデオロギーの戦争であったはずが、科学の進歩とともに無差別攻撃を容認し、非戦闘員までも犠牲にした。もはや戦争は、勇気と誇りの象徴ではなくなり、憎悪とヒステリーの代名詞となった。シェイクスピアはドイツの舞台から追放され、モーツァルトやワーグナーはイギリスの音楽堂から追放され、道理に適った会話は不可能となり、平和を好む人々までも血の臭いに酔いしれる。結局、二つの大戦は同じ悲劇を繰り返しただけだった。引用されるシェイクスピアの言葉がいつまでも残る...
「こんなに汚れた空は、嵐なしではきれいさっぱりとはならぬわい。」

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