友情などという言葉に照れ臭さを感じるのは、魂が腐っている証であろう。「老年について」(前記事)の姉妹篇ということで、つい手を出してしまう...
人は、なにゆえに友情を欲するのか?寂しがり屋だからか?SNS の旺盛な社会では、友人を作ることも手軽となった。だがその分、たった一人の親友をつくる難しさを思い知る。小さな友情を集積すれば、エネルギー保存則では同じか。はたして自分の周りに、親友と呼べる者が一人として存在するだろうか?悪友と呼べる奴ならいるんだけど...
有識者たちは、友情の掟のようなものを唱える。自分とまったく同じ立場で考え、互いの思いは共有すべきだと。そして、苦しい時だけ分かち合うことを望み、都合よく頼りにし、それに応じなければ裏切り者呼ばわれ。そういう輩ほど、絶大なる信義と正義を持ち出し、平等対等の立場を強要する。友情の生贄を差し出せというのか。あるいは、自分にない才能の持ち主を友人にせよ、と勧める輩は実に多い。友人から見返りを求めよ!というのか。友情も愛情も似たようなもの、愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない...
「友情は実益のためにあると言いなす連中は、最も愛すべき友情の絆を捨て去るもののように、わしには思える。友人によって得られる実益より、むしろ友人の愛そのものが嬉しいのだから。」
では、友情とはどのようなものか?キケローは、生きるに値する人生を問いかけながら、こんな掟を制定する。
「恥ずべき事は頼むべからず、よし頼まるとも行うべからず」
本書は、友情を育む人を、賢者とは別に「秀れた人」と表現している。そして、友情の資質に徳を持ち出し、徳こそが友情を結びつけ、保ち得るものとしている。徳には万物の協調があり、不動、安定の節義があると。
なるほど、善き友情を育むには、まずもって自分自身が善く生きよ!というわけか。賢者の類いであることは間違いなさそうだし、別段、賢者と呼んでも差し支えあるまい。友情が徳であるならば、実に多くのことを含んでいるはずだし、徳を知ろうとする自己愛は、啓発された自己愛でなければなるまい。結局、友情とは自分の人間性と向き合うこと... というわけか。だから、類は友を呼ぶということも自然に起こる。
「それなくしては友情もありえぬ徳というものを尊び、徳以外には友情に勝るものはないとまで考えよ、と君たちには勧めておく...」
1. 「友情について」
「老年について」では大カトーの聞き手であった若きガーイウス・ラエリウスが、今度は熟年の語り手となって登場する。キケローによると、人生を語るべき人物が大カトーだとすれば、友情を語るべき人物がラエリウスというわけだ。
場面は、無二の親友、小スキーピオー(スキピオ・アエミリアヌス)の死後、ラエリウス邸に二人の娘婿を招いて友情談義に浸る。二人とは、ガーイウス・ファンニウス・ストラボー(紀元前122年執政官)と、クイントゥス・ムーキウス・スカエウォラ(紀元前117年執政官)。キケローは、父親からスカエウォラに弟子入りさせられ、ラエリウスの噂話を耳にしたようである。つまり、自分の師が師と仰ぐ人物を語り手に据えた物語というわけである。その根本信念には「老年について」と同様、魂の不死を置く... 友人は死んでも友情は死なず!
「友に死なれた場合、大抵の人を苦しめることになるあの間違った観念から自由であるという慰藉がある。スキーピオーには何ら悪いことは起こらなかったと思う。起こったとすれば、わしに起こったのだ。但し、それを己の不幸として余りにひどく苦しむのは、友の身ならぬわが身を愛する者のすることだ。」
2. 友情の掟
友情には、絆の強制執行よりも、どこか遊び心がほしい。柔軟な豊かさとでも言おうか。似たもの同士であっても、何か違うものを持っているし、尊敬できる部分がある。思いを共有しなければならない息苦しさなんぞ、人間の多様性を否定しているようなもの。そして、友情に疲れ、愛情に疲れ、恨み、妬みを募らせていく。神の前で誓った二人ですら、法の調停を求めるではないか。本書は、第一の掟をこんな風に唱える。
「友人には立派なことを求むべし、友人のためには立派なことをすべし。頼まれるまで待つべからず、常に率先し、逡巡あるべからず。敢然と忠告を与えて怯むことなかれ。善き説得をなす友人の感化を友情における最高の価値とすべし。勧告にあたりてはその感化を率直に、かつ必要に応じて峻厳に用い、感化の及びたる時は従うべし。」
過度な友情は煩わしい。完全に心の許せるような人物に、これまで出会ってきたであろうか?親兄弟ですら鬱陶しいというのに。仲の良い友人ほど、うまく距離を保ちながら付き合ってきたような気がする。離反したくないという意識が、本能的に働いているのだろうか?
一方で、無条件で信頼しているところがある。互いの生き方に共感しているからであろう。友人の生き方が刺激となることは多々あり、どこか張り合っているところがある。自分をさらけ出せない世界で、どうして真の友情が育めよう。そして、酒を酌み交わしながら互いに醜態を晒し、いっそう心地よい存在となり、十年ぐらい顔を合わせていなくても身近な存在であり続ける...
3. 類は友を呼ぶ
「人間の本性ほど自分に似たものを強く求め、渇望するものはない。」
善き人に善き友人ができることは、自然の法則であるという。真の友人とは、第二の自己のようなものであろうか。真に学問を愛する者、真に真理を愛する者、真に人を愛する者は、見返りを求めたりはしないものらしい。ではなぜ、そんなものを求めるのか?真理とやらは、よほど心地よいものらしい。
しかしながら、大抵の人は自分にないものを持った人を求めるし、どうしても損得勘定が頭から離れない。学問をするにしても、報酬や役職を求めてやまない。あるいは、同じ苦悩を抱えているというだけで、仲間意識を持ちたくなるものである。財力、能力、権力を持ち、あらゆるものを手に入れながら、友情が手に入らないとは、なんと馬鹿げていることか。
友人を選ぶためには、互いに手探りをし、試さざるを得ない。だが、友情という言葉を崇め、美化するあまりに、判断よりも先に試す機会を潰していく。
ちなみに、カトーの言葉に、こんなものがあるそうな。
「ある人にとっては、優しそうな友人より辛辣な敵の方が役に立つ。敵はしばしば真実を語るが、友人は決して語らぬから。」
友情の在り方は多種多様な上に複雑で、疑いや立腹の原因はいくらでも転がっている。そして、多くの前兆があるにもかかわらず、目を背ける。「世辞は友を、真実は憎しみを生む。」とは、よく言ったものだ。友情が見えなくなるということは、自分自身が見えなくなるということか。恋は盲目と言うが、その類いであろうか...
2015-08-23
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