なぜ、人は群れるのか...
人との付き合いに飽きれば、自然との戯れを欲し、いつも何かと接していないと落ち着かない。それゆえに、自我を肥大化せずにはいられないのか。知識や美徳を求めるのも、詫や寂を欲するのも、その類いであろうか。人はみな、寂しさに耐えながら生きている。ただ、それだけのことかもしれん...
人間には、心地良いものに群れる習性がある。虫が灯りに引き寄せられるように。都合の良い解釈で集まり、似たもの同士の相乗効果によって感情論を増幅させる。個人で見せる豊富な寛容さや冷静さは、集団の中ではまったくの無力。人間社会では、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強そうだ。堂々とした悪徳と陰湿な正義が同居し、加害者が正義を装って被害者の側に回ることもあれば、真の被害者が退場させられることだってある。売り言葉に買い言葉... 何気ない一言に怒号が群れ、理性の検閲官を自認する者が、ますます横暴に振る舞う。たとえ小さな善意の集まりであっても、しばしば大きな悪意へ変貌し、正義ですら社会的制裁だけでは飽き足らず、ストレス解消の道具とされる。
人の集まるところに欲望が群がる。善意によって集められた支援金は、多額なだけに質ちが悪い。一人で良い目にあうと、それを誰かに伝えたくてしょうがないものらしい。善意の性分は、押し売り根性と相性がいい。
人には、集団からはみ出すことを嫌う性向がある。派閥を作っては、自ら思考することを放棄し、一人の長に意思決定を委ねる。正直者は堕落と官僚主義に押し流され、集団的な堕落は、不和から生じるのと同じくらい同意からも生じる。戦争とは、集団性の産物でしかあるまい。
おまけに、プレゼン力やアピール術が物を言うと真理は多数決に流され、魔女狩りの類いは過去にもまして牙を剥く。情報が氾濫する社会では、情報のS/N比を低下させ、弁論術はソフィストの時代よりもいっそう盛況となる。露出狂と暇人が共謀してゴミ投稿を煽り、ネット資源を浪費し続ける。
こりゃ負けちゃおれん!そして、自己の馬鹿を曝け出し、自己の馬鹿を舐めるように愛しながら書く。そう、ジャンク長文で応酬だ!
1. 個人と集団の差異
人体は原子の集まりによって形成され、そこには一つの魂が宿る。人間社会は個人の集まりによって形成され、ここにもまた集団的な意思が生じる。個人と集団の違いは、原子には意思なるものがないが、個人にはあるということぐらいであろうか。純粋なものが集まれば秩序が生じ、意思あるものが集まれば秩序を乱すというのか?だから、政治家どもは思考しない国民を求めているのか?なるほど、思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
固い結束はファシズムと相性がいい。自意識を高めた輩が群れると、正義や義務までも凶暴化する。一昔前、B29に竹槍訓練で対抗しても仕方がないと呟けば袋叩きに合い、講和論を唱えようものなら非国民と呼ばれた。そして今、東京オリンピックの開催に苦言をツィートすると非国民と罵られる。福島原発のあの有り様を見て、なにが復興オリンピックなのか?泥酔者にはとんと分からん。
近年、国粋主義や全体主義から離れて、違った形でファシズムが横行する。禁煙ファシズム、エコファシズム、友愛ファシズム、絆ファシズム、原発ファシズム、脱原発ファシズム... 集団が束になって流行めいたものを追いかけるという意味では、一種のファッション感覚。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ...とは、まさにこれだ。高度な情報社会には、戦時中にもまして検閲官どもが溢れている。人間の意思ってやつは、大勢の語り手に圧倒されると、狂気するものらしい。では、誰も悪くないというのか?いや、誰もが少しずつ悪いのだろう...
2. 笑い禁止令
笑いを感じる能力は、音楽を感じる能力と似ている。音楽センスに長けた者が美しいメロディーを感じることができても、目の前にある芸術にまったく気づかない人もいる。そこに確実に存在するものは、音波という物理現象のみ。それを感知する能力は、極めて主観的で、どこか狂っている。論理をもってしても、理性をもってしても、説明できない。だから面白い。真の芸術は、わざわざ権威を示す必要がない。理解者のみが自然に堪能できればいいのだから。それは、聖書を理解できる者が、その権威を示す必要がないのと同じであろう。笑いもまた高度な芸術の領域にあるのだろう。笑いの能力は高等な動物の証とされる。それゆえに検閲の対象は、まずもってこの方面へ向けられる。
しかしながら、理性が暴走すると、冗談も言えない息苦しい社会となる。エイプリルフール禁止運動まである。確かにネット社会には、行き過ぎたイタズラの類いが風説流布となって猛威をふるう。目を覆いたくなるようなものまで。これに対抗して、理性の検閲官はちょっとした冗談でさえ許さず、ソーシャルメディアという裁判に引き出し、集団リンチにかける。リンチに参加するつもりがなくても、無責任にコメントしたり、気軽に賛同するだけで参加させられる。責任ある立場の者が問題を曖昧にする分、明確な意見を言う者がバッシングされる。謝罪はもはや形式だけ、真摯、誠実、反省... こうした言葉をますます安っぽくさせる。凡庸を自覚できなければ、その他大勢にも完璧を求めるというのか。まるで言霊信仰!情報社会が高度化すると、情報の自由化が進み、知識や価値観に多様性をもたらしそうなものだが、逆に同じ解釈をする人々が集まって二極化する。
しかしながら、多様性は寛容性と相性がよく、笑いのセンスほど多様性に富んだものはない。笑いのレベルで社会の成熟度を計ることができよう。冗談も通じない社会となれば、言葉が貧弱になり精神もまた貧弱になる。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、それらが共存するためには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。笑いを禁止しなければ理性が保てないとすれば、理性もまたどこか狂っている...
3. バラエティー化と引き算の法則
マスコミの正義ほど違和感を覚えるものはない。悲劇を演出しながら、人格まで事細かく報じ、被害者を晒し者にする。被害者の写真のドアップが、加害者よりも、はるかに放映時間が長いとはこれいかに?マスコミは、人に勝手なキャラクターを植え付け、メディアという舞台で演じさせる。マスコミ嫌いには悪役のレッテルを貼り、媚びを売る者には善人役を与えるのだ。したがって、論理的に語れる者よりも、感情的に巧みな者の方が、好人物の役柄が得られることになる。スポーツ中継では、アスリートですら勝手にキャラクター付けされ、純粋に楽しめない。場内音声のみという選択肢しかないか。題材とは無関係のタレントを出演させ、スポーツや政治など、あらゆる分野にバラエティーを混入し、双方の世界を台無しにする。視聴率主義が、なんでも足し算させようとするのだろうか?
政界にも、足し算の法則に目を奪われ、政党の合併や選挙協力によって支持層を増やそうとする目論見が横行する。まったく性質の合わない政党が結びつけば、却って逃げていく支持者がいる、という思考は働かないらしい。無節操な混ぜあわせは、引き算の法則が働くであろうに...
4. 良識派ども
自称良識派は実名主義を掲げ、理性的な議論を求めるために極論を持ち出す。だがそれは、価値観の押し付けという側面がある。実際、正義感旺盛のネット民によって、実名はオモチャにされ、脅迫、誹謗の類いに曝される。法に基づかない私的制裁が、社会的制裁に変貌するのに大して手間はかからない。これは、実名うんぬんより、集団性の法則として承知しておくべきであろう。自由主義の暴走は、迫害にも自由を与える。
市民運動にだって利権が絡み、真の意味での民主主義運動を見分けることは難しい。中には、純粋な動機で参加している人々もいるが、その運動に利権を絡めた政治屋が暗躍することも多々ある。尚、ここで言う政治屋とは、政治家だけではない。あらゆる集団には謀略好きな輩が必ずいるということだ...
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