歴史は得てして、凡庸な人物に命運を託すことがある。単に無思慮で、はしゃぎ好きな娘を、王党派は偉大な聖女に祭り上げ、共和党派は堕落女と罵声を浴びせる。フランス革命という急進的な時代にあって、大衆を敵に回し、魔女狩りのごとく処刑されていく命運とは。ハプスブルグ家の皇女という誇りが、そうさせたのか。民衆は魔女の戯言に同情するほど余裕はない。世論の捌け口とされるがゆえに、今日英雄として担がれた人物が、明日には悪魔として駆逐される。共和政治が恐怖政治と化すのに、大して手間はかからない。パスカルが書いたように、やはり人間とは狂うものらしい。狂気した者は、狂気の結末を求めてやまない。自らを悲劇の英雄に仕立て、自己の中に人生という歴史を刻み、自己完結できればそれでいいのだ。はたして狂気した者が、狂気していることに気づくことができるであろうか。感動的な芝居をうつのに、英雄的な資質など必要としない。いや、芝居かかっているから歴史なのかもしれん...
さて、シュテファン・ツヴァイクという作家を知ったのは、著作「ジョゼフ・フーシェ」に出会ってからのこと。おいらが知る歴史書、いや推理小説の中でベストテンに入る作品である。
正直言って、マリー・アントワネットの印象は、贅沢三昧に溺れた浪費家の自爆ぐらいにしか映らない。むしろ、彼女をヒステリックに追いやった夫ルイ16世の無気力と優柔不断さ、もっと言うなら、太陽王の影で惰性的に王位に就いた継承者たちの不甲斐なさの方が、歴史的に意味がありそうに映る。
ヴェルサイユ宮殿の栄華は、フリードリヒ大王をはじめとする王侯たちの憧れであった。しかし栄華とは、偉大な政治的意志が伴ってはじめて花開くもの。後継者たちは国家財政を窮地に陥れただけの存在でしかない。もちろん王妃も同罪だ。数々のスキャンダル沙汰に囲まれながら大衆の餌食となっていく様に、これといって陰謀めいたものを感じない。女の面子を競って虚栄を張り、煮え切らない浮気心を覗かせ、せいぜいルイ14世が残した負の遺産を目立たせるぐらい。この派手好きな人物をツヴァイクならどう描くだろうか、凡庸な人間像から迫る歴史叙述とは... 興味はただこの一点にある。
「王妃マリー・アントワネットの物語を綴るということは、弾劾する者と弁護する者とが、たがいに激論のかぎりをつくしている、いわば百年以上にもわたる訴訟を背負いこむのと同じことである。」
ツヴァイクは、歴史文献の扱いの難しさを問いかける。そして、確実な文献であるはずの自筆の手紙でさえ信頼できないと指摘している。王妃の書簡と称するものは、ほとんど自身の著名が残されているそうだが、短気で落ち着きのない性格となれば手紙の書き手としても無精で、彼女自身がサインをするのは稀だという。大胆不敵にも天才的な偽造者がいるというわけだ。書簡集だけでも大儲けできるとなれば、マリー・アントワネット物語とは偽造の歴史というわけか。
ツヴァイクは、偽造の張本人を名指しする。書簡集の出版者フィエ・ド・コンシェ男爵にほかならぬと。有数な外交官で、異常な教養の持ち主だとか。落ち着き過ぎた丸味のある書体はいかにも胡散臭いし、あまりにも巧みに筆跡、文体を真似ているために、本物と偽物の見分けもつかないとぼやく。したがって、フィエ・ド・コンシェ男爵の文献は、容赦なくいっさい顧慮しなかったという。
「歴史的著述の末尾には、利用した文献をあげるのがならわしではあるが、マリー・アントワネットという特別の場合にあっては、いかなる文献を、いかなる理由から利用しなかったかを確めておくほうが、私にはより重要なことと思われる。」
口述文献においては、手紙よりも事情がさらに酷い。歴史の証言には、政治的に改竄されてきた口述で溢れている。フランス革命の熱狂にあっては疑わしい証言ばかりで、傀儡的な侍女や召使たちが好き勝手に喋る有り様。身の毛のよだつ恐怖政治の下では、まともな証言はすべて抹殺される。しかし、それが集団的狂気の中で起こった出来事だとすれば、現在の情報社会における集団的暴走と何が違うだろうか?
「国民大衆というふしぎな実体は、いつも擬人的に、まったく人間的にだけものを考える習いがある。概念なぞいうものは、大衆の理解力にとっては、けっして完全に明瞭になるものではなくて、ただその概念を具現している人物だけがはっきりしているのである。」
モーツァルトがマリー・アントワネットに求婚したという話から、更に懲りずに、処刑の際、誤って刑吏の足を踏み、丁寧にごめんなさい!と言ったという話... これらの逸話は、フィエ・ド・コンシェ男爵の作品だそうな。そして、いかにも読者を喜ばせ、朗らかな印象を与える逸話を、本書の中に見つけることができず、読者をがっかりさせるだろうと断っているが、どうして!どうして!
マリア・テレジアとの往復書簡にしても、完全に公刊されると言われながら、極めて重要な部分が非公開になっているそうな。本書は、そうした箇所を存分に取り入れている。それでも真相は闇の中、当人にしか知り得ないことに変わりはあるまい。歴史上の人物に興味を持たせるために、是が非でも人物像を理想化し、感傷化し、英雄化する必要はない。人間を人間らしく伝える、これぞ歴史叙述というものであろうか。
とはいえ、激動の史実を語るのに、文学的な脚色は不可欠だ。ルイ16世との悲愴な愛の苦悩と、スウェーデン貴族フェルセンとの純愛の讃歌が対照的に描かれるところに、文学の美を醸し出す。歴史をいかに紐解くかという観点から、歴史叙述を推理小説風に展開する手腕は相変わらずだ...
1. ブルボン家とハプスブルグ家の婚姻
ブルボン家ではルイ14世が世を去り、ハプスブルグ家でもカール6世が世を去ると、女帝の時代に突入する。その典型的な形は、フリードリヒ大王に対抗して、ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア、ロシア女帝エリザヴェータ、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の三人が包囲した戦争に見て取れる。フランス王国では、ルイ15世、ルイ16世と惰性的な王が続き、王妃や愛妾が宮廷を牛耳るようになる。何世紀もの間、ハプスブルグ家とブルボン家はヨーロッパの覇権をめぐって戦争を繰り返してきたが、ついに両家とも疲れ果て講和を求める。ハプスブルグ家は、巧みな婚姻外交によって領土を広げてきた備えから、いつの時代にも結婚適齢期の女性で事欠くことがない。
では、誰をルイ15世に輿入れさせるか?年齢順に候補を募ると、雲隠れするは、その気はないはで、なかなか決まらない。1766年、ようやくルイ15世の孫と年齡で釣り合うマリア・テレジアの娘の名があがる。マリー11歳のこと。だが、13歳になってもドイツ語もフランス語もまともに書けない不勉強で能天気な怠け者、これを教養ある貴婦人に仕立てあげるには骨が折れる。フランス側からオルレアン司教の推挙で、ヴェルモン神父が傅育官としてウィーンへ派遣される。神父がフランス王妃に相応しいと本当に判断したかは知らないが、見た目だけなら上品そうで明るい性格だし、ちと無理のある報告で、ルイ15世はようやく結婚を承諾する。ちなみに、神父は、利発だが怠慢で、皇女の教育は自分には手に余ると漏らしたとか、漏らさなかったとか...
華燭の典は、両家の誇りや見栄のために盛大に行われた。財政緊縮を迫られているというのに。豪華極まりない祭典に民衆がわき、幼い新王妃が有頂天となるのも仕方があるまい。だが、民衆とは移り気が激しいもので、何事も賛否両論があり、その力関係は振り子のように揺れ動いている。いつの時代も、政治家はこの流れが読めないで苦慮する。既にフランス革命は、ここに運命づけられていたのかもしれん...
2. 宮廷喜劇
ルイ16世は優柔不断もさることながら、異常に無気力な性格の持ち主。寝室でも、内気のせいか?経験不足か?愛撫もできず、7年間も実質的な夫にはなれなかったとか。宮廷で不能が噂され、物笑いの種。マリーは、女として妻として恥辱をこうむってきた。
ツヴァイクは、ルイ16世の精神状態を、男性的弱体に由来する劣等感の典型的な症例であると、臨床医学的に解説している。男の性格に及ぼす現象と、女のそれとでは、夫婦でまったく正反対になるという。男の場合は、性的能力に障害があると、抑圧に悩み、無気力となり、女の場合は、受け身で献身的な態度が実らないと、怒りやすく、自制心を失うと。
また、皇室の圧力は、余人には想像もつかないものがある。「マダム・エチケット」と渾名されるノアイユ伯爵夫人の口うるさい説教から逃れようとする日々。マリーの場合は、感受性が強く、情熱的な乙女だけに、余計に爆発したと見える。なにしろ、22歳まで処女だったのだ。遊び好きはエスカレートし、毎日朝帰り!
「私は退屈するのがこわいのです。」
享楽というものは恐ろしい。真の自由を与えないばかりか、まったくの奴隷にさせる。社交界では、独りでいることもできない。そんな王妃に、気弱なルイ16世は小トリアノン宮を贈る。もともとは、ルイ15世がデュバリー夫人などの浮気のために使った宮殿だとか。なによりも束縛を嫌うマリーは、ここに絶対不可侵な国を作り、美術品や装飾品で埋め尽くしてロココの女王となった。
商売に抜け目のない装身具屋が、彼女の気性を利用しない手はない。今日はどの衣装にするかという気まぐれな悩みは、侍女や裁縫師や刺繍師たちを忙殺する。贅沢こそが、着飾ることが、義務だと言わんばかりに。実際、そう思っていたのかもしれん。
それはともかく、夫婦仲がうまくいかなけば、フランスとオーストリアの同盟が危うい。さすがに母マリア・テレジアも娘を説教し、兄の皇帝ヨーゼフ2世は義弟のルイ16世を励ますために、わざわざパリへ赴く。そして、長年の不能から、ついに誇らしげに妊娠が報じられる。だが、贅沢病は死んでも治りそうにない...
3. デュパリー夫人との確執
宮廷は二派に分かれた。ルイ15世の妃は既に亡く、婦人仲間で最高の権威をめぐる争いは、王の三人の娘に帰するはずだった。だが、愚かな三人娘は、やることなすこと不手際。謁見の際、上席を占めたり目立つこと以外に、地位を利用する術を知らない。へつらったところで地位を世話してくれるわけでもなく、なんの見返りもないとなれば、影響力を失うばかり。
そして、栄光と名誉は、ルイ15世の寵妾デュバリー夫人に帰する。デュバリー夫人は下層社会の出身で、貴族の片割れという肩書を手に入れるために、いいなりの情夫に金を出させ、無類の好人物デュバリー伯爵を手に入れたという。そして、伯爵は結婚後すぐに身を引き、夫人は王のお気に入りとなる。
そんなところに、マリーが輿入れしてきたものだから、デュバリー夫人を快く思わない連中が近づく。ただ、形式上の地位はマリーの方が上で、自然に振る舞っていれば威厳を失うはずもない。儀礼の上では下の者から言葉をかけるわけにはいかないので、ちょいと王妃が声をかければ済む話。しかし、この意地っ張りは冷然と嘲笑うがごとく、いつまでも言葉をかけず、徹底的に無視することによって決闘を挑む。宮廷では、どちらが勝利するかの話題で持ちきり。実にくだらん!
しかし、これが同盟の危機となれば話は別だ。母マリア・テレジアの耳にも入り、外交ルートを通じて、戦争になるぞ!とちょいと脅せば、マリーは涙ぐむ。1772年、ついにヴェルサイユ宮殿の観客を証人とする中で、デュバリー夫人の勝利で決着。誰もがマリーの言葉を聞き漏らすまいと静寂する中、ひとこと口にした。
「今日は、ヴェルサイユは、たいへんな人ですこと。」
だが、一度母に譲歩したからには、デュバリー夫人に二度と声を聞かせないと決意したとか...
4. 首飾り事件
1785年、王妃の名を語った詐欺事件が発生。大掛かりな詐欺には、二つの要素が揃わなければならない。一つは大ペテン師、二つは大馬鹿...
ヴァロワ家のラ・モット伯爵夫人は宮廷に知り合いがなく、いきなり奇襲をしかけたという。歎願者に混じって応接間に現れるや突然倒れ、長年の飢餓と衰弱によって涙ながらに同情を集める。すると年金が増額されたとか。味をしめて二度、三度と倒れて見せるものの、胡散臭く見えてくる。そして、軽信家ド・ロアン大司教に近づく。ロアン大司教は、マリーを男にしたような人物だという。軽率、皮相、浪費、無頓着。聖職者でありながら、まったく世俗的で、陽気な遊び好きとくれば、マリーと馬が合いそうな...
それはさておき、ラ・モット夫人は、ロアン大司教に王妃の親友だと語り、宮廷御用宝石商ベーマーに首飾りを買いたいと伝え、160万リーブルもの宝石を騙し取った。この事件が明るみになると、浪費家で名高い王妃の責任を問う世論が巻き起こる。潔白を証明しようと裁判に持ち込んでも、証拠物件が見つからない。というのも、ラ・モット夫人の夫が首飾りの一切をロンドンへ持ち逃げしていた。偽造文書も焼却され、本当に偽造があったのか?王妃が隠し持っているのではないか?という噂が広がる。
ことごとく関係者と思われる人物が逮捕されていく中、結局、ラ・モット伯爵夫人だけが有罪。そして、V字の焼き印を胸に押されるという戦慄な処罰が行われる前で、民衆の同情が集まる。この裁判の勝者はいないが、少なくとも敗者は自ら法廷に持ち込んだ王妃であった。この事件で、マリーは初めて自信を失ったという。
優柔不断なルイ16世は、裁判後、辛うじて大司教の職を奪い、関係者数人を国外追放にしたのみ。ラ・モット夫人は、暗闇にまぎれて獄舎の扉を開き、イギリスへ亡命。脱獄できたのは司法取引であろうか?狡猾な女ペテン師は、再び宮廷と瞞着する。口止め料をもらって回想録を発行し、自分が犠牲者であったことを告白。暴露本には、ロアン大司教とマリーの親密な関係までも掲載されたという。もちろん事実無根。スキャンダル沙汰というものは、面白おかしく飾り立て、報道屋の餌食にされるものだ。それこそ首飾りのように...
「マリー・アントワネットは、頸飾り事件の奇々怪々な奸策陰謀に対しては全然無罪ではあるが、このような詐欺が彼女の名においてともかくおこなわれ、また信じえられたという点にいたっては、彼女の歴史的罪であったし、また歴史的罪たるを失わない。」
5. フランス革命勃発
アメリカ独立戦争から帰国した志願兵たちが、かの戦地で目の当たりにしたのは、宮廷もなければ国王もいない、貴族もいない、市民と市民がいるだけの社会。王政がもたらす秩序が、神の意志に基づく唯一のものでもなければ、最上のものでもないということだ。それは、ルソーの「社会契約論」にもはっきりと謳われ、ヴォルテールやディドロの著述にも表れる。
1789年、ついに国民議会が爆発。この国の支配者は国王と国民議会のどちらか?瞬く間に革命の象徴となる三色旗が掲げられ、至るところで軍隊が襲撃され、パリの町は勝利に酔いしれる。
ところが、この世界的事件のさなか、わずか10マイル先のヴェルサイユでは誰も気づいていない。ルイ16世は、バスティーユ襲撃の報を受けても断を下さず、10時には睡眠に入る始末。当時、革命という言葉がどれほど認知されていたかは知らない。フランス革命によって知れ渡った言葉といえば、そうかもしれない。ここに国家と国王の新旧イデオロギー対決が始まる。それは、王族の繁栄と国家の繁栄とが区別されはじめた時代だ。鈍感なルイ16世が、この事態を呑み込めなかったのは無理もない。王妃はというと、感覚的にモノを言う人であることはとっくに分かっている。王室の立場しか理解できない彼女にとって、自分に反対する者は、口やかましいヤツぐらいにしか思っていないだろう。
王家は、ルイ14世以来百五十年このかた、住まいとして使っていなかったチュイルリー宮に幽閉される。そこに、オノーレ・ミラボー伯爵が宮廷に援助を申し入れ、国民議会との仲介役を買って出たという。だが、ミラボーは暴動を引き起こす天才だとか。王家にその人格を見抜く力などあろうはずもない。歴史の激動期には、必ずこの手の魔神的な人物が暗躍するもの。ツヴァイクは、彼ほど二股膏薬を演じた者はない、と評している。
しかし、王室を手玉にとった男も、1791年、忽然として死去。その二年後、王と内通していたことが暴露されると、肉体を墓所から引きずり出され、皮剥場へ投げ捨てられたとさ。ミラボーの死によって国民議会との唯一のパイプを失い、宮廷側は完全に沈黙する。
6. フェルセンとは何者か?
スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、マリーの愛人として片付けられることが多い。だが、ツヴァイクはこの人物に重要な役柄を与えている。
フリードリヒ大王と敵対する国々は、フランスとオーストリアの同盟関係に注目している。スウェーデン国もその一つ。フェルセンとスウェーデン王との書簡のやりとりが、いずれスウェーデン国で要職に就くことを予感させる。彼は、ラシュタット会議、すなわち神聖ローマ帝国とフランス革命政府との講話会議で、スウェーデン国代表を務めている。王党派の情報は筒抜けだったのかもしれない。スウェーデン王グスターフ3世は、こう記しているという。
「王一家の運命に寄せる余の関心がいかに大であるとはいえ、しかもなお、ヨーロッパ諸国の勢力均衡という一般的情勢の難点、スウェーデンの特殊利益、及び絶対権の問題の困難さのほうが、はるかに重大だ。いっさいは、フランス王政が回復されるかどうかにかかっているのであり、王座そのものが回復せられ、騎馬学校の怪物(国民議会)が破砕せられるということであるならば、この王座にすわる者がルイ16世であろうと、ルイ17世であろうと、はたまたシャルル10世であろうと、われわれにとってはまったくどうでもいいことだ。」
しかし本書には、マリーの思慮浅い性格を利用して、ブルボン家を操ろうなどという思惑は見えてこない。役目はなんであれ、あくまでもプラトニックな愛を育んだ証拠を強調している。
7. ヴァレンヌ逃亡劇
フェルセンは、王族の逃亡劇で一役買う。最も信頼できる人物とはいえ、国王の脱走を外国人に委ねるのも無思慮な王妃らしい。しかも、一分一秒を争う脱走劇で、一族が一緒に乗れる大型の馬車を準備させたり、身の回りの世話をする侍女や召使を同行させる有り様。お嬢様には、脱走と旅行の区別もつかないらしい。
しかし、ルイ16世は逃亡中、これ以上のフェルセンの同行を望まない。妻の友人と肩を並べて臣下の前に姿を表すことが、はばかられたのか?ルイ16世は、国境付近の軍を預かっていたブイエ将軍が駆けつけることを信じ、パリへ取って返して王位奪還を目論んでいた。だが、ヴァレンヌの人々は、革命の歌とともに行進してくる。ブイエ将軍が到着するも、時既に遅し。
国王一行がシャロンに着くと、市民たちは石の凱旋門で待ち構えていた。歴史の皮肉か!21年前、ガラス張りの馬車に乗って、国民の歓呼を浴びなからオーストリアから輿入れした時に、王妃の名誉のために建てられた凱旋門である。石の装飾にはラテン語で、こう刻まれる。
「この記念碑、我らの愛のごとく永遠につづかんことを」
鉄面皮は民衆の憎悪にさらされ、もはや王でもなく、王妃でもない。マリーは、まだ生きている旨をフェルセンに手紙したという。だが、真に愛情のこめられた書簡は、フェルセンの子孫によって抹殺されているそうな。それでも言葉の欠片から、愛情の躍動を感じ取ることができる。
しかしながら、本当の禍いは、逃亡劇の失敗よりも、ルイ16世の弟プロヴァンス伯爵が時同じくして試みた亡命が、成功したことにあるという。後に、ルイ18世を名乗る人物だ。投獄されたルイ16世とその息子ルイ17世の失脚は、無条件で二段階特進という寸法よ。政治とは、まさに二枚舌の才が求められる世界。兄レオポルトですら妹マリーを釣ろうと...
「兄は妹をあざむき、王は国民をだまし、国民議会は王を裏切り、君主は君主をあざむいて、ただただ自己の問題に有利となるよう、時を稼ぐべく万人たがいにだましあっている。... 誰も火傷はしたくないが、みな火をもてあそび、皇帝も諸王も王族も革命党員も、このたえざる密約と欺瞞によって、一種の猜忌の雰囲気をかもし出し、ついには欲せずして、二千五百万の人々を二十五ヵ年にわたる戦乱の渦中に投ずるにいたる。」
8. タンプル獄とコンシェルジュリー牢獄
ルイ16世が共和制の憲法を承認すれば、一旦身柄は安全となる。だが、急進派は相変わらず王政廃止を目論む。フランス革命が行き詰まりを見せると、オーストリアへ宣戦布告。大昔からのやり口だが、国内の不満が抑えきれなくなると対外戦争にうってでるのが、政治の常套手段。
マリーは王妃の地位を守るために、フランス軍の進軍計画をオーストリア大使に伝える。この浅はかな行為が、売国奴の汚名を着せられる。激怒した民衆は、国王一家が収容されるテュイルリー宮を襲撃。国家反逆罪に問われても仕方がないが、国家や国民の概念ですら認知できなかったと見える。
監獄には古めかしく陰鬱な城塞が選ばれ、いまやルイ16世、マリー、王太子、王女、妹エリザベス女公の五人だけ。ただ、城壁に幽閉されれば、身柄の安全は保障される。
しかし、王家の監督を委ねられた人物エベールこそは、革命党員の中で最も典型的な人物だという。王妃を誹謗してやまない毒舌家に一任したことは、読み飛ばしたくなるほどのフランス革命史の暗澹たる一頁であると...
革命の初期段階では、理想主義が優勢であったのは確かであろう。心ある貴族や市民、あるいは名望家から構成される国民議会は、民衆を解放しようと意図するものの、やがて解放された者は、解放してくれた者に歯向かう。革命の第二期では、急進分子や怨恨からの革命党員が優勢となり、彼らにとって権力は新たな野望の対象となる。やがて卑劣な人物が采配をふるい、野心と狡猾さに自由が支配され、議会は精神的凡庸さによって席巻される。
「フランスのいままでの主君が、歴代諸王の王宮を獄舎と換えたその同じ夕、パリの新しい主人もその居を変える。同じ日の夜、断頭台はコンシェルジュリーの中庭から引き出され、威嚇的にカルーゼル広場へすえられたのである。フランスは知るべきでだ、八月十三日以降フランスを支配するのはもはやルイ16世でなくてテロであることを。」
王家の集団リンチは、民衆にとってある種のお祭りだ。革命は、反革命派を根こそぎ処刑するために最初の生贄を欲した。1793年、ルイ16世処刑。死刑宣告を受けてもなお恐怖も興奮も示さない無感動な性格が、ここにきて王としての威厳を見せるとは...
王太子は靴匠シモンに引き渡され、マリーはいよいよ孤独となる。いまやハプスブルグ家の人質の役割でしかない。革命政府はオーストリアに賠償交渉を持ちかけるが、レオポルト2世の子、皇帝フランツは、叔母を救い出すために宝石一つ出そうとはしない無情漢。そこで、マリーの身柄はコンシェルジュリー牢獄へ移送される。コンシェルジュリーは「死の控室」と呼ばれ、ヨーロッパ中に知れ渡った牢獄だそうな。つまり、オーストリア皇女を殺すぞ!と脅しにかかったわけである。
ところで不思議なのは、これだけ厳重に監視されているにもかかわらず、脱獄させようという計画が、やたらと記録に残っていることである。「カーネーション事件」は、その典型である。後に、アレクサンドル・デュマが潤色をほどこして一大小説に書いたやつで、ある男が独房に真っ赤なカーネーションの花束を差し入れすると、その中に救出の段取りが書かれていたという逸話。この事件の真相を知るのは、ほとんど不可能のようだが、マリーは裁判で自供しているそうな。チュイルリー宮の時代から知っている人物で、その男からカーネーションに潜ませた手紙を受け取ったことや、返事をしたためたことを。そして、その近衛兵の名前は思い出せないと突っぱねたという。
マリーには、看守までも、友に、助手に、召使にしてしまう魅力があるらしい。最も厳しい監獄にありながら、特別なご馳走を用意したり、好きな飲料水を他の地区から持ってきたり、髪を結いましょうと申し出たりと、陰ながら尽力しようとした見張り役も少なくなかったようである。タンプル獄からの一連の試練が、彼女に死を覚悟させ、気高い振る舞いをさせたのであろうか...
「危険というものは一種の硝酸である。可もなく不可もない生ぬるい生活状態では、見分けがたく入りまじっているものが、... 人間の果敢と臆病が、この試験を受けると分離する。」
9. 革命裁判
1793年、フランス革命は危殆に瀕する。最強の砦マインツとヴァランシエンヌが陥落し、イギリス軍が重要な軍港を占拠。パリに次ぐ大都市リヨンには叛乱がおこり、植民地は失われ、パリは飢餓に襲われ、民衆は意気消沈し、共和政府は没落寸前。もはや自殺的な挑戦あるのみ、それは恐怖を吹き込むこと。そして、リヨン大虐殺の蛮行に走る。革命裁判の暴走は、断頭台を活況とさせる。過激政策を非難する者には、裏切り者の名を与え、ことごとく処刑。その矛先は、マリーにも向けられ、最初から処刑ありきの裁判へ。
ところで、古来、マリー・アントワネットの伝記を書く者にとって、大きな謎とされる事があるという。それは、王太子の母に対する不利な証言と、擁護者たちの屈折した証言である。子が生みの母を誣いる陳述をしたことは、歴史にもあまり例を見ない。暴力で脅した様子もなければ、酒を飲ませて意識を朦朧とさせた形跡もない。王太子の態度は、証人席に腰掛けて足をぶらぶらさせるなど、遊戯的な厚かましさが記録されるという。お喋り屋さんで、聞いたことをすぐに口にする癖があったとか。とはいえ、まだ8歳のガキだ!王妃の情熱的な擁護者たちも、ばかに回り道をした説明や、とんでもない曲解に逃れたりしているという。幸か不幸か、母マリーは常に獄中にあったので、王太子の途轍もない陳述をすぐには知らない。死の前々日になって、ようやく告訴状によって屈辱を知るのである。
裁判が始まると、千差万別の罪状が時間的にも論理的にもつながりがなく、雑然と持ちだされる。おまけに馬鹿げた証言ばかり。ある侍女は、王妃がヨーゼフ2世に巨額の金貨を送ったのを聞いたとか... オルレアン公を殺すつもりで常に二挺拳銃を携帯していたとか... 裁判が、物笑いの餌食にするための喜劇を演じるならば、証拠なんぞどうでもいい。しかし、ギロチン刑で処すとなれば、大罪人である証拠がいる。罪があるとすれば、浪費家が国家財政を圧迫させたこと。そして決定的なのは、王位を奪還するために、オーストリア大使にフランス軍の進軍計画を漏らしたこと。
裁判中、マリーはちっとも動じない。最初から死刑と決まった裁判を引き伸ばす必要が、どこにあろう。この世でなすべきことは、二つしか残されていない。毅然とした態度で自己を弁護し、自若として死ぬことだ。ハプスブルグ家の皇女であり、依然としてフランス王妃であることを、国民に誇示するしか道はない。そして、妹エリザベス女公に最後の手紙を宛てる。
「愛する妹よ、いま貴女に最後の手紙をしたためます。いま判決を受けてきたところですが、恥ずべき死ではありません。犯罪人にとってのみ死刑は恥ずべきことであります。」
10. マリーの死後
斬首されると、共和国万歳!の叫びがこだまする。しかし、そんな一時もすぐに忘れられる。恐怖政治では、明日は我が身!実際、墓穴を掘るにも金がかかり過ぎるほど、続々と断頭台に送られていく。ダントンしかり、ロベスピエールまたしかり...
一方、皇女を救おうとしなかったハプスブルグ家は、良心に苛まれる。後に、ナポレオンはこう語ったという。
「フランスの王妃について深く沈黙を守ることは、ハプスブルグ家において固い掟であった。マリー・アントワネットという名前が出ると、彼らは眼を伏せ、迷惑な手痛い問題を避けようとするかのように話題をかえる。この掟は家族全員が守るばかりでなく、国外駐在の使臣たちにもそれとなくいい含められていた。」
さて、マリーの死後も変わらず、最も忠実な人はフェルセンだったという。彼女への思いを妹に書簡しているとか。しかし、遺児の娘はフェルセンに話しかけることも許されず、オーストリア宮廷の滞在も拒否される。ヴァレンヌ脱走劇で、ルイ16世の命に従って、王妃を残して去った6月20日のことを悔いたという。
フェルセンは故国で有力者になる。元帥となり、王の顧問となり、次第に支配者型の人物になっていったとか。彼は、王妃の処刑からか、民衆を悪意ある賤民、卑劣な下民として憎悪したという。民衆もまた彼を憎み返し、フランスに復讐するために、自らスウェーデン王になろうとしていると吹聴される。スウェーデン王太子が死ぬと、フェルセンが毒殺したという噂まで。マリーがそうであったように、フェルセンもまた民衆の餌食とされ、暴力分子に惨殺される。6月20日の運命の日に...
2014-11-16
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