2014-12-21

"ラファエロ" 若桑みどり 著

「ラファエロには、ただ一つの傑作というものはない。彼のどの作品にも、"刹那よ、とどまれ!"ということはできない。彼は水であり、河である。それも、澄んだ河である。まわりのものを誰よりもみごとに映して見せる、鏡のごとき河である。彼が本当に持っていたもの、それは透明さなのだ。それは、自己の色を持たないということを意味している。」
ラファエロは、盛期ルネサンスの三大巨匠の中でも地味な存在、いや、他の二人があまりにも強烈なキャラクターであったと言った方がいい。レオナルドは科学者、哲学者であり、その万能者ぶりは群を抜いている。おまけに、同性愛の容疑をかけられた。ミケランジェロは、神がかりな新プラトン主義者であった。
レオナルドにとって、自然界は既に秩序が失われ、怪奇と謎の得体の知れぬ創造と破壊を繰り返す、魔術的な力の場であったという。より人間と神との対立を敏感に感じ取ったミケランジェロは、ルター派のような神による救済を信じることができず、烈しく苦しみ抜いた生涯を送ったという。
対して、ラファエロは、それほど深く思い悩む人ではなかったようである。その思想は大衆性に根ざしたもので、意図的に宗教的な権威を批判したのか?あるいは、素朴な感情がゆえに崇高な思想を排除したのか?本書は、レオナルドとミケランジェロが改革家ならば、ラファエロは神のごとき剽窃家であったとしている。

芸術家は、革命家になるか、剽窃家になるかのどちらかだ。...ポール・ゴーギャン

しかしながら、バロック期に宗教の大衆化の波が訪れると、むしろラファエロ芸術が権威と結びつく。16世紀半ば、反宗教改革のカトリック教は大衆性に着目し、ミケランジェロを避難してラファエロを持ち上げた。崇高で重々しい歴史を説くよりも、分かりやすく、親しみやすく、面白がらせる方が洗脳しやすい。そして、ロマン主義の時代になると、古き様式の権化とされ、激しい批判に晒される。ジョルジョ・ヴァザーリはこう語ったという。
「私はかく思う。ラファエロはミケランジェロに比肩しようとしたが彼に近づくことはできなかった。そこで彼はこの巨匠の手法を真似ることを止め、別の分野で、カトリック的な名声を得ることにした。たとえ誰であるにせよ、我々の世代の人間が、ミケランジェロの作品のみを研究しようとすれば、我々は彼の極度の完璧さにはけっして至りつくことはできない。... だが、カトリックの教えと、他の分野とをめざせば、自分たちにもこの世に役立つことができよう。」

1. 異色の肖像画
肖像画の技術において、レオナルドの「モナ・リザ」がバイブル的な存在であったことは確かであろう。それが男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、「アーニョロ・ドーニの像」、「一角獣と貴婦人」、「唖の女」、「バルダッサーレ・カスティリオーネの像」などの作品に見て取れる。
しかしながら、「ラファエロとその友人の像」は、やや異色である。晩年によく見られる様式だそうで、古典主義の原理からまったく外れているという。37歳という若さで死に、晩年と呼ぶのも、ちと違和感があるが。
非常に強い明暗と極端な短縮法、おまけに偏った配置は、確かにレオナルド式とは程遠い。画面の大部分を占める武人のポーズは、上半身をひねり、差し出された手が妙に強調されている。光のあたり具合では、後ろで控えているラファエロの肖像が浮き出されるような仕掛け。一瞬、友人が主役かと思いきや、じっくり眺めると、やはり主役はラファエロ自身か。遠近法と光源効果を巧みに組み合わせた手法を魅せつける。

2. 古典主義とキリスト教文化の不完全な統一
レオナルドとミケランジェロは、古典主義とキリスト教文化をルネサンスにおいて見事に統一した。対して、ラファエロには、その統一性において不完全だという酷評がある。
その対象とされる作品が「墓へと運ばれるキリスト」。フィレンツェ時代の最終作品で、まだ未熟だったということか。本書は、その意味を擁護している。この作品は、息子を殺されたアタランタ・バリオーニの依頼によるもので、死者を運ぶ若者と嘆くマグダラのマリアに、母とその子の肖像を描かなければならなかったという。主要人物は、バリオーニ家の人々というわけだ。重厚な歴史画に個人の肖像画を埋め込むという構想が、なんともアンバランスな感じを与える。
しかしながら、神話の世界において、優美な女神の裸体像などは完成度が高い。「三美神」では、互いに背く貞節と甘美を結び、そこに我を配置した三位一体図は、宗教画の域を脱しており、高尚さや崇高さを失いつつも、節約簡素な古典的イメージを醸し出す。背く二つの徳の仲裁に入れば、二倍の徳をともなって、我に返るとでも言いたげな...
「アダムとエヴァ」は、ユリウス2世の依頼で「著名の間」の天井の区画に描かれた作品で、キリストによる贖罪の原因となった人間の祖先の原罪を表しているのだとか。
この手の作品は、芸術性が高いのかもしれないが、裸体の不自然さと、無理なポーズが理解不能。完成度において一貫性を欠いているのは、パトロンの思惑次第というところもありそうか...
一方で、聖母の特徴は、一貫性を保っている感がある。「ひわの聖母」「緑野の聖母」「カニーニの聖家族」「フォリーニョの聖母」などは、連作として眺めると聖母へ昇華していく様子が伺える。

3. 神学的ヒエラルキー
「アテナイの学堂」は、階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちを勢揃いさせる。階段は、形而上から形而下に渡る学問の格付けであろうか... といったことは前記事で触れた。
これと似たような主題に「聖体の講義」という作品がある。「講義」というネーミングはヴァザーリの記述から誤って伝えられ、この構図に相応しくないと指摘している。本来、教会または秘蹟のトリオンフォ(勝利)と題されるべきであると。画面の中心は、輝く聖体盒に入った聖餅で遠近法的中心点になっていて、同時に、天と地、霊と肉との奇蹟的な合体である秘蹟の意味が、遠近消失点と合致しているという。そこに三位一体のシンボルが加わり、縦軸に天と地の人々の半円状の環が取り巻いているという構想だとか。地上の人物がだいたい実在人物の肖像画とされるのも、「アテナイの学堂」と同じ趣向か。ルネサンス期の人物像を、天球に配置して崇めようとでも...
また、「パルナソス」では、9人のムーサイ(詩女神)に囲まれて、丘の頂で竪琴を奏でるアポロンを中心に、古今の詩人たちや神々が並ぶ。左側には盲目のホメロスとかたわらにダンテ、右側にはバルダッサーレ・カスティリオーネとも、ミケランジェロとも言われる人物。9人のムーサイに支配される9つの詩の分類に従って、新旧の詩人が選ばれているという。古代の詩人に、ルネサンス期の人文主義者たちの肖像を置いて、古代文芸の復活をイメージしていると。
とはいえ、「聖体の講義」と「パルナソス」の二つの作品は空間的な精彩を欠いており、「アテナイの学堂」ほど遠近法と神学的ヒエラルキーという構想が結びついたものはあるまい。

4. 遠近法の破綻と崇拝の破綻
「ヘリオドロスの追放」は、16世紀の激情に放り込まれるような作品で、右側に激情が集約され、左側に不安が集約されるという構想。神殿から略奪するヘリオドロスを馬で踏みにじる天の騎士と、恐れおののく女子供たちの表情が、事件の残忍さを物語る。さらに、左端で平然と傍観している人物はユリウス2世か。静と動の意識的な配置が、劇場鑑賞を思わせ、激情の明暗と遠近法が見事に融合する。
「ペテロの救出」にも、明暗の調和による激情の物語がある。中央には、鉄格子の中で眠るペテロと、救出しようとする天使の姿を輝かせる。右側には、天使に導かれて牢を出るペテロと眠りこける兵士たち。左側には、囚人の逃亡を知って駆けつける兵士たちが、月光の下で浮かび上がる。
これとは対照的に、激情とは一変した冷静さで奇蹟を物語っているのが、「ボルセーナのミサ」。1263年にボルセーナで起こった事件を題材に、不信の司祭が手にした聖餅が血を流した奇蹟を描いている。ユリウス2世と従者たちは、奇蹟を予知していたかのような冷静さで、背後で群衆がざわめき、ロウソクがゆらめく。奇蹟の偉大さをユリウス2世の前では当然とし、逆説的に教皇の偉大さを示しているとすれば、却って庶民が期待する激的なものは伝わらない。
さらに、「ボルゴの火事」では、遠近法によって主題が隠された感がある。9世紀半ば、レオ4世の治世に起こった火事を鎮める奇蹟を、時の教皇レオ10世の讃美として描いた作品。中央のはるか遠くに、教皇らしき人物が見えるものの、火事で大騒ぎしている民衆が強調され、もはや主題は奇蹟というより火事そのもの。壺に水を入れて運ぶ人々、裸体で壁をよじ登ろうとする男、壁の上から子供を拾い上げようとする女、老人を背負って逃げ惑う男、両腕を祈るように掲げる女たち... A.M.ブリッツィオは、「ギリシア悲劇の舞台」と解した方がいいと言ったそうな。
ついに、「オスティアの戦い」では、遠近法が崩壊する。空間的構想より主題を強調することで、合理的な空間を形成することはあるだろう。だが、題名からして海戦が主題であるはずなのに、船団は遠くに描かれ、手前で人々がごった返している様子。祈っている人々や司祭やら、負傷者や捕虜やら、床を掃除している男やらが目立ち、もはや何を描きたいのかも伝わらない。遠近法の破綻が精神の破綻にも映るのは、パトロンである教皇の精神を映し出しているのであろうか。なぁーんだ、このブログと同じじゃないか...

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