2015-08-16

"老年について" キケロー 著

Cicero(キケロー)は、現代イタリア語では「Cicerone(チチェローネ)」となり、「観光案内人」という意味になるらしい。この雄弁家は、人生の案内人にでもなろうというのか。なるほど、ポジティブ老年論というわけか...
「人生の行程は定まっている。自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれの時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気、早安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っている。」

キケローは問いかける... 生あるものは、いつか老いる。それは惨めなことであろうか?はたして老年は幸福を妨げるものであろうか?
幼年期に青年期を迎え入れるよりも、壮年期に老年期が忍び寄る方が、はるかに速く感じられる。長く生きるほど相対的に時間を短く感じさせるのか、あるいは、迫り来る死への焦燥感がそうさせるのか。やがて心配症を募らせ、僻みっぽくなり、頑固になり、嫌味の一つも口にしないと気が済まない。説教することがストレス解消の手段にされるとは。愚か者ほど己の欠点や咎を歳のせいにするものらしい。死への嫌悪が、人生を無駄に過ごした諦めがたい失望に対して比例するとしたら、それを老齢で悟るのは辛い。人生の目的は目的ある人生を生きることだ!と励ませばなおさらである。
「幸せな善き人生を送るための手だてを何ひとつ持たぬ者にとっては、一生はどこをとっても重いが、自分で自分の中から善きものを残らず探し出す人には、自然の掟がもたらすものは、一つとして災いと見えるわけがない。何よりも老年こそ、そういった種類のものなのだ。」

言葉で自己弁護をしなければならぬ惨めさは、なにも老年のものだけではあるまい。興奮と激情のうちに心を乱しやすいのは、むしろ若者の方である。奉仕と訓育の精神のうちに、整然と穏やかに語られる言葉にこそ諭す力がある。多くを学びながら老いていく、これを喜びと感じることができれば、これほど幸せなことはあるまい。熟成された美酒に価値を求めるように、老年だからこそ見出せる価値がある。いくら青年の体力を欲しても、青年時代に獅子や虎のごとく体力を欲したわけではあるまい。最初から体力には限界があり、行動範囲も限られていることを承知しているではないか。下を見ては慰め、上を見ては羨むだけのこと。人間はいつまでも餓鬼のままであり続け、何かを欲してやまない。飢えと渇きの中をさまようがごとく。
孔子は... 十五で学問を志し、三十で自立し、四十で迷わず、五十で天命を知り、六十で人の言葉を受け入れ、七十で思うがままに生きよ... と人生戦略を語った。人生とは、死ぬ瞬間をいかに生きるかの準備期間ということであろうか。
人が必要以上に心配症を募らせるのは、対象の正体が見えない時である。死という得たいの知れないものが確実に近づくと知れば、恐怖に慄き、慌てふためくのも自然な反応であろう。だからこそ、その準備を怠らないようにしたい。常に何かを知り、学ぼうとする意欲を持続させる、それは年齢に関係ない動機であろう。
「節度があり気むずかしさや不人情とは無縁の老人は耐えやすい老年を送るが、苛酷さと不人情は、どの世代にあっても煩わしいものなのだ。」

本物語は、古代ローマの政治家、大カトーことマルクス・ポルキウス・カトーが、文武に秀でた二人の若者小スキーピオー(スキピオ・アエミリアーヌス)とガーイウス・ラエリウスを自宅に招き、自ら到達した境地を語る対話篇。その議論は、老年が惨めだとされる四つの理由を列挙し、これを論駁する形で展開される。四つの理由とは、公の活動から遠ざけられること、肉体を衰弱させること、快楽を奪われること、そして、死に近づくこと。
今、流行りのごとく口にされる「高齢化社会」という言葉には、暗いイメージがつきまとう。老いると目や耳が衰え、思考や記憶が鈍り、生きることも難しくなる。しかし、老年が精神の成熟した姿であるとすれば、どうして社会的弱者と見なせようか。
ここには、ソクラテスの魂「善く生きる」が受け継がれる。では、善く生きるとはどういうことか?誰しも、老年の重荷を軽くしたいと願う。名声や肩書といった過去に縋って生きるとすれば、それは既得権益に縋るも同じこと。目指すものがなくなったと言うなら、それは人間を悟ったと自負しているようなもの。人類の目的が叡智を伝承することにあるとしたら、それに励みたい。魂の不死と永劫回帰を信じつつ。
... などと書いてはみたものの、泥酔者には叡智が何たるか?一向に見えてこない。いや、見えないからこそ心地良いのかもしれん。真理を悟ってしまえば、残りの人生は色褪せてしまうだろう。自然に服従し、自我に服従するしかないということか...

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