2014-12-28

"無形化世界の力学と戦略(上/下)" 長沼伸一郎 著

本棚を掘り起こしていると、とんと覚えのないヤツを見つけた。「物理数学の直観的方法」の著者が、人間社会の力学をミリタリーバランスの観点から定量的に語ろうというのである。我が家で数十ページほど立ち読みしてみると、これがなかなか!購入履歴を遡ると、およそ十年前に買ったことになっている。記憶力がないということが、いかに幸せであるか...
そういえば、政治家の資質には、理系出身者が相応しいと考えていた時期があった。厳密には、自然学者と言った方がいい。しかーし、未納三兄弟!などと発言して墓穴を掘った某党首が理学部出身と知るや、そんな考えをあっさりと捨てた。おまけに、その御仁は首相になった挙句、原発事故でせっかく放射能予測システムSPEEDIがありながら情報を開示しなかった。環境汚染を語る前に科学が政治に汚染されているとは...
プラトンは政治を哲学者の手に委ねることを理想とした。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。そして、夜の社交場ではセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も捨てがたい...

価値の無形化は、貨幣の発明から始まった。能力は賃金で査定され、信用は利息で精算され、欲望はインフレ率で測られ、希望は株式市場に委ねられ、命ですら貨幣換算される。さらに、電子マネーや暗号通貨の登場により、貨幣自体が曖昧な存在となった。精神の持ち主とは、奇妙なものよ。精神自身の実体を説明できなければ、どこにでも都合よく代替価値を見出すことができるのだから...
人間社会における競争原理は、価値の創出合戦によって繰り広げられる。そう、価値こそがパワーの源泉なのだ。古代、人間の価値は、腕力、脚力、格闘力で測られた。それは、オリュンピア祭典競技の種目に見てとれる。国力では武力が指標とされてきた。やがて、これらのパワーは機動性や柔軟性に呑み込まれていき、腕力は智力に、武力は戦術や戦略にとって代わる。重装歩兵が主力であった時代、アレキサンダー大王は騎兵の機動力に注目してアケメネス帝国を制した。フリードリヒ大王は奇襲をもってオーストリア軍を制した。第二次大戦でドイツの用いた電撃戦は、機甲部隊と航空部隊との連携によって高い機動性を発揮した。
一方、大日本帝国は自ら空母の機動性を証明しながら、大艦巨砲主義に固執した。太平洋戦争の敗因では、索敵の不徹底や暗号神話に陥った硬直性など、情報戦略のお粗末さがよく指摘される。それも一因ではあるが、本質的な問題ではあるまい。近代戦争はそのまま消耗戦と化す。ウィリアム・ペティの政治算術から受け継がれる国力試算は、既に武力から工業力へ移っていた。工業資本の付加価値性と物量こそが、武力の機動性と柔軟性をもたらしたのである。
では、現在はどうであろうか... 戦後、国力の指標は経済力に向けられた。経済が整わないうちは、いくら軍事力を強化しても持続できない。さらに、経済循環を円滑にするために、購買意欲を誘う宣伝力が注目される。現在では、プレゼン力と呼ばれるやつだ。宣伝力が武力として有効であることに最も早く気づいた戦略家は、ヒトラーかもしれない。宣伝相という要のポストを設置し、映画製作やらで見事に正義を装った。
もはや無形化は単なるアナロジーの域を脱し、情報が物質に替わるという文明上の問題を抱えている。静かに語られる真理よりも、大声で誇張し、分かりやすい言葉で反復効果を狙う方が世論を席巻できるとすれば、人間社会はますますロストワールド化していくであろう。とはいえ、悲観論ばかりでもない。ネット社会では、一権力によって情報操作が思うようにならなくなった。それは、ある意味健全かもしれん...

本書は、こうした力関係を、陸軍、空軍、海軍の性質に分類しながら、経済を陸軍力に、メディアを空軍力に、研究機関の知的影響を海軍力に結びつけて考察している。そして、米ソ冷戦構造を無形化された準三次大戦に位置づけ、第一大戦や第二次大戦との類似性を分析している。
注目したいのは、「運動量保存の法則」「最小語数の原理」「パターン再現仮説」の三つの概念を柱にしていること。二つの大戦が軍備競争によって約5年かかったのに対し、冷戦は資本主義と共産主義の経済対立によって50年を要した。一般的に軍事予算は、GDP比のほぼ1割とされる。残りを経済力で換算すれば、経済部門は軍事部門に比べて鈍速だが、その分体重が重く、比率は10倍で等しくなる。
また、マスコミ屋と空爆屋との類似性から「情報制空権」の重要性を物語る。
「ある概念は、それがたった一語で内容を表現できる場合にのみ、一般社会に爆発的に流布する。そしてそれは表現に2語以上を要する複雑な概念を常に駆逐する。」
確かに、機動性や柔軟性においては、軍事力よりも経済力が、経済力よりも情報力の方が優っている。メディアに至っては、むしろ流動性と言った方がいい。速度の影響力は絶大であり、ニュートン力学においても質量と速度の積によってパワーが定義される。現実に、経営戦略では意思決定能力が問われ、資源の集中と敏速な行動こそが成功の鍵を握る。
「経済的世界においても、その運動を本質的に決定している抽象的要素の相対的な関係が同じである限り、対応する軍事的世界において起こったのと全く同じ力学によって必ず支配され、相互の動きは基本的に同じパターンに従う。」
しかしながら、最も重要な要素に「知的制海権」の概念を持ち出している。
「現状を見る限りでは、インターネットの興隆に代表されるように、"様々な垣根を取り払って文明を速くする"テクノロジーによって世界統合に行き着く道が圧倒的に優位にあり、対抗馬にはもはや安楽死以外の選択はあり得ないかのように見える。しかしここで一つ考慮すべきことがあり、それは"伝統的な垣根を残して文明を遅くする"側に人類はどの程度の頭脳を投入してきたのだろうかということである。」
流動性の高さが機動性を発揮するのも事実だが、流動性が高すぎると、自身の中に力学を構築する前に流動体の奴隷と化す。手段にばかり目を奪われ、地に足がつかない戦略が横行するのは、まさにそういう状態であろう。いくら経済力や情報力を強化したところで、真の底力は深遠な道理を踏まえた知的能力に辿り着くはずだ。
ただ神の目には、戦争も経済も、はたまた超新星やブラックホールも、同じ物理現象に映っているのかもしれん。だから野放しにしているのか?戦争にしても、経済にしても、人間社会の手段に過ぎないと。では、どちらを選択するか?それは人類の叡智にかかっているとするしかあるまい...

1. 核兵器と精神力学
機動性や柔軟性を唱えたところで、それは社会に適合する上での相対的な特徴でしかない。いくら優れた特徴を備えていても、時代に受け入れられなければ、変質扱いされる。
核兵器は物理的に絶大な破壊力を持つが、使用するとなると、これほど硬直した融通のきかない兵器はない。核はもはや人間社会における相対的な武器を超越し、絶対的な破壊力の前では戦争の抑止力というより、人類滅亡のリスクとして機能する。この抑止力が、5年の軍事戦争を50年の経済戦争へ転嫁させた。事実上使用できなければ、経済的負担となるだけ。にもかかわらず、核のパワーに憑かれた政治指導者はごまんといる。自己の悪魔を制するには、悪魔に縋るしかないってか...
権力を暴力と置き換えれば、モンテスキュー式の暴力分立の原理がここにある。冷戦時代、核兵器の存在を意識しながら、戦車や戦闘機による小規模の戦闘が水面下で生じてきた。そして、長い時間を経て小さなエネルギーが蓄積し、巨大帝国を自然に崩壊させた。幸いにも人類滅亡の危機は避けられたわけだ。アルキメデスが言った... 我に支点を与えれば、地球を動かして見せよう!... というのは本当かもしれん。
本書は「通常兵器の相対的核兵器化」という考えを持ちだしている。核兵器の代理兵器と言おうか。そして、その延長上に「経済力の相対的軍事力化」という概念を持ち出す。
戦争を国家権力の及ぶ国境線を動かす仕事量とするならば、経済はグローバル化によって国境線を曖昧にする仕事量とすることはできそうである。平和時の交通事故の死者、自殺者、災害死などの社会的リスクは、死者の観点からすると戦争時と原理的には同じかもしれない。
「かつて平和を語っていた者が今や戦争を語り、かつて戦争を語っていた者が平和を語り始めたという立場の皮肉な逆転はこのような理由による。」
また、冷戦構造における西側勝利の最大要因は、半導体技術の登場だとしている。ハイテクが庶民に浸透し、豊かな生活をもたらした。東西の生活水準の格差は、民衆の大量流出を招いた。いまや、半導体業界の動向が、経済動向を判断する上で重要なファクタとなっている。しかし、一般報道では携帯端末といった身近なハイテク商品が話題になるだけ。所詮、半導体は部品よ!開発現場でも半導体技術者は粗末に扱われている... などと自分の立場を愚痴るのもなんだが... 所詮、人間は部品よ!
しかしながら、いくら核兵器を多様な兵器で置き換え、さらに軍事力を経済力に代替して、機動性や柔軟性をもって制圧しようとも、絶対的な自然力には到底敵わない。人間のできることといえば、せいぜいリスクを回避するぐらいなもの。いくらテクノロジーを進化させようとも、人間の頭脳の中で働くソフトウェアはほとんど変化しないし、精神力学はあまり変わらんようだ...

2. 情報制空権と運動量保存則の罠
空軍の威力は絶大であり、味方の犠牲を最小限にできるために、空軍至上主義に陥りやすい。だが、地上制圧が主目的であり、空爆しかできない軍隊では都合が悪かろう。むしろ宗教力の方が影響が強そうだ。戦争状態で地上を制圧する役割が陸軍力だとすれば、非戦争状態では経済力や文化力ということになる。ただし、ここで言う経済力や文化力は、政治的に仕向けられた思惑とは一線を画す。空爆的な威力を発揮するメディアの誇張が事実を伴わなければ、空回りするのも道理。情報化社会が高度化するほど、冷笑や虚無主義へ誘導するというのは本当かもしれん...
ちなみに、トーマス・ジェファーソンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「良い政府が存在するが良い新聞が存在しない世界よりも、良い新聞だけが存在して良い政府が存在しない世界のほうが良い。」
人間には自分の意見と合う者同士で群れる習性があり、報道屋だけに中立の立場を課しても無理というもの。歴史を振り返れば、新聞が戦争を煽ってきた例は実に多い。そして敗戦が濃厚になると、平和主義者に豹変して戦犯探しに明け暮れる。英雄に持ち上げながら、一夜にして国賊扱い。専門家でも意見が分かれるところを、メディアは都合の良い立場しか取り上げない。著名人に罠をしかけ、スキャンダラスな事を言わせて注目を集めようとするのも彼らの常套手段で、勝手に人物像をでっちあげて抹殺にかかる。実際、マスコミ手法にはガスライティング的なものも少なくない。空爆で攻撃するパイロットは海兵隊などと違い、殺す相手を直接見なくて済む。だから、残虐性に疎いのかは知らん。
「ある事業がメディアの支援を受けながら行われる場合、事業完成までに要する時間の 1/10 の時間でメディアはそれを陳腐化させ、精神的な力を奪う。これが運動量法則の罠である。」

3. 知的制海権
伝統的な海軍の任務は、制海権の確保、パワープロジェクション(戦力投射)、プレゼンス、シーレーンの防衛といったところであろうか。総合的な戦略では、海を制して、いかに陸上に戦力を投射するかが問われ、その役割は空母の登場で、より直接的となった。経済的に言えば、企業の研究部門が新技術を開発して市場の膠着状態を一変することができれば、市場に投射できる。
政策で大きな役割を担う研究部門といえば、シンクタンク系である。ただ残念なことに、国家レベルでシンクタンクを機能させるアメリカに対して、日本では政府系シンクタンクが弱点とされる。かつては、総合商社や金融機関といった民間のシンクタンクがその役割を担い、官僚集団がそれらの機能を補ってきた。代替のシンクタンク機関を構築せずに官僚支配を弱めれば、もはや国家の頭脳は麻痺するだろう。そうした構造が官僚支配を助長する結果を招いてきたわけだが...
経済活動は多様化し社会構造も複雑化していく中で、バラバラの行動パターンによって、ゲリラ戦の様相を呈していく。手段が多様化する中で合理性を求めるならば、分進合撃といった戦略が必要であるが、国家レベルの知的戦略がないために、民間の研究部門が危機感を募らせる一方で、公共の研究機関は予算獲得に奔走する始末。
また、天然資源の乏しい我が国にとって、シーレーンの防衛は死活問題となる。それは、そのまま技術のシーレーンと結びつき、教育機関や研究機関が知識の補給線となる。かつては、技術力に直結する理工系が重要視された。現在では、仮想価値を煽ることで経済循環を促すことができる金融の異常発達が、原理的にそれを補っている。だがそれも、砂上の楼閣であることは否めない。MBAの取得に躍起になるような風潮では持続性に欠ける。金儲けに直結する知識ばかりに偏れば、知的柔軟性を失い、やがて知識の大艦巨砲主義に成り下がるであろう。
多様性と柔軟性は相性がよく、兵器と同様、知識も多様性によって相乗効果が期待できる。しかしながら、人間には目先の勢いに惑わされる習性がある。太平洋戦争時代、海軍の外交的見解よりも陸軍の精神論の方が、一般庶民には分かりやすかった。ドイツ陸軍の勢いに惑わされて、アメリカの工業力という潜在的な能力が見えなかった。現在でも、政治的リスクを無視して新興国の勢いに釣られて進出するなどの経済活動が旺盛である。しかも、研究部門を放棄してまで売上至上主義に突っ走った企業も少なくない。バブルの後遺症かは知らんが。バブル景気とは、高度成長時代に蓄積された平和ボケという堕落エネルギーがもたらした結果と見ることもできよう。
本書は、余剰労働をサービス業にばかり転化すれば頭でっかちな経済システムとなり、「万人が万人の召使になる」社会となり、さらに競争が激化すれば「万人が万人の奴隷になる」社会に堕落する、と警鐘を鳴らす。サービス業の概念も随分と多様化しているので、そこに知的部門を見出すこともできようが。
知的資源は目に見えにくいだけに、これを主軸とした国家戦略を練ることは難しく、よほどの計画性を要する。政治ジャーナリズムは、政治家の無力や無能を言い立て、政治不信こそが社会の閉塞状態の根源であると非難するが、それは本質的な問題ではなさそうである。情報制空権や知的制海権を確保しようという国家戦略すら存在しないのだから...
「政治家たちは情報制空権も知的制海権もない状態で、国旗の下の防御拠点に立てこもる以上の選択が最初から与えられていない。それゆえ政治家のどんな交代劇も、せいぜいマジノ線の防衛指揮官に誰がなるかということ以上の意味をもともと持ち得ないことは明らかなのであり、大衆がそれに無関心になるのはむしろ当然であろう。」

4. ハートランドと地政学
伝統的な戦術や戦略における理論において、地理的優位性というものがあり、戦略的要地をいかに制すかが勝敗の鍵となる。地政学の結論を大雑把に言えば、こういうこと。
「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する。」
ハートランドとは、大陸の心臓部という意味で、ハルフォード・マッキンダー著「デモクラシーの理想と現実」の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地帯と呼んだことに始まる。ヨーロッパを含むユーラシア大陸が地上の陸地の大部分を占めることから、これが世界島というわけだ。
ただ世界島の中で、戦略的要地は時代によって変化してきた。例えば、ローマ帝国の海軍力の低下を、閉鎖海戦略にあるとしている。地中海がローマ陸軍に制圧され、閉鎖海となったことで、コップの中の海軍と化し衰退したという。陸軍が強すぎても、海軍が強すぎても、はたまた空軍が強すぎても、うまくいかない。古くからヨーロッパとアジアの主導権争いでバルカン半島が要地とされ、第二次大戦では資源要地をめぐる戦いとなった。つまり、兵力の機動における地理的要地から、強力な武器のエネルギー源となる資源的要地へと移行してきたわけだが、無形化社会では、柔軟性と寛容性を持った知的要地へと移行していくのであろう。
従来の戦略には、「戦略的影響力は距離の2乗に反比例して減衰してゆく」という原則があるという。戦略的要地の概念も、距離の概念も、根本的に見直す必要がありそうだ。文化の中心地という意味ではあまり変わらないかもしれないが、流通経路、情報経路といったものが要地となる。実際、人間の集約力ではメガターミナル構想、物資の集約力ではメガフロート構想、資金の集約力ではメガバンク構想、情報の集約力ではビッグデータ構想、生産の集約力では多国籍企業化といった戦略がある。
日本列島は、太平洋上の航路において地理的条件は良い。だが同時に、中途半端な空港や港湾建設が乱立すれば、ガラパゴス化しやすいという脆さも抱えている。なにも海上封鎖などに頼らなくても、一国をガラパゴス化することは可能なのだ。にもかかわらず、政治屋どもは相変わらず地方へに利益供与に執心し、いまだ領地の幻想に憑かれている。おまけに、情報封鎖がお好きときた。冷戦構造が終結し、大国の影響力が弱まりつつある時代に、寄りかかり外交では危険である。既に準四次大戦が始まっているというのに...
「日本側が認識すべき厳しい現実は次のことである。... 現代世界では情報制空権さえもっていれば、"真実(少なくとも政治レベル)"は作れるのであり、そして中華文明圏の上空において、日本側が情報制空権を握れる見込みはほとんどないということである。」
もはや唯一の戦略は、単なる民主主義のレベルを超え、普遍的な理念を持つことしかあるまい。しかしながら、人間社会には陸軍的な論理に引きずられやすい傾向がある。愛国心ってやつは陶酔しやすいだけに歪みやすい。数千年に渡って変えられなかった意識を無形化世界の力学によって変えることは、突然変異でも起こらない限り難しかろう...

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