2015-08-30

"義務について" キケロー 著

ベランダで心地よく純米酒をやっていると、大きなランドセルを背負った女の子から、おはようございます!と挨拶され、照れくさく答える。まるで堕落人のショーウィンドウ...
そんな我欲に憑かれた酔いどれが、なに故こんなものを読んでいるのか?なぁーに、気まぐれってやつは誰にでもある。ところで、気まぐれな善意と周到な悪意とでは、どちらが厄介であろうか...

この哲学書は、ペリパトス派(逍遙学派)の所説とあまり違わないようである。それも、ソクラテス派であり、プラトン派であり、アリストテレス派であることを表明しているように映る。その根底思想には、不死の魂から導かれる自然的な叡智の継承がある。
義務とは、高貴さを備えた生に対して生じるもので、それが私的であれ、公的であれ、人々が係わり合う社会で必然的に生じ、けして免れることのできないものだとしている。しかも、徳を伴わなければ、友情も、正義も、寛大さも、けして尊重することはできないと。
また、ストア派の義務論が賢者のみ実行可能であるため、これを一般人にも実行できるよう換骨奪胎することを表明している。弁論と判断の力を大衆に植え付けようとは、とてつもない義務をキケロー自身に課している。
ただ、最高善を唱えるからには、そこに絶対的な義務が定義できるというのか?道徳的な高貴さとはどんなものなのか?そんなに硬苦しく構えず、ゆとりや柔軟性をもって自然に構えたい。人間、無理をしすぎると碌な事にならない。
「真理への探求と追求は、人間に特有のものである。従ってやむをえない仕事や心配がないとき、ひとは当然何かをみたりきいたり、また習い添えることをのぞみ、浄福の生活をととのえるに必要なものとして神秘的または驚嘆すべき事がらの知識を求めるのである。これをとっても、真実、単純、純粋なものは、人間の本性にもっとも強く訴えるものであることがわかる。」

さて、義務とはなんであろうか...
この言葉には、なにやら高貴で崇高なものを感じなくはないが、同時に、慣習や虚栄に惑わされやすい印象がある。これをやるのは義務だ!などと雄弁者が語れば、それなりに説得力を持つ。それ故に正義と同様、悪用されやすい。
一般的に、社会人は働いてい収入を得ることを義務付けられ、学生は勉学に励むことを義務付けられる。こうした慣習は、自立や自律と相性が良さそうに見える。だが、仕事や学問の内容について問われることがあまりない。自分の仕事は、自然的な義務を果たしているのか?自分の学問は、はたして自然の理に適っているのか?実は、やってはいけない仕事、やってはいけない学問があるのではないか?潰すべき組織があるのではないか?
人は、常に何か意義らしきものをやっていないと落ち着かない。収入源となる何かに対して役に立っていないとなれば、尚更。日々の仕事で、納期を守れ!約定を守れ!などと使命感を強要されながら、今を生きるために仕方なくやっているだけのこと。あるいは、地位や役職を欲し、多数派の支持を募ることばかりに執着し、自己存在を強調せずにはいられない。こんなブログですら何年も続けていると、やらないと罪悪感とまでは言わなくとも、サボった気分に襲われる。いつも読んでます!などと励まされると、強迫観念に駆られるがごとく、ジャンク長文を書き続ける羽目に。
そして、義務は自己正当化の手段に成り下がる。叡智への純粋な欲望は脂ぎった欲望へ変貌し、かつての高邁さは高慢の内に沈んでいき、あらゆる手段の下で義務は後付けされる。世間には、悪意の詐欺だけでなく、善意の詐欺も余すところなく健在ときた。悪意を自覚できるだけ、まだマシであろうか。この泥酔者は半世紀も生きながら、義務がどんなものか?いまだに見えないでいる...
プラトン曰く、「正義を欠く知識が英知よりむしろ狡智といわれるべきであるのみならず、危険を待望する精神もまた、もしそれが利己的な欲望に駆られ公共の利益を忘れるとき、勇敢よりむしろ兇敢の名を持つべきである。」

1. キケローという人物
この人物が、政治家よりも哲学者としての印象が強いのは、残した書籍によるものであろう。共和制を堅持する保守派で、共和制ローマへの奉仕と貢献を常に念頭に置く実践家であったようである。カエサルとキケローは、ローマ共和制末期における相抗争する二つの巨星。キケローが討伐したカティリーナの謀反における処罰をめぐっては、カエサルと対立。彼に対抗する反貴族的な革新勢力は、カティリーナ、カエサル、クローディウス、ポンペイウスなど古い貴族出身者であったことも皮肉な構図である。共和制から独裁制へ移行する時代では、どちらが革新派なのか分かりにくい。おまけに、彼らの死がこぞって横死したことも、共和制の終焉を暗示している。
最期の大演説「ピリッピカ」では、カエサル暗殺後、後継の座に就こうとするアントニウスを弾劾するも、暗殺される。これを契機に共和制を守ろうとする支柱を完全に失い、アウグストゥスの帝政へと向かう。キケローの目には、この独裁制というべき帝政が非道的なものに映ったようである。
「もし英知が最大の徳だとすれば、協同の意識から導かれる義務こそ最高でなければならない。というのは、自然を認識し省察するだけでは欠陥があり完全ではないからだ。それを完全にするためには具体的な行為が伴わなくてはならない。」

2. 四つの徳から生じる四つの義務。
義務とは、人類の普遍性において自然との調和によって育まれるものらしい。そして、道徳的に高貴であるかは、四つのいずれかに起因するとしている。

一つは、真なるものへの洞察と通暁に存立するか。
二つは、社会の維持と人々のために、自分に課せられたものを寄与、約定された事柄における誠実さに成立するか。
三つは、高邁にして不屈の精神の持つ偉大さと強力さに起因するか。
四つは、謹慎と自制を生むところの言行における秩序と中庸に存在するか。

「ここにいう義務とは、人間として、また市民としての道徳的任務の完遂を意味する。」
アリストテレスは、人間はポリス的動物だとした。共同体を育むことができるのは、優れた動物の証であると。それ故に社会的地位に対して異常なほどの野心を抱く輩は多く、しばしば義務は過剰な領域で野望となってきた。したがって、節度をともなわない地位や権力は、社会にとって厄介この上ない。
歴史を振り返れば、義務は国家体制と結び付けられ、強要されてきた経緯がある。愛国心旺盛な人々は、自分の意にそぐわない者を非国民!と罵ってきた。国家の根源的な意義は秩序にあり、それ故に歪んだ政体では秩序もまた歪む。人間社会は無知であり続け、誤謬を犯し、狂気する。しかも、それに気づかないときた。歴史の意義はそれを気づかせることにあるが、いつの時代も現世を生きる者には分からない。そして、国家体制の下で罪悪感を煽って犠牲を強いる。そう、歴史とは犠牲の上に成り立つものだということだ。
それでもなおキケローは、感謝によって結びつく関係ならば、絆をいっそう強くするという。感謝をともなう議論では、批判ですら建設的な関係を築くと。しかしながら、議論は往々にして憎悪とヒステリックの内にある。
「善行も所を得ざれば悪行ぞ。」

3. 道徳的な高貴と有利
人は誰でも、集団における有利さを求めてやまない。物欲、金銭欲、名誉欲といったものは、この有利さに隷属したものだ。いくら高貴な有利さを求めても、醜悪な有利さが社会を席巻しているのが現実。学問の動機にしても、ビジネスや就業で有利となるからである。だが、そうした欲望が、庶民生活を豊かにしてきたのも、これまた現実。人間社会には、脂ぎった動機も必要であろうし、むしろ実践的な解はこちら側にあるのかもしれない。最初の動機がどうであれ、脂ぎった欲望はいずれ純粋な動機に薄められていくかもしれない。
そこで、キケローは永続的な動機から、どちらが有利であるかを自然的調和から問う。他人を不利益で害することで有利となることが、自然的であるはずがないし、義務であるはずがないと。強権が有利さから生じたとはいえ長続きせず、正義を狡猾に利用する者の権威も長続きはしないだろう。人間社会が、本当にそういう方向にあるとすれば、捨てたもんじゃない。
しかし、キケローの生きた時代から二千年以上経った今では、どうであろう?政治屋は抑圧欲に駆られ、法律もまた狡猾さと悪意な解釈で執行されることが多々ある。そして、「最高の法は最高の不法」というローマの格言も、いまだ意味を持つ。自分の利益を除外視してまで、他人の利益を真剣に考えることは難しい。自分に利害が及ぶからこそ、深刻にもなれる。遠くで起こっている戦争ですら、他人事と思うのが普通である。何人も害さず、公共の利益を守ることが義務だとしても、公共の利益が自分に回ってこなければ憤慨する。おまけに、権力、名声、肩書に憑かれ、正義を怠るばかりでなく、巧みに利用するときた。
「事実を秘匿する人が非難されるべきだとすれば、空言を申立てるものたちについて、われわれはどう評価すべきであろう。」
どんな立派な法を持ち込んでも、社会の慣習と結びつかなければ、ものの役には立たない。義務が慣習と結びつきやすいとなれば、善き慣習を人間社会に植え付けるしかあるまい。そして、義務は自律的、自制的となるはず。しかしながら、この善き慣習というやつが一向に見えてこない...

4. 孤独の有用と自然の理法
プーブリウス・スキーピオーは、常々こう語ったという。
「自分はひまなときほど、ひまがなかったときはなく、ひとりでいるときほど、ひとりでなかったことはない。」
暇にあっても公事を考え、孤独にあっても自分と語るを常とし、他人と語る必要性すら感じなかったとは。余人にとっては退屈病にさせ、怠惰とさせ、不安に陥れる孤独や暇を、哲人は喜んで招き入れる。それを義務とするかのように。哲学とは、叡智への熱愛に他ならないというわけか。真の自由人とは、孤独や暇を存分に謳歌できる人を言うのであろう。キケローは、こんな原理を要請してくる。
「道徳的に高貴なもののほかは、何ひとつとしてそれ自身のために求められるべきものはない。」
最高善は、しばしば有利さと背反するように見えるが、人類の普遍性において、けして矛盾しないという。富があり裕福であることに越したことはないが、それよりもはるかに優先すべきものがある。ただ凡人は、その優先順位を逆転させる。自然に順応して利益を得る者が、他人を害すようなことはすまい。道徳的な高貴さを備えた有利性を否定するならば、共同社会を否定するようなもの。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様性に富む必要がある、というのが真意だと思う。ただ、その多様性も、普遍性においては価値観を共有する必要がある... などと言えば、凡庸な、いや凡庸未満の泥酔者には高貴過ぎる!
そもそも政治が、不自然な存在ということはないのか?実際、毒を以て毒を制すの原理でしか機能せず、有害物質の有機体のような存在ではないか。しかしながら、悪があるからこそ善が覚醒する。善と悪、道徳と不徳は、鶏が先か卵が先かの関係にある。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、脂ぎった動機も、純粋な動機も必要なのであろう。それとも、不利益なこと、すなわち道徳的高貴に反することを、一度もやったことがない聖人のような人間が、過去に居たというのか?偉人たちは崇拝者によって神話化され、もはや最高善は空想の中にしか見当たらない。自分の悪に気づかないとすれば、罪も感じられない。ならば、善人だと思っている者ほどタチが悪いということはないのか?罪を自覚できる者の方が、はるかに自然の理法に適っているのでは...

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