2015-08-02

"無縁・公界・楽" 網野善彦 著

無縁(むえん)、公界(くがい)、楽(らく)とは、およそ結びつきそうにない概念であるが、本書は、こいつらを思想観念において見事に抽象化して見せる。いずれも仏教用語であることは想像に難くないが、もっと人間根源的なものがありそうである。
「無縁の原理は、未開、文明を問わず、世界の諸民族のすべてに共通して存在し、作用しつづけてきた、と私は考える。その意味で、これは人間の本質に深く関連しており、この原理そのものの現象形態、作用の仕方の変遷を辿ることによって、これまでいわれてきた世界史の基本法則とは、異なる次元で、人類史、世界史の基本法則をとらえることが可能となる。」

歴史学者網野善彦氏は、教鞭をとっていた頃、学生諸君の二つの質問に悩まされてきたことを懐かしそうに語ってくれる。一つは、いつ滅んでもおかしくないほど衰弱した天皇家が存続できたのはなぜか?二つは、平安末期から鎌倉という時代にのみ、優れた宗教家を輩出したのはなぜか?この二つの問いを考え続けた結果の一部を、一つの試論としてまとめたのが本書だという。だからといって、明快な答えが得られると期待してはいけない。どちらも素朴な疑問でありながら、誰一人として完全な解答を提示できない難題であろうから...
歴史研究では、政治の力関係や権力の側から分析するのが、ありふれた考え方としてあるようだ。どんな学問でも、華々しく目立つ側を追いかけたがるものである。本書は、あえて歴史の裏舞台、すなわち風俗や奴婢下人の側から考察を試みている。百姓という用語を一つとっても、一般的に農民と同一視されるが、実に多様な生活様式が存在したことを物語ってくれる。こうしたマイナーな視点を与えてくれる書は貴重であろうし、王道よりも邪道を行くアル中ハイマーにとって刺激的だ。
「実際、こうした非農業民の中で、最も数多く、農業民に十分比肩しうるだけの役割を日本の歴史の中で果したことの間違いない海民(漁民、塩業民、水上運輸に携わった人々、等々)について、現在、専門的に研究している狭義の歴史家が何人いるのか。五指にも満たない、と私は考えているが、農業民専門の歴史家の数と、この数ほどのひらきが、現実の農業民と海民との間に果たしてあるのだろうか。だれしも否ということは間違いない。にも拘らず、これが現実なのである。有主、有縁の世界と、無主、無縁の世界についても全く同様の関係がある。」
注目したいのは、江戸時代に流行った縁切寺、平安末期から戦国期にかけて出現した市(いち)、あるいは遍歴する職人や芸能民たちの慣習を、無縁という共通精神において説明してくれることである。さらに、古代西洋の聖域アジールと結びつけている点も見逃せない。こうした社会現象の共通した動機には、権力や所有の支配、あるいは主従関係から逃れようとしてきた人々の叫びがある。その根源を自由思想と未開人に求めるあたりは、古来、哲学者が口にしてきた人間の自然状態とも言うべきものを彷彿させる...

ところで、現世に絶望してもなお生きる道があるとすれば、それはどこにあろうか。真のアウトローの進むべき道、俗権力の及ばない冥府魔道、人生の目指すべき普遍の真理... こうした修行の旅路が「無縁」の原理として働き、人間としての尊厳を保ちうる。だが、縁切寺に駆け込んだところで、同じ境遇にある者たちの社会が待っており、集団生活のあるところに逃れられない掟が居座ってやがる。結局、公共の場、すなわち「公界」から逃れることはできないではないか。アリストテレスは言った... 人間は本性上ポリス的な人間である、と...
ならば、真の自由はどこにあるというのか。誰も手出しできないアンタッチャブルな聖域はいったいどこに。もはや、孤独と集団性の双方を凌駕するしかない。孔子は言った... 吾れ十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず、と...
聖人として完成することができれば、そこに聖なる喜び、すなわち「楽」があるとでも言うのか。そんな超人的な姿を、自分自身に描くことは到底無理な話よ。人生の旅路がニーチェの永劫回帰ごときものであるとすれば、微分学の原理に支配されていると言わざるを得ない。つまり、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する、と...
宗教と哲学は似ても似つかぬものだが、思考の発祥(発症)を辿ると同じに見えてくる。まず、どちらもどこか狂ってやがる。一方は救済を求め、一方は真理を求め、どちらも心地良いときた。違いは、見返りを求めるか求めないかであろうか。いや、人間ってやつは、ちっぽけな努力ですら報われようとするではないか。真理を探求する旅にしても、知性を求め、自己の居場所を求めているに過ぎない。無条件に信じられるかどうかなんて違いも、好みの問題でしかないのでは...
それでも一つ言えることは、根拠のない思想を押し付けられる行為が、いかに苦痛であるか!精神活動が受動的か能動的かの違いは大きい。精神の持ち主は誰しも、どこかに心の隙間を抱えており、幸福の押し売りはそこに入り込むので、自分が不幸だと思っている人ほど洗脳されやすい。いや、不幸を他のせいにしている人ほど。
いずれにせよ人間は信仰の対象を必要とするであろう。これからもずっと。心の拠り所となる何かを。世間では、信頼や信用などと呼ばれるやつか。そして、見返りを求めることから自己を解放しなければ、俗欲に幽閉され続けるであろう...

1. エンガチョと無縁の原理
エンガチョとは、方言かと思ったら、日本全国で見られる民俗風習だそうな。「エン」とは縁のことで、それは縁切りの呪い。両手の親指と人差指で鎖の輪をつくり、誰かに、縁切った!と言って鎖をきってもらうと、エンガチョから解放される。このガキの遊びに、穢れの感染を防ぐための特別な仕草が仕組まれている。生活に余裕が出てくると、除け者や嫌われ者といった意地悪な気持ちが混入し、子供心に深刻な影響を与えることもある。
一方で、仲間はずれの存在が魔力を持つと、これを反発心に変えて逞しく生きることを学び、自立という聖なる力を与える。鬼ごっごにも、社会組織を相手取った反発心を育む機構が組み込まれている。鬼をなすりつけるとは、まさに責任転嫁の原理!子供たちは、既に自由精神がなんであるかを本能的に察知し、それを社会に組み込む術を会得しているようだ。大人の方が子供から学ぶことが多いのも道理である。大人とは、脂ぎった知識を詰め込み過ぎて人間の本性を見失った姿とでもしておこうか。
自由精神は、無縁の原理と相性がよく、独立心を育み、自立、自律、自給自足を目指し、自力救済の精神を働かせる。それが個人レベルか、集団レベルかは別にして。
「自由と平和は、あくまでも原始以来のそれであり、その実体は時代とともに衰弱し、真の意味で自覚された自由と平和と平等の思想を自らの胎内から生み落とすとともに滅びていく。だからこそ、世俗の世界から、この自由と平和の世界に入ることはできても、その逆の道を戻ることは次第に困難、かつときには絶望的と思えるほどになっていくのである。」

2. 縁切寺と自由精神
江戸時代、女性には離婚権がなく、三行半の離縁状を書くのは夫の権利であった。とはいえ、事実上の離婚という形はあったようである。例えば、夫が妻の同意を得ずに質入れするとかで、妻が呆れて親元に帰って、そのまま数年放置すると、妻の離婚の意志は認められたようである。実家に帰らせてもらいます!とは、その名残であろうか。縁切寺への駆け込みもその一つで、積極的で最も有効な手段だったという。役人や主人などの第三者から、三行半を書くように説得されたりと。現在でも、ドメスティックバイオレンスの類いで、駆込寺のような場所を必要とする。三行半とは、女性がつきつけるものというイメージがあるが、やはり愛想をつかすのは女性の方であろうか...
さて、鎌倉松ヶ岡の東慶寺と、上野徳川の満徳寺が、縁切寺であったことは広く知られているそうな。離婚を望む女性が、草履や櫛など身につけたものを門内に投げ入れると、追手は手出しできなくなるという寺法に支えられていたという。東慶寺は尼寺で、比丘尼として三年間奉公すると、縁切りの効果が得られるというもの。将軍吉宗が公事方御定書を制定する以前、東慶寺や満徳寺だけでなく、かなりの尼寺が、こうした機能をもっていたと推定している学者もいるらしい。政治権力や法律では制圧できない人間の精神領域、すなわち救済の道というものが自然に出現するとは、人間社会には計り知れない柔軟な機能が具わっている、と言わねばなるまい。アングラ社会もまたその受け皿としての機能がある。抑圧には必ず反抗心が生じる。どこかに救世主が現れ、アジールのような避難場所を提供する。
実際、どんなに迫害を受けても、キリスト教もユダヤ教も生き長らえた。どんなに強力な権力者であっても、人間社会から自由精神を根絶することは不可能であったばかりか、むしろ専制権力の方が自由精神によって打倒されてきた。権力の及ばない社会が事実上存在することに、幕府も不愉快であったに違いない。しかし、完全に消し去ることができないとすれば、公認して監視下に置く方が支配しやすい。慈悲深い将軍様という評判を得ることもできよう。公認とは特権であり、そこに大名たちが癒着することも大いに考えられる。
実際、幕府の制度も緩和され、東慶寺の機能を認める方向へ転換していったようである。東慶寺も満徳寺も、徳川氏の手厚い保護を受け、どちらも由緒ある寺として知られる。慣習力の強さが、政治制度に事実上の柔軟性を持たせることはあるだろう。社会の補助機関として機能した事例には、寺子屋という教育施設もある。いずれも政治権力とは無関係に自発的に生じた成果だ。親は無くとも子は育つと言うが、政治は無くとも社会は育つということか...

3. 宗教法人と無縁所
禅昌寺は、防長五山の一つに数えられ、法幢山禅昌護国禅寺と言われる寺格の高い寺だそうな。加賀大乗寺の明峰和尚の法系を継ぐ慶屋定紹(けいおくじょうしょう)が開山し、慶屋を崇敬する守護大内義弘は荘園を寄進しようとしたが、慶屋はこれを辞退したという。田畑を持たず、ただ国中を遍歴し、托鉢、乞食を行いたいとの願いを、大内義弘は快く認めたという。以来、この寺は開山の教えを守り、田畑を持たず、寺僧たちが夏と秋の年二回、托鉢によって経済を支えるようになったとか。その後、意志を継いだ毛利元就が、その特権を保証する。ここにも、田畑の寄進を俗権力から受けない無縁の原理が働いている。
一方、若狭の正昭院が、鋳造師、猿楽、山伏などの職人や芸能民から零細な田畑の寄進を受けていることと相通じるとしている。托鉢僧もある種の芸能民で、職人や芸能とは切り離せない関係にあるという。中世、遍歴する職人の中に、関渡津泊(かんとしんぱく)の自由通行を認められ、津料などの交通免除の特権を与えられた人々が多く見出されるとか。要するに関所を自由に通れる特権の保証である。禅昌寺の托鉢僧だけでなく、その荷物までも通行の自由が保証されるとなれば、禅昌寺は俗世間から隔離された無縁所となる。
銭も米も、無縁所に駆け込めば税が免除されるとは、これいかに?寄進された田畑もまた無縁の土地となり、もちろんこの土地の売却益も無縁となり、買った者もうまいことやれば無縁所として引き継ぐことができ、誰からも干渉を受けない土地があちこちに出現する。子孫が土地を受け継ぎ、世襲的に権力の及ばない聖域、まさにアンタッチャブル!身も心も金も土地も洗浄されるってか?
現在でも宗教法人は課税対象にならない収入で賄われ、政治団体への寄付も同一視される。マネーロンダリングも、市場を通じて政治権力の及ばない無縁所を経由するとすれば、同じ原理か。なるほど、権力者は無縁所を禁止するよりも、利用する方がはるかに得というわけか。他の寺がたとえ無縁所であったという証拠がなくても、寺法が明示されていなくても、暗黙的にそうなる可能性はある。むしろ、無縁所や寺法を明確に規定せず、証拠を残さないようにするだろう。
また、弱者の弱みにつけこんで集金力を発揮するだけに、これが金融屋へ変貌する可能性がある。徳政令は、宗教屋がやる高利貸の擁護という見方もできるかもしれない。おまけに、所有が完全に保証され、徳政令も及ばないときた。宗教心に目覚めた偉大な坊主が数えるほどしか出現しない一方で、宗教心に憑かれて俗欲を増幅させる坊主は数知れず。坊主丸儲けの仕組みは、無縁という無限の縁深いところから発しているのかもしれん...

4. 歓進聖の意義と天皇家の存続
阿弥陀寺の清玉は、東大寺大仏殿を再興すべく歓進上人となった。三好三人衆が立て篭もると、松永久秀が東大寺を焼き討ち。その再興のために諸国の助縁を歓進する活動を始め、松永久秀も三好長逸も援助を約束した。この事業の援助には、毛利元就、武田信玄、徳川家康、そして、織田信長ですら名を連ねているという。歓進が聖なる活動であるがゆえに、大名間の遺恨関係をも無縁にできたということはあるかもしれない。とはいえ、歓進聖の特権を与えられたのは優れた坊主だけではあるまい。無縁の特権を持って遍歴する坊主には、裏社会との結びつきが臭う。
ところで、ここには天皇家と無縁の関係に通ずるものを感じる。本書には提示されないが... 平氏や源氏が武家の頭領とはいえ、血筋を辿れば公家に行き着く。武家が軍事行動をする度に天皇の勅命を欲するというのは、気分の問題もあろう。南北朝時代、足利家は後醍醐天皇を吉野(南朝)に追いやって、京(北朝)に光明天皇を擁立した。民衆を支配するのに天皇の威厳が必要とは思えないが、長い時間をかけて育まれてきた伝統の権威を滅ぼしたとあっては、後ろめたさがあるのか。天皇家と将軍家の違いには、権力者にとって精神的に計り知れない重みがあるようだ。伝統の力が正当性を与えるとすれば、慣習力、恐るべし!
ちなみに、比叡山を平然と焼き討ちにした信長が、もう少し長生きしていたらどうなっていたか?などと疑問を持った時、本能寺の変の黒幕は誰か?という陰謀説が未だに燻る。
それはさておき、現在ですら、皇室の人々を「様」付けで呼ぶ風潮がある。せめて、「さん」づけぐらいにして、気楽にさせてやってはどうかと思うが、当人たちはどう思っているのだろうか?もう少し自由に発言する場を与える方が、民主主義時代の天皇として意義があるように思える。永田町が政治利用しようと待ち構えている猛者たちの溜まり場であることは否めない。ならば、住まいを京へ戻すとか...

5. 自由都市と排他原理
中世には、惣(そう)と呼ばれる自治体や共同体が、点在したようである。本書は、この組織の基本構成を「老若 = 公界」という法則で語っている。昔々、長老が集団の掟や知恵袋として機能した。学ぶ機会が平等でない時代、長く生き、多くを経験した者の意見が重宝される。ここには、老者と若衆で組織される意思統一された組織があったことを物語っている。年功序列ではあるにしても。
意外にも、中世の自治組織には、世襲や血縁の贔屓などとの結びつきの弱い事例が、いくつもあるようだ。多数決の制度は無縁の原理に支えられていたという。民主主義の原理は、血縁や地元出身などで支持するような組織では機能しない。ましてや利益供与など。その意味で、真の自治体であったということらしい。
例えば、南伊勢の大湊は、南北朝時代には東国への海上交通の発着地として知られた要津で、戦国時代には会合衆によって運営された自治都市であったという。しかも、公界であったという見方をしている。役人が、すべての地域に目を行き届かせるのは不可能であろうから、特に僻地ではある程度の自治は認められよう。それでも、大湊が本格的な自治都市があったことは興味深い。
自由都市が経済の拠点になりやすいのも確かで、商人の町といえば堺である。宣教師ガスパル・ヴィレラは、本国に「耶蘇会士日本通信」という書簡を送っているという。キリスト教徒にとって堺の町より安全な場所はないと、特別な思いを報告しているとか。ルイス・フロイスは、東洋のベニスと呼んだ。この町が自由と平等を保ち得たのは、会合衆の富力、三好家、松永家など大名間の分裂抗争を利用した政略による。世渡り上手といえば、そうかもしれないが、本書は、その根底に公界、無縁の原理があると指摘している。もっというなら、自由精神の底力である。当初、信長にも屈しなかった町が、結局、秀吉、家康に屈して、彼らの庇護の下で、自由と平和を保つことになる。
だが、自由精神までも放棄したわけではあるまい。権力側もある程度の自治を容認し、互いに妥協を受け入れたと見るべきであろう。博多もまた秀吉の庇護の下で自由都市として生き長らえた。信長のように楽市楽座の特権を与えて、経済力を後ろ盾にした勢力拡大は、まさに自由の力を利用した政略である。
しかしながら、一旦、全国統一の目処が立つと、支配権力は反対方向に舵を切る。そして、堺の精神を代表する千利休は、秀吉によって死を与えられた。専制権力は、自由と平等を利用して民衆を飼いならし、不動の権力となった途端に支配欲の本性を剥き出しにする。現在とて、経済政策をうまくやって支持率を不動のものとすれば、すぐに本性をむき出しにする。鎖国政策を用いた徳川幕府ですら、長崎に特別な自治権を与えた。キリシタン迫害に幻滅し、長崎へ向かった人も少なくない。
ところで、自由精神から育まれた共同体といえども、やはり排他原理が働く。縄張り意識ってやつだ。組織の運営哲学が共有できなければ、自由や平等の精神が却って秩序を乱す。現在でも、うまく機能しているプロジェクトチームは、価値観や哲学を共有しながら、仲間内に合言葉が生まれるといった現象を見かける。優れた集団に属しているという自負心が、ある種の排他原理を働かせるのである。それは、イジメなどという劣悪な意思とは真逆な発想で、単に仲間が欲しいという思惑で無理やり集まった結果でもない。
キリスト教的な秘密主義にしても、俗界と距離を置く場所を提供しながら、そこに真の自由の場を求めたはず。ジェームズ・ヒルトンが記したシャングリ・ラのように、森鴎外が記した寒山拾得のように、俗人の目には晒してはならない神聖な領域が、自由都市には必要なのかもしれん...

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