2015-01-11

暴走主義

暴走好きな人間という種をこしらえたのは誰か?やはり神も暴走好きであったか...

人はよく、権利だ!義務だ!責任だ!なんてことを言う。だが、そんなものは都合よく解釈されるだけのこと。無駄、無意味、無価値といったものもそうだ。そして、正義ですら解釈される。この方面で、人類はいまだ普遍性なるものを知らない。
パスカルは言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。良心の妄想ほど正義と相性のいいものはない。良心ってやつは、押し付けがましく、自信満々なだけに厄介となりやすい。歴史を振り返れば、人類愛を唱える修道士ですら侵略者のごとく残虐行為に及んだ。愛の押し売りほど残酷なものはない。神の代弁者... 神の生まれ変わり... といった思想はいまだ健在。神に憑かれた狂気は、悪魔に憑かれるがごとく。
権利の暴走がタカリ屋を増殖させ、義務の暴走が思考を停止させ、責任の暴走が迷信を助長させる。おまけに、情報社会が高度化すると、皮相の見は独り歩きを始め、庶民の集団性が理性の検閲官となり、魔女狩りの類いはますます猛威をふるう。正義漢とは、一過性の熱病のようなものか。決疑論は集団性によって研ぎ澄まされ、有徳者や有識者ですら駁論を見出すことができないばかりか、煽る側に立つ。ますます自意識を膨らませ、どんな残虐行為でも、これは犯罪ではない!と叫ぶことができるのだ。そして、妄想的な成敗が現実のものとなる。
一方で、必殺仕事人は、お金を貰わないと絶対に仕事をしない。どんなに少ない金額でも、依頼者が精一杯工面したという理由付けだけが、正義の暴走を食い止める唯一の動機となるからだ。理性も、知性も、正義も、道徳も、愛情も... 心地よく響く言葉は、すべて暴走する性質を持っている、と心得ておくぐらいでちょうどいい。善意の増殖は、ある閾値を超えると悪意へ変貌する、と...
では逆に、悪意の増殖は、ある閾値を超えると善意へ向かうだろうか?いや、マクスウェルの悪魔君をもってしても、この方面のエントロピーは絶大だ。逆説的ではあるが、正義という自意識を放棄しなければ、正義を冷静に実践することはできないのかもしれん。ならば、無責任な泥酔者は、世間を笑い飛ばしながら生きていく...

人間ってやつは、心の拠り所となる何かをこしらえないと、不安でしょうがない。神とは、人間が都合よく編み出した偶像であろうか。真理もまた、究極の退屈しのぎのために編み出した妄想であろうか。神の狂信者は神の寛大さに縋って無限の赦しを乞い、真理の探求者は真理の偉大さに縋って無限の知を求める。
しかしながら、不死を求めても永遠の魂は得られず、知識の永続を求めても永劫回帰の道は遥か彼方。人類は、自己存在を証明するための言葉を求めてきた。神の言葉を... 真理の言葉を... そして言葉は知の象徴となった。だが、どんなに言葉を求めても、神も、真理も、一向に見えてこない。生命は定められた道を行くしかなさそうだ。人類は、いまだ自然の意図を解せないでいる。それどころか、自分自身が自然状態であるのかも疑っている有り様。その証拠に、「自然」に対して「人工」という言葉を編み出した。有史以来、人類はせっかく記録という概念を発明しながら、寿命の限界を打ち破れずにいる。
ウィトゲンシュタインは言った... およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない... と。もはや、残された道は沈黙しかないというのか。冥界には、沈黙との自然な戯れがあるとでもいうのか。真理の道とは、沈黙を守ることで犠牲を捧げることなのか。だから、あのナザレの人は無実を承知で黙って血を捧げたのか。
しかしながら、言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を得れば、それをひけらかさずにはいられない。経済社会が消費を煽らなければ成り立たないように、知識社会もまた情報を煽らなければ成り立たない。知性ある者が知識を自慢するだろうか?理性ある者が道徳観や倫理観を自慢するだろうか?
そして、鏡の向こうでは、お喋り好きな酔いどれが長ったらしい文章を書き続け、夜の社交場でウンチクを垂れてやがる。パスカルが言うように、やはり人間とは狂うもの、いや、自己陶酔するものらしい... いやいや、君に酔ってんだよ!

1. 覗き穴のモラル
着替えに集中しているホットな女性に声をかけるのは、礼儀に反する。せっかく湯につかってくつろいでいるのに、声をかけるとは言語道断!紳士のおいらができることと言えば、壁穴から温かく見守ってあげることぐらいさ...

2. 理性ってなんだ?
良心と相性のいいものに理性というものがあると聞く。我が家の国語辞典によると... 物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力... とある。道理ってなんだ?... 物事の筋道... とある。筋道ってなんだ?... 物の道理、条理... とある。まるで堂々巡り!国語辞典ですらまともに説明できないものを、一介の酔いどれごときがどうして知り得よう。
数千年に渡って、偉大な哲学者たちは中庸の原理を唱えてきた。万物のバランスこそが宇宙の真理であると。それは、陽と陰、善と悪、美と醜など、あらゆる対比から生じる相対性認識論と言うべきものである。精神を歪ませれば、あらゆる病を引き起こす原因となる。いや、歪んだ心で眺めれば、病気はむしろ健康に見えるか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、まさにそれだ。なんと幸せなんだろう。人間とは、幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるものらしい。カントは、理性批判の中で普遍的な道徳法則のようなものを語った。道徳ですら、理性ですら、暴走する危険性があることを匂わせて。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん。
有徳者どもに理性があるか?と問えば、馬鹿にするな!と言わんばかりに怒鳴る。ならば、いつも憤慨しているのはなぜか?理性の力をもってしても、心を平静に保てないというのか?仮に理性を実践し、義務を果たしているというのなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい...

3. 知性のコーナーを攻める!
教育が専門化によって没落するという意見を耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることであろう。つまり、哲学的観点が欠けていること。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。
人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。知識が豊富でも精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれたアル中ハイマーには知性なんぞ永遠に無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
知性は、健全な懐疑主義と自己啓発された個人主義に支えられている。ならば、精神をちょっと破綻させ、ちょっと狂っているぐらいでちょうどいい。それを自覚できれば、なおいい。ちょっと馬鹿なぐらいでちょうどいい。ちょっと自信がないぐらいでちょうどいい。ちょっと幸せを意識するぐらいでちょうどいい。そして、コーナーの限界を攻めるには、ちょっとアンダーステアぐらいでちょうどいい。
ちなみに、夜の社交場では、ちょいワルぐらいでちょうどいいと助言を頂いたが、清楚で通っているおいらには無理な相談よ!

4. デモクラシーの象徴ども
フランス革命が提示した、自由、平等、博愛という三大原理は、いずれも単独で大暴走する性格を持っている。それは、既に恐怖政治で実証済みだ。三位一体の調和が崩れた時、自由主義が弱肉強食的な資本主義を煽り、平等主義が搾取的な共産主義を敢行し、博愛主義が魔女狩り的な盲目主義を崇める。
愛が暴走する代表的な情念に、愛国心ってやつがある。愛国心の弱点は、自国を誇りに思うことと、他国を蔑んで優位に立つことを混同すること、そして、誰もが狂信的な愛国者へ変貌する恐れがあることだ。国家を支える理想主義には、既に予知された災厄が潜んでいる。経済政策さえうまくやれば、少々無謀でリスクの高い外交政策にも世論は目を瞑る。
民主主義の弱点は、誰もが厄介事に眼を背けることと、責任の所在が明確でないことに加え、集団性がこれらの性質を助長することだ。個人では理性的に振る舞うことができても、集団化すると悪魔化する。しかも、それに気づかない。集団ってやつが人をこうも浅ましくさせるものであろうか。人はみな、少しずつズルい!エリート集団が厄介なのは、責任や義務を巧みに逃れ、権威だけを増幅させることだ。かつて強者が弱者を叩く時代があった。今は弱者がより弱者を叩く。社会システムが抽象化すれば、世論は鈍感になるのか。
どんなに美しい理念も、他との調和を失った途端に暴走をはじめる。善も、悪も、理性でさえ、知性でさえ。そして、暴走してみて初めて、自分自身の愚かさを知る...

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