2015-08-09

"室町の王権" 今谷明 著

「室町時代は、天皇の権力を圧伏しようとする動きが極限に達した段階であるとともに、権力・権威をいったんは喪失した天皇が、新たな権威、つまり既成権力よりも高次の調停者としての地位を得て、不死鳥のように復活してくる時期でもあった。」
なぜ天皇家は存続し得たのか?それは千古の謎である。網野善彦氏は著書「無縁・公界・楽」の中で、民俗学や人類学の観点からこの難題を問うた(前記事)。伝統の力に対する精神的な後ろめたさのようなものを。今谷明氏は、政治権力や政体構造の正面からこれを問う。どちらが王道かと問えば、学術的にはこちらの方ということになろう。しかしながら、王道ってやつは、邪道と調和してこそ映える...

日本の歴史は、天皇を超える実力者を数多く輩出してきた。平清盛や源頼朝、あるいは北条氏、足利氏、徳川氏など。彼らは真の国王になろうと思えば、いつでもなれたはずだ。この手の議論では天皇神職説なるものをよく耳にする。民衆にとって、神のような存在であったことは確かであろう。だがそれは将軍とて同じで、やはり雲の上の人であったに違いない。では、天皇と将軍を区別するものとはなんであろうか...
西洋の歴史にも、類似の現象が見られる。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、いくら権力を振りかざしたところで、教皇グレゴリウス7世に破門だけは赦してくれ!とカノッサ城の門前で三昼夜泣きついた。フランス王フィリップ4世は、ローマ教皇をアヴィニョンに幽閉したものの、教皇制の根絶には至らなかった。
人間社会には、権力や武力だけでは征服できない何かがある。僭主的、専制的な政体が一時的に出現しては衰退し、最終的に世俗慣習として根付いてきた側が勝利してきた。人間ってやつは抑圧が激しいほど信仰心を強め、私欲的な圧政に対抗しては人間本性的な自由精神を覚醒させる。かつて天皇や将軍を超越し、信仰を超越し、人々の精神までも征服できた君公が一人として出現したであろうか。
社会秩序を構築するには、どこかで伝統の力や慣習の力に縋ることになる。政体や法律が完全な客観性で説明できるならば、過去に頼るまでもない。だが、人間社会が絶対的な価値観に達し得ない限り、過去と現在を比較しながら相対的な価値観を育んでいくしかあるまい。但し、人間の学習能力がどれほど当てになるかは知らん...

本書には挑戦的な副題が付せられる。「足利義満の王権簒奪計画」... この推理小説ばりの文句にイチコロよ。注目したいのは、天皇制の存続を官位や官職とセットで捉えている点である。つまり、律令体系を利用して取り巻き連中を格付けすることが、いかに首長の地位を安泰せしめたかということ。
古代中国では官位制度は王朝が交替する毎に改変されたそうだが、日本では8世紀に確立し、千年以上も連綿と続いてきた点で、世界に例をみない特殊な構造であるという。地方の有力者の中には、異常な執念を燃やし、官位獲得に大金を投じる者も数知れず。現在とて、あらゆる組織において肩書や名目上の権威を欲する風潮があるが、その意識の源がこのあたりにあるのかもしれない。
公家はもとより武家も、国司や守護など地方の実力者も、この体系に組み込まれていく。そして、武力集団の頭領に対しては、征夷大将軍という地位に押し込めた。下克上を掲げる戦国大名ですら勅命には逆らえない。実力者に世俗的な権力を認めつつも、叙任権や祭祀権といった信仰的な儀礼にまでは口を出させないという寸法よ。
しかしながら、こうした慣習に逆らおうとした実力者が、いなかったわけではない。本書は、足利義満が叙任権や祭祀権、すなわち精神の体系までも巧みに支配しようとしたことを物語ってくれる。最高権力者として相応しい待遇と儀礼を要求したことが、「義満の僭上」と言われる所以か。
義満の宗教観には、中国崇拝思想があったという。しかも、神祇、神道に否定的な観念の持ち主で、信仰心に乏しいとか。この中国かぶれは、中国皇帝の封禅の儀を強く意識し、陰陽道の下で盛大な祈禱体系を作り上げていく。封禅とは、皇帝が政治上の成功を泰山で天地に報告する国家の祭典で、秦の始皇帝に始まり、漢の武帝、後漢の光武、唐の高宗と玄宗、宋の真宗などが莫大な財源を投じて行った盛儀である。日本では、泰山府君祭がまさにそれか。
義満の派手好きは、金閣寺にも見て取れる。将軍はあくまでも世俗権しか持ち得ないので、これを超越するために、神道に疎い人物があえて出家する。外交政策においては、中国では律令体制における最高位が国王と見なされるため、天皇を超越する官位を模索する。実際、義満は明帝から「日本国王源道義」の封号を受けている。こうして国内外に既成事実をこしらえ、天皇と将軍を超越して真の国王になろうとしたというのである。
「天皇制度を、なんらかの意味で改変するには、外来思想を借りることが必要で、外来思想を拒否したとき、必然的に神国思想 → 天皇へともどるしかなかったのだと思われる。」

はたして、義満の野心が「王権簒奪計画」と呼べるほどのものであったのか?誰でも一度は、子供心のままに出世物語を夢見るものであろう。社長になりたい!大統領になりたい!といった類いである。ましてや、それが目の前にぶら下がっているとなれば...
結果的に、義満の急死によって野望は途絶え、天皇家はなおも存続することになる。義満が示したことは、国家として一つにまとめるためには、世俗権力だけでは不十分だということ。すなわち、社会の構成員に浸透した信仰や慣習をも取り込まなければならないということであろうか。
明治維新政府もまた、西欧列強国と対抗するために、幕府体制では国家は一つになれないことを熟知していた。封建社会の象徴天皇と民主社会の象徴天皇とでは、その意味も意義も大きく違うであろうが、いかなる宗派にも、いかなる党派にも属さないからこそ、高次の調停役になりうることに変わりはあるまい。にもかかわらず、現在ですら天皇家を政治利用しようとする動きは後を絶たない...

1. 治天の君
天皇が実際に政務を執らず、代行者を置くという例は枚挙にいとまがない。古くは推古天皇における聖徳太子の摂政など。それは、あくまでも例外的、臨時的措置であって、やはり親政が基本にある。
ところが10世紀頃、摂政や関白の方が定着し、天皇不執政という恒常的な慣習転換をもたらす。摂関政治の本質は、中国漢王朝にも見られる外戚政治にあるという。廷臣の最上層を構成する藤原北家が、女子を入内させて天皇の舅となって実権を握るという仕組みだ。とはいえ、恒常的な律令官僚と公卿の議定政治の枠組みは健在で、形式とはいえ天皇が百官に君臨していたことに変わりはない。
11世紀になると、律令的太政官制の原理を根本から覆す宮廷革命によって、本格的な院政が成立する。歴史の教科書あたりでは、白河上皇の退位1086年から平家滅亡の1185年頃までが院政と呼ばれるが、本書は、南北朝末期の後円融上皇が死去する1393年まで三百余年を指している。院政を布く上皇は「治天の君」と呼ばれ、白河上皇が譲位して幼帝の堀河天皇を後見し、「太上天皇」という形が定着したという。院政が天皇を上皇が操る傀儡政権であるならば、さらに武力で実権を握った幕府政治は傀儡の傀儡という形を帯びてくる。権力の二重構造に、影の二重構造。
平家一門が都落ちした時、平氏に擁立された安徳天皇は拉致され、神器とともに西海に沈んだが、治天の君である後白河上皇は京に居座り、神器抜きでも後鳥羽天皇を立て、王統の延命を図ることができた。本書は、天皇家が、治承、寿永の乱、すなわち源平合戦を生き抜いた要因に、この皇統の二重構造を挙げている。
院政の最大の利点は、責任の所在を曖昧にできることにある。失策や危機に際して、トカゲの尻尾きりで権力の延命を図るとは、まさに現在の企業組織や官僚組織で見られる構造だ。黒幕政治の好きなお国柄は、このあたりからきているのかは知らん...

2. 親政の失敗が意味するもの
しかし、いつも責任回避が成功したわけではない。天皇家あげて鎌倉幕府に対決した承久の乱は、未曾有の危機であったという。北条泰時は、治天の後鳥羽院以下、三人の上皇を島流しに処し、廟堂から反鎌倉派を一掃。だが、止めを刺すことはできなかった。北条氏は源氏ほどの威厳はなく、天皇家に取って代わるほどの統治能力もない。摂政、関白、大社寺など討幕計画に関与しなかった荘園領主や権門は依然として健在で、これらの勢力を天皇の尊厳なしで統治することは難しい。泰時は父義時と謀って、皇位の経験のない持明院宮守貞親王を治天に立て、その子、後堀河を擁立して王統の再建を図る。形式的に天皇を置いて、遠隔操作する方が現実的というわけだ。
鎌倉幕府は、鎌倉殿と全国の御家人との主従関係で成り立つ東国国家。その統治能力は、いかに御家人たちを支配するかにかかっている。巨大な外敵が現れれば、国家はいっそう団結が求められる。蒙古襲来で、いざ鎌倉!を発令。その外交処理では、モンゴルの使節に対して、外交の顔は天皇とする建前は崩さない。
だが、鎌倉幕府の打倒にも天皇は利用される。1321年、後醍醐天皇は院政を廃止して親政を取り戻し、1333年、建武の新政を樹立。後醍醐の構想は封建王政を目指したとも、中国宋朝型の皇帝専制支配を模範にしたとも言われるが、武家の支持を得られず、おまけに中央集権的官僚制を構築しようとして、公家や寺社などの既得権益を奪ったために離反され、短時日に崩壊。後醍醐の失敗は後を引き、天皇家の存続が許されるならば、象徴的な存在でもいいよ!という印象を強烈に与える。
足利家は再び院政を復活させ、持明院統の光厳上皇を治天に立て、その弟、光明天皇を即位させる。つまり、幕府の都合で北朝側の天皇を擁立した。だが、尊氏の弟直義派と、嫡男義詮派で対立し、それぞれ南朝と北朝の天皇を取り込もうとする。
1352年、南軍による三上皇と廃太子の拉致事件が起こる。北朝側の義詮の政治を困惑させようという狙い。後継者を失い、万策尽きた幕府は、後伏見上皇の女御、老女広義門院(西園寺寧子)を治天に立てた。つまり、皇家ではなく、しかも女性だ。老女院は光厳の実母でもあり、光厳の末子、弥仁を新帝に擁立する案を出す。弥仁は仏門に入っていたので、拉致を免れていたのである。老女院は、二度の要請を蹴っているという。幕府にとって天皇は、形式上、征夷大将軍を任命する存在に過ぎないが、いかに切羽詰まっていたかを物語っている。
こうして院政史上初めて、女性の治天の君が登場したわけだが、称徳天皇以来、六百年ぶりの女性国王誕生であるという。ちなみに、従来の院政研究では、広義門院を治天の歴代に数えないという。太上天皇の尊号も持たないのだとか。その段取りでは、神器を持ち去られていたことが問題となる。神器なき地位は正当性に欠け、北朝の権威を低下させたという。天皇に依存しない武家政権の樹立が、将来的な課題として明確になったとも言えよう...

3. 天皇家最後の国王 vs. 将軍家最初の国王
源氏の鎌倉幕府は御家人の支配を重視し、王朝に対しては不干渉路線をとったという。対して、北条氏の鎌倉幕府は皇位継承に介入しているようだ。さらに室町幕府は、しばしば王朝の裁判にも介入しているとか。上皇の裁判機関「院の評定制」は、14世紀後半にはほぼ廃絶し、わずかに「勅問制」によって寺社僧官の人事などが細々と決定されたという。この時代には、治天の君は世俗の裁判権をほぼ喪失しているようだ。朝廷の諸機関がほどんと形骸化する中、検非違使庁だけが南北朝末まで京都の警察権を保持していたぐらいだとか。
朝廷の権限を接収する人物として、将軍足利義満と管領斯波義将が重要な役を演じる。後円融天皇が践祚したのは14歳の幼年で、義満も同年。この頃、幕府は管領細川頼之が動かしていた。頼之は、公家や寺社の荘園を保護する半済令を発布するなど、対公家協調路線をとり、公武関係は比較的安定していたという。
だが、寺社勢力に妥協するあまり、禅宗などの新興教団に犠牲を強い、五山に気脈を通じた斯波義将ら強行派と衝突。1379年、頼之は康暦の政変で失脚する。この事件で斯波義将が管領となり、後円融と義満も成人に達し、公武関係は融和路線から一気に緊迫した時代を迎える。
1382年、後小松天皇が践祚し、後円融が治天となって院政を布く。征夷大将軍足利義満は、左大臣に昇進。祖父尊氏、父義詮はともに大納言まで昇ったものの、義満はそれ以上の実質的な称号を求めたという。
ところで、義満と後円融には、意外にも血縁関係があるそうな。ともに母親が姉妹であり、紛れもなく従兄弟。幼い頃から同族意識があり、天皇家に対する劣等感やコンプレックスといったものがない。宮中万般の作法を習い、宮中の最有力者たちが義満に肩入れすれば、廷臣たちも追従する。義満が美しい妻女を所望しては側室に容れる、というのは有名な話である。公卿中山親雅の妻加賀局、義満の弟満詮の妻誠子、日野資康の妻池尻殿らはみな、義満に差し出された妾だそうな。差し出す側も栄達を得るためで、妻を取られたという惨めさは微塵もないのだとか。消極的ながら反抗する者もいたらしいが、地位を略奪されるとなれば、まさに恐怖政治!持明院基明のように出家遁世を余儀なくされ、没落した者は数知れず。義満のやり口は、公家の建前を大切にしながらも、巧妙に内々で処理する政略家だったという。幕府から奏聞があれば、よほどの事情がない限り治天の側で承諾するのが、慣例になっていたとか。
しかし、後小松天皇の践祚に際して、後円融は突っぱねた。結局、摂政二条良基と将軍義満の協議によって、上皇の勅許なきまま即位の段取りが決められるのだが...
そして、後円融はスキャンダル沙汰に晒される。「後愚昧記」の著者三条公忠の娘三条厳子は、後円融の上臈局で後小松の生母。彼女が出産のため三条家に里帰りし、無事出産を終えて内裏に出仕した時、後円融はなにを逆上したか?厳子を峰打ちし、大怪我を負わせたという。これが流言となり、上皇は御没落されたという噂が広まったとか。
今度は、上皇の妾按察局(あぜちのつぼね)が出家したという事件。按察局が義満に密通していると告げた人物がいるらしい。これに激怒した後円融が内裏を追い払ったというが、真偽は不明だそうな。そうすると、三条厳子も義満と密通していたために逆上したのか?などと疑いたくもなる。
女性たちの義満との密通は、後円融の被害妄想だったのか?義満に女を寝取られた惨めな上皇というイメージを世間に与える。側近が将軍が上皇の配流を考えているなどと進言すれば、自殺してやる!と喚き立てる。これが自殺未遂として噂が広まるという前代未聞の珍事まで起こったという。ますます権威を失墜させ、上皇は孤立していく。こうした逆上事件は、豊臣秀次を切腹に追い込んだ事件に重なって映る。情緒不安定な上皇を精神的に揺さぶり、とうとう後円融は義満と対決する気力を失い、沈黙したという。だがこの時点では、まだ天皇家の格式は据え置きしたまま。いくら上皇の権威が失墜したとはいえ、権力だけでは宗教的な権威までも奪うことはできないという課題をつきつける...

4. 叙任権と祭祀権の簒奪
後円融の死後、最大の公家人事は、南朝の後亀山院に対する太上天皇の尊号宣下であったという。幕府にとって南朝は「不登極帝」、すなわち皇位に就いていないダダの人。この宣下は、義満の内意によって行われたとか。
官位や官職は慣例により公家が独占してきた。武家がそこに割り込むには、賄賂のような姑息な手段を要する。既に義満政権は、官位、官職の人事権を掌握していたようである。義満は、寺社官の裁判権(安堵権)をも後円融から受け継ぎ、僧侶や神官の形式的な任命権の領域にも踏み込んでいるという。
地方寺社の僧官、神官の人事権の一部が早々武家に帰した理由は、既に鎌倉時代にあるらしい。1232年の御成敗式目には、関東御分国、すなわち鎌倉幕府直轄の知行国、関八州と九州の一部に限り、御家人武士らに「神社の祭祀」、「仏事の勤行」を義務付け、東国では地方祭祀権が早くに幕府に握られていたという。さらに、追加法で守護大名に仏神事興行を命じるようになり、「管国内寺社」に関する権限が付与されたとか。流鏑馬などは武士の行事に映るが、祭礼と結びつけて主催されたようである。
そして、足利家による顕密寺院の門跡独占は、義満の死後、子の義持の執政期に至って、ほぼ目的を達したという。足利家は黄金時代である義持の代で、五山と北嶺、東密などの有力寺社を配下に組み入れたが、摂家入室を鉄則とする南郡の興福寺だけは、室町時代を通じてついに武家の入室を拒み続けたという。
また、祭祀の実行ですら武家に介入されたにもかかわらず、依然として律令祭祀の大宗は維持されている。天皇家もまた、祈禱の儀式によって鎮護国家の一部をなしている。律令祭祀を上回る武家の祭祀、あるいは国王の祭祀というべき新たな宗教的権威を、いかに構築するか?
当時の国家的祈禱には、朝敵や謀反人の追討、天下静謐、地震や彗星などの天変地妖を祓う修法があるという。修法は宗派によって異なるが、代表的なものには台密や東密で重視される「五壇法」がある。台密とは天台宗に伝わる密教で、東密とは真言宗に伝わる密教のこと。秘密に教えられる高貴な段階というものがあるのか、悟った者にしか教えられない境地というものがあるのかは知らん。
この崇められる祈禱の領域に踏み入ることこそ、義満の目指すところであろうか。そして、征夷大将軍という俗界の官位を捨てて出家しなければ、最高権威である祈禱権を得ることはできないということか。義満は太政大臣に昇ると、将軍位を子の義持に譲るが、実権は手放さず院政を敷き、西園寺氏の山荘を接収し、壮麗な北山第を造営したという。金閣寺の名で親しまれている鹿苑寺である。今日、金閣寺を義満の山荘跡と呼ぶのはまったくの誤りで、山荘どころか国家の中心的な政庁、宮殿であったという。そして、叙任権と同様、祈禱という名の祭祀権を治天から継承したことは、公武を超越した国王の祈祷という位置づけであったと指摘している。
義満の真骨頂は、あからさまに命令せず、伝奏や側近に自発的に提案させるように仕向けることだという。権力をふりかざして脅すのでは、それこそ暴君であり、むしろ権威は半減する。その典型例として、相国寺大塔供養におけるものを紹介してくれる。義満一代のうちで、最大規模の儀式であったという。
応永元年(1394年)、火災で相国寺が全焼し、応永6年に七重大塔の供養が行われた。供養式は、亡父義詮の三十三回忌と、義満自身42歳の重厄祈禱を兼ねていたという。相国寺は京都五山の寺格。異例だったのは、五山禅宗の建立にもかかわらず、供養の呪願師は仁和寺永助法親王、導師は青蓮院尊道入道親王と、顕密の最高僧侶を招いたことだという。つまり、宗派を超えた国家レベルの大セレモニーというわけだ。人々を驚かせたのは、義満の行列が出立にあたり、永助、尊道の両法親王が扈従を申し出たことで、さすがに義満も辞退したらしいが、この辞退の効力が抜群だったとか...

5. 勘合貿易(日明貿易)と権威工作
いくら明帝から国王の封号を受けたところで、明帝がどんなものか、一般社会にはあまり認知されていない。義満は、建文帝の返詔を安置した机の前で焼香を行ない、三礼した後、跪いて返詔を拝見するというパフォーマンスを見せたという。そして、自ら明帝に「臣」を表明する。天皇にも見せない儀礼を見せれば、民衆にも重みが伝わるであろうか。外交的には、明帝に足利家の家督を日本国王と認めさせたことで、自動的に朝鮮でも認められ、日朝間の外交ルートが成立したという。勘合貿易の成立が、義満に貨幣発行権をもたらしたという見方もできそうか。
平安末期以来、宋、元、明の中国銭を貨幣としてきたのは、中国貨幣が国際通貨として東アジアで卓越していたことを物語る。だが、民衆はそんなことに無頓着だ。ましてや、この時代に海外と直接交流のある商人も限られているだろう。はたして義満の権威工作が、民衆にどこまで浸透していたのか?もっとも権力者に民衆感覚なんぞ関係なかろうが...

6. 百王説
義満は、「百王の墜緒」について尋ねてまわったという説があるそうな。その意味は、古事記にある。文字通り解釈すれば、王が百代で滅亡するということだが、百年安泰や千年王国という言い方をするので、むしろ長く続くという意味が込められている。
しかし、義満の問うたのは、古事記ではなく、野馬台詩にある「百王流畢竭」の方だという。「百王の流畢(おわ)り竭(つ)き...」とは、ある種の終末論か。
天皇歴代の数え方は種々あり、鎌倉初期の僧侶、慈円の「愚管抄」にはこう記されるという。
「神の御代は知らず、人代となりて神武天皇の御後、百王と聞ゆる。既に残り少なく、八十四代にも成りにける中に...」
八十四代を順徳天皇にあてると、後円融天皇が百代になるのか?だが南朝が絡むとややこしく、後小松天皇が百代になるのか?いずれにせよ、義満が卑俗的な説を求めたのは、百王の後を受け継いだ充足感か?英雄伝を確実なものにしたかったのか?あるいは、王権簒奪の正当性に自信が持てなかったとしたら、義満といえども後ろめたさのようなものがあったのか?野馬台詩は梁の宝誌の作とされ、これまた中国思想に救いを求めている点では、義満の思想観念は一貫しているようだ...

7. 三代目の宿命と象徴天皇の宿命
お家は三代目の力量でその後の運命が決まると、よく言われる。企業組織などでも。二代目は、創業者の権威がまだ残っているので、素直に従属するタイプが相応しいとされる。だが、三代目ともなると安定期に入り、体制が真に確立されるかが問われ、トップが遊びホケて潰すといった例は多い。本書は、義満を典型的な三代目と評している。だが、遊びホケる方ではなく、祖父尊氏に似ても似つかぬ野望の持ち主であると。
ただ義満の死後、数奇な運命に弄ばれた子弟が多いのは、陰謀の反動か?三代目の直系が呪われているのか?次男義嗣は、還俗して親王に擬せられたが、権大納言となった後、上杉禅秀の乱に連座して死刑。三男義教は、長男義持の死後、クジで将軍となり、嘉吉の乱で暗殺。義昭(義満の子息の方)は、還俗して後南朝に擁されたが、義教に叛し、日向で死刑...
ここで興味深いのは、鳴かぬホトトギスの句で喩えられる三人の中で、最も温厚な性格とされる家康が、極めて義満路線に近いと指摘している点である。比叡山を焼き討ちにした信長ですら、本願寺との和睦で天皇に仲介を求めた。ただ、権威を利用するだけ利用するという方針だったのかもしれんが。
信長、秀吉、家康は、ともに一向一揆に悩まされてきたが、ここにも天皇家が関与しているらしい。家康と石田三成が争った関ヶ原の戦いでも、和平調停を試みているとか。さらに、秀頼を大坂城で包囲した冬の陣でも、家康の老体を案じた文面を示しながらも、強硬な和平勧告を与えたという。
こうした騒乱は、公家から見れば武家の内輪揉めに過ぎない。それでもなお平和を望んだとすれば、まさに王者の権威ということになりそうだが、はたしてどうだったのか?
江戸幕府は、天皇の調停役を抑えこむために腐心する。禁中並公家諸法度の交付、紫衣事件など次々に管理強化を打ち出し、天皇が一切の政治的行為ができないよう目論む。フランス王が教皇をアヴィニョンに幽閉したように、徳川家もまた天皇を土御門内裏に幽閉したというわけか。いわゆる「陽尊陰抑主義」を打ち出し、表向きは天皇家を尊びながら、実際には厳しい規制を加え抑圧したということらしい。
さらに、その意志を最も強く受け継いだのが、これまた三代目の家光だったという。
「外来思想を排除排撃する場合、当時の日本が、神国思想を対置するしか方法がないとすれば、秀吉のキリシタン禁制を復活させた徳川家光の場合も同様であろう。」
しかしながら、徳川家をもってしても、天皇家を潰すには至らなかった。天皇は、幕府だけでなく公家や寺社など荘園領主を含めて、すべての上に君臨する象徴的な権威で、この建前は長い時間をかえて尊厳にまで昇華させてきたようである。その存在感は国王というより、むしろ権門相互間における統合的な調整役という色彩が強いようである。となれば、武力だけで天子様を滅ぼすには、後ろめたさのようなものがあるのかもしれん。やはり気分の問題であろうか...

0 コメント:

コメントを投稿