2015-04-12

"自由市場の終焉" Ian Bremmer 著

ソ連崩壊後、元共産圏の国々は自由市場資本主義に期待を込めた。だが、アジア通貨危機とロシア国債デフォルトが世紀末の断末魔のごとく襲いかかる。しかも、LTCM暴走のおまけつきだ。21世紀になってもなお、ウォール街の暴走は収まらない。そう、あの悪名高きリーマンショック!全世界は数百年ぶりに地政学的な転換期を認識できるに至ったが、それにしてはコストが高すぎた。その後の世界は、イアン・ブレマー氏が指摘する無極化へ突入... G20は機能しない、G7は過去の遺物、G3は夢物語、G2は時期尚早... おかげで、マッキンダーの地政学に向かう衝動は抑えられそうにない...

さて、地政学的な転換期とはなんであろう。第二次大戦後、アメリカは世界の警察官を自認し、数々の紛争に介入してきた。そのような大国になりえたのは二つの大戦の戦勝国であったこと、そして、戦場から離れていたので直接被害を受けることがなかった、という説を唱える政治学者は少なくない。つまり、歴史的偶然というわけだ。それも一理あろう。だが、それだけだろうか?アメリカは資源大国であると同時に農業大国であり、自給自足できる広大な国土を保有している。その位置は、ヨーロッパ、アジア、アフリカと適当に距離を置き、シーパワーによって機動力を発揮してきた。
しかし今、台頭してきた新興国、すなわち、中国、ロシア、インド、中東の国々は、ユーラシア大陸の資源地帯をほぼ掌握する。これは、かつての先進国とはまったく逆の構図だ。人類が生き抜くためには、食料資源とエネルギー資源が絶対に欠かせない。この二大要素を牛耳れば、自ずと世界が支配できるというのは、いかにも支配欲旺盛な政治屋どもの考えそうなことである。
本書は、これを「国家資本主義」と呼び、資源ナショナリズムとの結びつきを問題視する。その潮流は、世界恐慌の反動でマルクス主義が高揚した時代にも似ているが、ちと違うようである。
「国家資本主義はイデオロギーではない。共産主義の呼称を改めたものでもなければ、計画経済の現代版でもない。資本主義を受け入れてはいるが、それはあくまでも自分たちの目的を果たすためである。」

市民ってやつは、そう単純な存在ではない。歴史を振り返れば、あらゆる脅迫的な政策が市民の力によって打倒されてきた。自由精神が人類の普遍原理だとすれば、ディオゲネスが唱えた世界市民思想は、けして脅しなんぞに屈しないだろう。ネット社会では、SNSで呼びかけた大衆が呼応し、指導者のいない革命まで引き起こす。こうした社会現象は、自由市場資本主義よりも、むしろ国家資本主義にとって大きな脅威となろう。
しかしながら、国家資本主義は、旧共産主義固有のものではなく、民主主義国でさえ部分的に採用される。国内の主要セクターを牛耳りたいという思惑は、程度の違いはあれど、どこの国にも見られる。そもそも政治家とは、規制によって存在感を示そうとする輩で、金融危機では、ここぞとばかりに持論を展開する。政治家が目立とうとすれば、自国民の誇りをくすぐるのが手っ取り早く、愛国心と結びつきやすい。これに報道屋が便乗して仮想敵国の脅威を必要以上に煽り、本当に戦争リスクを高める。人間ってやつは、恐怖心に対して異常に反応する動物なのだ。それは生命保険業界が如実に再現している。政治屋も、報道屋も、金融屋も、あくまでも生産社会の補助役であって、彼らの目立たない社会を目指すのが健全であろうが、彼らの本性は露出狂ときた...

1. 資本主義の自己再生能力をどう見るか
ソ連は鉄のカーテンによって資本主義を完全に拒絶し、共産主義的な指令経済の脆弱性を露呈した。一方、中国はゆっくりと市場経済を受け入れ、いまや共産主義国とは名ばかり、市場型社会主義ともいうべきハイブリッド型の経済システムを作り上げ、成功を収めつつある。けして金融危機だけが国家資本主義を助長させたわけではなく、それ以前からゆっくりと市場経済へ向かっていた。だが同時に、監視体制とのバランスに異常なほど神経を使っている。
本書は、この経済システムは権威主義的な共産党体制を維持するために採用したに過ぎないと断じる。とはいえ、自由市場資本主義国にも、少なからず権威主義に縋る連中がいる。現実に、資源ナショナリズムに慌てふためく政治家や経済学者が、経済ナショナリズムで対抗しようと政策を立案している。自由市場を信奉するアメリカですら、景気対策法に「バイアメリカン条項」を盛り込むぐらいだ。
確かに、自由市場資本主義は凋落が速い!だが、再生も速い!それは権威主義に陥った経営陣を本当に葬り去り、新たな指導者に挑戦の機会を与えるからだ。本書は、自由市場資本主義の特徴を十分に生かし、むしろ市場解放によって堂々と対抗すべきだと主張する。資本主義と自由主義は双子の兄弟のようなもの。国家の思惑が強いほど癒着を強める企業が群がり、やがて腐敗するだろう。第三セクターの類いは、なかなかうまくいかないものである。リーマンショックの裏では、シャドウバンキングが役割を演じた。今日、中国の政府系ファンドとシャドウバンキングの関係が囁かれる。リーマンショックでさえ米ドルの信用は保たれ、驚異的な自己再生能力を見せた。これは、一重に自由主義と民主主義の底力でもある。
その一方で、国家資本主義国で同レベルの金融危機が生じた場合、果たしてどうだろうか?本書は、楽観的に答えている。金融危機に投じられた税金は巨額であったのも事実だが、権威主義国家では普段からそれ以上にコストをかけていると。TOO BIG TO FAIL... に当てはまる企業は自由市場では限定的であったが、むしろ国家資本主義にこそ当てはまると...
「結局のところ、中国の指導部が、経済に果たす政府の役割をめぐる重要な前提を問い直すよう迫られる可能性のほうが、アメリカが自由市場原則を根本的に後退させる可能性よりも圧倒的に高い。」

2. 国家資本主義とは
なぜ、これほどの政治家が国家主導型の資本主義に憑かれるのか?資本主義の定義も難しいが、さしあたり富を使って富を創造するといったところであろうか。つまり、投資が原動力となって自然増殖するシステムとでもしておこうか。一般的に、土地、資本、労働力といった生産手段のほとんどは私的財産として取引され、貯蓄と投資のバランスと効率性こそが将来性を決める。自由市場の弱点は、このバランスを無視して取引が暴走することにある。本来アダム・スミスは、道徳的観点から「国富論」を唱えたのであって、経済的無政府主義に傾倒したわけではあるまい。
今のところ、自由市場の暴走を食い止める最適な規制手段は見つかっておらず、世界恐慌から始まる市場メルトダウンの歴史は、その都度、政府の介入に使命感を与えてきた。国家資本主義は、この使命に真っ向から挑む。しかしながら、政府もまた暴走する。いや、歴史的にはこちらの方が悲惨であった。
ところで、「国家資本主義」という用語の歴史は、それほど浅くはないそうな。おそらく、1896年、ドイツ社会民主主義の始祖ヴィルヘルム・リープクネヒトが演説で使ったのが嚆矢だろうという。「国家社会主義とは実のところ国家資本主義」と語ったとか。レフ・トロツキーも国家資本主義の意味が理解されていないことを嘆き、「裏切られた革命」と警告したという。中国政府は、リープクネヒトやトロツキーの潮流へ引き戻したという見方もできそうか。
「国家資本主義は、社会主義下の計画経済が21世紀的な装いで復活したものではない。官僚が巧みに運営する資本主義であり、政府ごとに特徴を異にしている。政府が主に政治上の利益を追求するために市場を主導する仕組みである。」
本書の定義は、なんとなく日本社会の皮肉にも映る。我が国は広く自由市場経済だと信じられているが、社会主義的な性格がすこぶる強い。一億総中流思想とは、まさに社会制度を前提としており、民間企業は通産省の影響下で国際競争力を培ってきた。ブレトンウッズ体制下で、1ドルが360円の固定相場だったことは、今では信じられないかもしれない。国営のプロ野球球団があったぐらいだ。当時、最も成功した社会主義国家と呼ぶ経済学者もいた。1ドルが250円を切って円高不況と呼ばれ、さらに、おいらが就職する頃、150円を切り就職難と言われた。だが、今の学生諸君の苦労に比べれば天国よ。
権威主義の残党はいまだ勢力が衰えず、官僚支配の強いお国柄であることは周知の通り。人間社会の支配者は、国家か?多国籍企業か?はたまた市民か?その駆け引きは未だ決着を見ない。そもそも誰かが支配するといった類いのものでもあるまいに。だが、人間ってやつは、所有や支配が絡むと血眼よ。そして、他人の生活、他人の人生、他人の精神までも支配しようとするのに、自己の精神となるとまったく手に負えないときた。

3. 資源ナショナリズム
今、企業の時価総額ランキングに異変が起きている。フォーブス誌やフォーチュン誌などが発表する世界企業ランキングには、中国、ロシア、湾岸諸国の国営企業が上位を占める。
本書は、資源ナショナリズムの事例として、エネルギー産業、特に石油を中心とした国家資本主義のからくりを暴く。発展途上国でマイカー保有率が上昇すれば、自動車市場が拡大し、エクソンモービル、ロイヤル・ダッチ・シェル、BPなど欧米の多国籍企業が潤うことが想像できる。しかし、世界の原油埋蔵量の3/4は、もはや国営企業の保有下にあるという。サウジアラムコ、ロシアのガスプロム、中国石油天然気集団(CNPC)、イラン国営石油会社(NIOC)、ベネズエラ国営石油会社(PDVSA)、ブラジルのペトロブラス、アブダビ国営石油会社(ADNOC)、クェート国営石油会社、マレーシア国営石油ガス会社ペトロナスなど。世界の指折りの多国籍企業といえども、石油や天然ガスの全体産出量はわずか10%、埋蔵量の3%を抑えているに過ぎないという。最大のエクソンモービルでさえ世界15位に甘んじている。
エネルギー分野において政府と民間企業の関係は根底から変化しており、おそらく食料分野においても似たような状況にあるのだろう。人間ってやつは、少しでも権力を手中にすると、自己顕示欲が膨らみ、権威主義に陥りやすい。政治家が、資源ナショナリズムを高揚させるには十分な土壌が整っている。自由市場の堕落で関係のない国々にまでとばっちりを食えば、IMFの支援も当てにはできない、と考えるのは当然だろう。国家財政の支援のために政府系ファンドを設置し、自由市場への依存性を弱めようと画策する。国家の庇護下で国内市場を独占し、その莫大な利益を政府系ファンドの資金源とし、世界中で国益を最大化するために使う。なるほど、財政難の対処で国債発行しか術を知らない無防備な経済政策よりは、はるかに賢い。
本書は、同じ国家資本主義でも一枚岩ではなく、中国型とロシア型で大きな違いがあることを指摘している。まず最大の違いは、人口だ。中国経済は、資源政策一辺倒で全国民を養えることができず、必然的に多元的経済にならざるを得ない。世界銀行は2008年、中国は就業率を一定に保つだけでも、9.5%の経済成長を必要とすると推計しているとか。ロシアに比べれば、中国の政治指導者は、国営企業や国営銀行との直接的な結びつきは弱いという。それでも、江沢民が産業界のエリート層を誘導して「赤い資本家」と呼ばれる贔屓企業家に党員資格を与えるよう呼びかけたなどの動きはあり、中央政府の影響力を強めることに意欲満々なことは否めない。
一方、ロシア型国家資本主義は、市場をうまく機能させようと意気込みながら、成果があがらない場合は手ごろなスケープゴートに責任を転嫁するのが常だという。この性癖はどこの国にもある。実際、ロシアは資源外交を露骨にやっており、旧ソ連圏の国々はいまだにロシアの影響下にある。EUへの加盟は、トルコ、クロアチア、セルビア、ウクライナ、グルジアのようなヨーロッパの端にある国々の悲願でもある。国家資本主義が資源ナショナリズムと非常に相性がよく、いまだイデオロギーの域を脱していないのも確かであろう。そうした国家の思惑とは対照的に、脅しや強迫の類いは、民主主義と相性がすこぶる悪い。実際、国家という枠組みに疑問を抱く人々も少なくない。オリンピックやワールドカップといった、かつて国家を挙げて取り組んできた行事ですら、市民の反対運動を受ける。国内政治を疎かにしておきながら、何が世界のお祭りだ!と。だが、国民を一致団結させなければならないと、使命感に憑かれた政治家はいまだ多く、それに同調する市民も大勢いる。我が国でも、東京オリンピック開催に苦言を呈そうものなら、非国民と呼ばれる。さらに、政治団体や宗教団体、あるいは企業献金といった選挙運動では、民主的な性格を失ったものが多い。つまり、非民主的な選挙によって、民主政治が行われているということだ。
「Aから略奪を行いBに支払いをする政府は、いつでもBの支持を期待できる。」
... ジョージ・バーナード・ショー

4. 愛国心ブランド
2011年、中国初の航空母艦「遼寧 」が完成し、その脅威をマスコミが騒ぎたて一部の愛国者を煽ったが、多くに軍事評論家はそれほどの脅威を感じていないようである。もともと「ヴァリャーグ」という名の旧ソ連製で、1988年に進水し、10年後、中国に売却された。当時、マカオに停泊させて、ホテル兼カジノにすると発表されたが、実際は軍事用に改修されたのである。しかし、これによって雇用を創出することはでき、むしろ経済効果として大きい。空母というと、かつての大日本帝国海軍のイメージをひきずるようだが、実は軍用だけでなく、救助活動で非常に役立つ。戦争で機動力が発揮できるということは、救援活動でもそうだということだ。海上に救援基地を簡単に設置でき、実際、東日本大震災でも米空母が物資空輸で活躍した。気候変動の激しい時代となれば、潜水艦も軍事利用だけには留まらないだろう。中国政府に限らず各国政府が、そうした点に着眼できるかは別だが...
どこの国も戦争をするほど経済的な余裕はあるまい。だが、困窮というほどではない。人間社会ってやつは、困窮過ぎると内乱の危険をともなうが、少し余裕があると外国と戦争をしたがるもので、ちょっとしたいざこざが愛国的な世論を煽り、大戦争に発展する可能性は十分にある。
一方で、中国の経済政策が、徐々に市場を解放し、外国からの投資を呼び込んだ実績は紛れもない事実である。だが、国内企業の国際競走力が身についてくると、少し事情が変わってくる。実際、外国企業の締め出しが見え始めている。
本書は、その事例に「aigo(愛国心)」ブランドを擁する消費者向け電機メーカの動向を紹介している。北京華旗資迅数碼科技(インフォーメーション・デジタル・テクノロジー)は、ナショナリズムを煽って国営企業を強化する戦略を露骨に用いているという。中国企業が、国内市場で元気なのは結構な話である。だが、解放してきた市場を今度は世論を利用して閉鎖しようとするなら、外国企業もそれなりの対処をするだろう。中国政府とて、嵐のように猛威をふるうネット世論の怒りを、すべて制御できるわけではない。本書が指摘するように、中国政府が国家資本主義の道をさらに推し進める公算は高いのかもしれない。だが、それこそ市場の歪と世論の歪のツケを払うことになるだろう。
リーマンショック以来、アメリカを始めとする自由市場の脆弱さに対して、中国政府は国家資本主義の方が優れていると声高に主張してきた。しかし、中国経済の脆さも目立ち始めている。民間セクターの拡大と、国営センターの先端技術によって、経済効率が上向き、労働生産性が高まっている。このこと自体は望ましいが、単位成長当たりの雇用創出は減っていくのが、経済原理というもの。国民生活が豊かになれば、労働効率も低下する。まさにシュンペーターが唱えた創造的破壊の道だ。その際、内陸部と都市部の経済格差がどの程度に抑えられるかは、気の遠くなるほどの難題である。中国の経済成長率は、いわば、自転車操業のような状態にあり、絶えず加速し続ける必要がある。同時に、大気汚染問題や人口高齢化の問題を抱え、頻発する抗議運動の鎮圧にも務めなければならない。さらに、政府批判を監視するために、数億人規模のネットユーザの言論にも目を配る。
しかしながら、自由市場国にも、国家資本主義の勢いに目を奪われ、その道をとるべきだと模索する政治家は少なくない。我が国のような高齢化社会ともなれば、ますます社会制度への依存度を高め、国家資本主義的な傾向を強めるのかもしれない。だが、本当に国家資本主義へ舵を切れば、今までの取引国から信用を失うだろう。愛国心の弱点は、自国を誇りに思うことと、他国を蔑んで優位に立つことを混同すること、そして、誰もが狂信的な愛国者へ変貌する資質を持っていることだ。
「わたしは自由市場資本主義の未来にきわめて楽観的である。だが、国家資本主義の未来については楽観していない。いやむしろ、楽観しているというべきか。というのも、国家資本主義はいずれ終末を迎えるはずだと考えているから。」
... マリー・N・ロスバード

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