2015-04-19

"マッキンダーの地政学" Halford J. Mackinder 著

「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する。」

ハートランドとは、大陸の心臓地帯を意味し、それは、東欧から、イラン高原、チベット高原、モンゴル高原、シベリア・トランスバイカル山系に至る広大な地域を指す。20世紀初頭、ハルフォード・マッキンダーは、ユーラシア大陸を中心とした地理学の観点から国際政治学を論じた。
15世紀以降、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマたちの大航海時代を経て、世界図は塗り替えられた。世界は、陸地では隔たれていても、一つの海でつながっている。このことに気づいた海洋国家は、植民地を足がかりにシーパワーをもって世界を席巻した。だが、人間社会における根源的な価値を冷静に眺めてみると、それは食料資源であり、エネルギー資源であることに変わりはない。マッキンダーは、ランドパワーの時代が来ることを予言し、これに対抗するためのシーパワーの整備と連携が必要だと訴えたのである。
しかしながら、本書が奥深く問題提起しているものは、デモクラシーの二大欠点を仄めかしていることだろう。それは腰が重いこと、そして責任の所在がはっきりしないことだ。原題は「Democratic Ideals and Reality(デモクラシーの理想と現実)」というそうな。わざわざ改題したのは、マッキンダーという人物と地政学という用語を強調するためであろうが、原題のまま方が真の意図を汲み取ることができるであろう...

マッキンダーは、世界平和と安定のために、国際機関を通じての国際警察力というものを唱えている。後の二つの大戦では、ドイツは陸軍力でヨーロッパを制圧し、日本は関東軍に大陸侵略の夢を託したが、米英を中心とする海軍力によって大勢を決した。今もなお、資源外交を武器に国際地位を確たるものにしようという目論むが横行し、イデオロギーや正義を掲げる戦争ですら政治的思惑が見え隠れする。資源国と非資源国の駆け引き、ランドパワーとシーパワーの啀み合いは、いまだ収まる気配がない。資源地帯が紛争の元凶だとすれば、神の恵みは悪魔の恵みというわけか。
情報化社会では、世界情勢はリアルタイムで映像とともに日常生活に飛び込み、地理的隔たりは弱まるかに見える。だが、遠い地域の出来事であることが却って安心感を与え、残酷なシーンですらポテトチップをかじりながら眺めることができる。やはり他人事であることに変わりはないか。人間社会にとって地理的要素は、想像以上に大きくのしかかる。情報が各地域で均等に得られる時代では、生活圏も適当に分散し、地方分権問題も高齢化問題も簡単に解決できそうなものだが、現実に人口は都市圏に集中する傾向を強めていく。仮想空間にどんな立派な王国を築こうとも、寂しがり屋の性格までは変えられそうにない。最終的に自己存在を確認できる場所が保障できなければ、人間は精神を簡単に崩壊させる。つまり、人間ってやつは、心の拠り所を求めて生きているに過ぎないということか...

心の拠り所の一つに国家というものがある。人間社会には、生まれるとすぐにどこかの国に属すという奇跡的なシステムがある。しかも、そこに何の疑問も持たない。だが、近代国家が形成されたのは、18世紀から19世紀頃で、それほど古い慣習ではない。イギリスは少し先駆けて17世紀、清教徒革命と名誉革命によって議会は王室との折り合いをつけ、立憲君主制を確立。18世紀、アメリカはそのイギリスから独立し、フランスは革命とナポレオン戦争を経て共和国を成立。19世紀、ドイツはビスマルクによって統一が進められ、ヨーロッパ中にデモクラシーの波が押し寄せる。日本は、欧米列強国に対抗するために、明治維新を経て富国強兵の道を歩み、大正デモクラシーへと受け継がれる。
要するに、今日見られる大方の国家の枠組みは、二、三百年ほど前に決まったわけだ。そして現在、グローバリズムの波が押し寄せ、デモクラシーは次の段階に昇ろうとしているのだろうか?国家という枠組みも、そろそろ老朽化しつつあるということであろうか?少なくとも、プラトンが描いた国家とは違うもののようだし、これを普遍原理と崇めるには脆弱すぎる。
そういえば最近、国家よりもアイデンティティという用語をよく見かける。今日、ほとんどの国々で世論が真っ二つに分かれる。グローバル的な思想と国粋的な思想によって。ただし、どちらが優れているというのではない。誰とでも話し合えば解決できるという対話崇拝者が揉め事を煽る一方で、母国に誇りを持てず劣等感に陥るのも寂しい。かつて、ブルジョワジーとプロレタリアートという物理的な階級対立があったが、デモクラシーが浸透してくると空想的な思想対立に移行するのかは知らん。
ただ、近代国家の歴史は、デモクラシーに始まる思想、風潮が、人類史上かつてない残虐戦争へ導いてきたのは否定できない。フランス革命が提示した、自由、平等、博愛という三大原理は、いずれも単独で大暴走する性格を持っている。この三位一体の調和が崩れた時、自由主義が弱肉強食的な資本主義を煽り、平等主義が搾取的な共産主義を敢行し、博愛主義が魔女狩り的な盲目主義を崇める。国家を支える理想主義には、既に予知された災厄が潜んでいる。経済政策さえうまくやれば、少々無謀でリスクの高い外交政策にも世論は目を瞑るどころか、後押しする。そこに、世論を煽り立てる報道屋が便乗するという構図は、人間社会の伝統として根付いている。民主主義が抱える固有の弱点は、誰もが厄介事に眼を背けること、そして誰もが無責任だということに加え、集団的暴走がこれらの性質を助長することであろう...

1. 二つの相反する理想主義
これまでの理想主義は、二種類のまったく異次元の気質と結びついてきたという。それは、受動と能動の精神である。例えば、仏教、ストア派、中世キリスト教などは自己否定を基礎とし、フランシスカン派は清純と貧苦と奉仕とに身を置いた。対して、近代デモクラシーの基盤となったアメリカ独立戦争やフランス革命の理想は、自己実現を基礎に置く。すべての人間は平等に、自由と幸福を享受する権利を有する... といった天賦人権説を唱えたのは、ルソーらの啓蒙思想家であった。しかし、これらの理想主義は相反するのではなく、時代の現実に対応した姿に過ぎないとしている。
古き時代、自然の力は人間よりもはるかに強く、苛酷な現実が人間の野望を砕いてきた。世界全体が貧困で、欲望を捨てることが唯一の希望であり、それ故に宿命論を求める。裕福な一部の地主と、それに服従するその他大勢の奴隷という構図の中で。
ところが、一般人にも自由という価値観が浸透しはじめると、公平なチャンスにありつける。自己存在に積極的な価値を求めるのは、素晴らしいことだ。しかしながら、自己存在を崇め過ぎ、本来の目的であった自己実現よりも、ソフィストのお家芸だった弁論術の方を覚醒させ、アピール戦略やプレゼン能力に受け継がれる。これが、現代政治の姿か...
最初に、ヴォルテールのような理想を掲げる啓蒙家が登場し、次に、ルソーのような思想家が幸福社会の在り方を唱え、物的条件を立証する。やがて、新しい思想が情熱家たちの心を掴み、一般人にも浸透しはじめる。そのエネルギーが強行な指導者と結びつき、共に理想のために立ち上がる。だが、集団性とは怖ろしいものだ。理想に憑かれれば、理性をば見失わせるのだから。そして、既成権力への不満のはけ口となって暴力が横行する。有識者たちが、けしからん!と憤慨するのも、単なるストレス解消法であったか...
「専門の歴史家達が戦史を書くとき、たいていその序文のなかで歴史の警告を無視した時の指導者の無知を指摘するのが、従来のしきたりになっている。しかしながら事実をいえば、およそあらゆる企業組織と同じように、国家社会がまだ未熟のあいだは、ある程度その思う方向に進路をむけることができる。けれども、いったん老境にはいると性格がすっかり固定化してしまって、そのやりかたに大きな変化を加えることができないようになるというのが、およその真相である。」

2. 船乗りの世界観と内陸人の世界観
グローバル的な思想と国粋的な思想は、なにも現代特有の現象ではない。古代ギリシア時代、エーゲ海をめぐって海戦が繰り広げられ、クレタ島こそがシーパワーの根拠地であり、アジアとヨーロッパを睨む拠点であった。ローマ帝国は、地中海を制覇することによって、フェニキア人とギリシア人という二大海洋民族を制した。第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルは、ローマのシーパワーとの対決を避け、陸路に活路を見出したが、敗れた。これらの歴史事象は、海洋的な視野と内陸的な視野の対立では、常に前者が優位であったことを示している。
しかし、そうとも言えない事象がある。アレキサンダー大王は陸路によってペルシア帝国を征服し、インドまで達した。最大勢力を誇ったチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国は、まさにマッキンダーの唱えるハートランドをほぼ制圧した。
では、何がそうさせたのか?その要素に、運搬力と情報力を挙げることはできるだろう。つまり、国家の機動力と柔軟性だ。古代海洋国が優位性を築いたのは、地中海貿易によって各地の情報をもたらした結果とも言えよう。アレキサンダー大王は、オリエント各地にアレクサンドリアという名のギリシア風の都市を建設し睨みを利かした。チンギス・ハーンが、古代から育まれてきたシルクロードの偉大な交易路網を活用したことは想像に易い。
近代国家においても、海洋的な視野がグローバル的な思想と、内陸的な視野が国粋的な思想と結びついてきた。どちらの立場に立つかは、かつて国家指導者によって決定されたが、デモクラシーが浸透してくると世論に委ねられる。
ドイツが二つの大戦で本当に欲したのは、スラブ系民族が支配するバルカンを始め東欧の地域にあったはず。それは、急速に経済発展する非資源国の宿命である。なのに、なぜドイツは西部戦線を拡大させたのか?中立国ベルギーを蹂躙してまでフランスに攻め入るとは?しかも、二度の大戦で同じ過ちを繰り返していることは、多くの軍事評論家が指摘していることだ。
1908年、オーストリアがベルリン条約を無視して、ボスニアとヘルツェゴビナを併合したことが歴史の節目とされるが、もともとはトルコ帝国の属州をスラブ系民族が奪還しようとしていた土地。そこに、ロシア帝国との密約が見え隠れする。1895年、ロシアはドイツの軍事的脅威に対抗してフランスと同盟するものの、日露戦争の敗北と革命の二重の痛手を負う。弱体化したロシアを、ドイツが軽く見ていたのは確かであろう。おまけに、イギリスのデモクラシーは冬眠状態で、アメリカに至っては永遠に眠りから覚めないと踏んでいたという見方がある。
世界情勢もそうだが、戦争へ邁進させる主要因に、国家と資本家が強く結びつき、それを世論が後押しする構図がある。日本の世論も、民主主義の堕落政治を馬鹿にしていた。勝ちすぎるために戦線を拡大し、墓穴を掘るのは大日本帝国とて同じ、一度調子づくと疑念を持つこともできなくなる。日露戦争におけるバルチック艦隊の撃滅では、あまりにも日本海軍を称賛する世論で占めていたが、その裏でイギリス海軍は日本の勝利を図り、あらゆる海上の動きを監視していたことは留意しておこう。イギリスは、インドにおける統治を決定づけるとともに、中国への門戸を開くために、巧みな外交戦略を展開している。日本から見れば、同じ島国という親近感があっただろうが、第一次世大戦後、すぐに日英同盟は破棄される。
「レッセ = フェール型の自由貿易主義も、ドイツ流の掠奪的保護主義も、どちらも帰するところは帝国主義の原則である。」
太平洋戦争では、海軍と陸軍の外交的意識の違いを露呈した。海軍は徹底的に三国同盟を拒否し、対米戦争を避けようとした。生産力や工業力で圧倒されるだけでなく、資源地を確保しても輸送能力が不足している実情を知っていたからだ。しかし、陸軍の方が世論に近い感覚を持っていた。海軍首脳も世論には逆らえず、ついに、やむを得ず!と無責任論に転換する。軍部に駆り立てられやすいのは内陸的な視野の方であろうか。国粋主義の弱点は、母国の誇りを静かに抱くのではなく、他国を声高に罵ることによって高揚することにあり、それは民族優位説を唱えるに等しい。頑固さの点では国粋主義の方が圧倒的に勝り、ちょっとでも苦言を呈すと非国民と呼ばれ、集団的抹殺にかかる。
しかしながら、戦争で勝っても、人は死ぬ。いったい誰が勝っているのやら?国同士でどんなに啀み合っても、戦争という手段に出れば、政治も世論もやはり愚かだということを、人類は十分過ぎるほど経験してきたはずだが。それでも第三次世界大戦にまで発展しないところを見ると、人類は少しは賢くなっているのだろうか?
「アテネとフィレンツェが偉大だったのは、生活を全体として見る眼があったからである。諸君がいつまでも能率と価格の合理化という偶像を追いつづけていると、やがて青年達は人生のある一面だけしか見ようとしない時代がやってくる。」

3. ボルシェビキの持つ二つの側面
本書は、ボルシェビキによる官僚独裁化への懸念を表明している。だが、それよりも恐れたのは、ドイツ軍国主義の再燃であり、なんらかの形でボルシェビキと結びつくことであろう。これに対抗して、シーパワー諸国がどういう役割を果たすべきかを問うている。民主主義ってやつは、自己防衛の必要に迫られなければ、なかなか重い腰をあげない。ましてや軍事問題など避けて通りたい。スターリンでさえ自由主義連合のシーパワーとの直接対決を避けた。ただ、スターリンをボルシェビキと呼ぶには、ちと疑問があるが...
ボルシェビキには、もともと二つの側面があるという。一つは、ジャコバン派的な暴力と独裁主義で、これは多くの革命の一定の段階に必ず顔を出すもの。二つは、サンジカリスト的な理想主義。サンジカリストとは、政党や議会を排除し、労働者の直接行動によって社会革命を目指す、ある種の労働組合主義のようなもの。
完全な平等分配を目指せば、中央政府の搾取にあい、横暴な官僚主義を助長させる。ハートランドに近い国々ほど、不自然な自由と、不自然な平等を強要される傾向があるようだ。資源で国民が養えるならば、高度な平等主義が育まれてもよさそうなものだが、現実に貧富の差は大きい。資源が豊かということは、国民を怠惰にさせるのか。分配は人の裁量に委ねられ、官僚体質と腐敗が蔓延する。資本は権力者に集中し、ますます民主主義的な要素から乖離する。
ブラッド・ダイヤモンド...じゃないが、人類の歴史とは、血塗られた資源争奪の歴史でもある。国家資本主義国では、土地や資源の奴隷になり、自由市場資本主義国では、富や財の奴隷と化す。アリストテレスの唱えた生まれつき奴隷説も、あながち嘘とは言えまい。
「世界の地理がさししめす現実から出発して、もし諸国民のために自由を確保しようと思うならば、一連の比較的大きな国家のあいだで資源の公平な配分を期する以外に、さしあたり賢明な方法はありえない。」

4. 世界警察の地理学的役割
国際関係とは、実にデリケートものだ。国連ですら各国の思惑が絡み、中立の立場を保つことが難しい。なんでも話し合えば解決できるという狂信的な博愛者たちがいる。だが、関係とは距離をはかること。神の前で誓った二人ですら、法の調停を求める。近づき過ぎても、遠ざかり過ぎても、やはり揉める。自由を信奉するアメリカとて、ヨーロッパやアジアの国々とは大国の威信を以て冷静な態度を見せても、北極海に面したロシアや間近なキューバが相手となると感情論を剥き出しにする。人間ってやつは、弱い隣人に同情できる一方で、強い隣人に嫉妬する。
古来、外交政策とは、仲良しグループ争奪戦であった。子供が仲間を募るような幼稚なレベルで、共通の利害関係で結びつき、より単純な原因で敵対し、政治哲学に基づいた行動など微塵も感じさせない。それもそのはず、理念なんてものは理想を声高に叫ぶだけで、現実社会では無力なのだから。政治家ってやつは、まさに現実主義者で、自分を支持してくれる者ならどんな相手でも大歓迎する特質を持っている。
国連が、世界各国から一定の距離を置き、世界の衝突を予め察知し、それに対処する能力を持つことが望ましい。だが、国連もアメリカも世界の警察官になるには程遠いようである。
一方で、近くの大国に依存し過ぎるよりも、少し距離を置いた国々との通商関係を結ぶことで、戦争リスクを軽減させる地域がある。それが、現実的な自立の道であろうか。いくら国連が機能しないとはいえ、今のところ国連を機能させる方向に努力するしかなさそうだ。
「われわれは一般的な義務を引き受ける前に、まず具体的にそれが何を意味しうるかを、よく考えたほうがいい。」

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