2016-06-12

"音さがしの本 リトル・サウンド・エデュケーション" R. Murray Schafer 著

土砂降りで雨音のやかましい梅雨の日、古本屋を散歩していると、音のオアシスのような書を見つけた。論理的な記述から解放してくれるような... 惚れっぽい酔いどれは今、ドビュッシーの「野を渡る風」と「西風の見たもの」を聴きながら記事を書いている...

騒がしい社会に慣らされれば、沈黙して周りの音に耳を傾けることを忘れる。つい周りに負けじと声高に捲し立て、自分の心に耳を澄ますことまで怠ってしまう。日常、耳にする音から、どれだけ音の風景を感じながら生きているだろうか...
Soundscape の提唱者マリー・シェーファーは、普段の生活の中から音の素材を探すエクササイズを紹介してくれる。少しの間、静かに座って耳を澄ましてみよう... 聞こえた音を紙に書き出してみよう... 書きだした音を大きな音から小さな音まで並び替えてみよう... 一番綺麗だった音は?一番嫌いな音は?こうしたことを家や公園や学校で試してみよう... 街角で目を閉じたまま試してみよう... 外へ出てリスニング・ウォークをやってみよう... 音の日記をつけてみよう... といった具合に。尚、Soundscape とは、音の風景といった意味で、Landsacpe(景観)に対比する造語である。
本書の対象は、十才から十二才の子供に相応しく、中高校生にとっても刺激的だとしている。しかし、だ。むしろ耳の腐った大人のための書ではあるまいか。そこに皮肉を感じるのは、おいらの魂が腐っている証であろうか...
「おしゃべりをしながら、何かを聞くのはむずかしいことだ。一日のわずかな時間でいいから、みんながおしゃべりをやめて、世界に耳を傾けるようになったら良いのに、と思うことがある。世界はきっともっと住みやすい場所になるだろう。」

音とは何かを探求すれば、必然的に沈黙とは何かを問うことになる。しかしながら、自然界に完全な沈黙は見当たらない。風のざわめき、木々の擦れる音、小川のせせらぎ、滝の音、鳥のさえずり、虫の鳴き声... 人間が一人いるだけで、息遣い、足音、関節の音、心臓の音... おまけに生活空間には、コンピュータ、エアコン、冷蔵庫などの機械音が散乱し、静まった部屋ですら時計の音がカチカチと...
それでいて、自動車のエンジン音やバイクの単気筒音に心が踊らされる一方で、軍事基地周辺でヘリコプターやジェット機の音を聞かされれば気が狂いそうになる。
様々な音環境において、真に聴覚が欲するものとは何であろう?ハイパーソニック・エフェクトを唱えた大橋力氏は、著作「音と文明 音の環境学ことはじめ」の中で、必須音という概念を持ち出していた。物質の世界にビタミンのような必須栄養素があるように、音の世界にも生きるために欠かせない音素があると。しかも、可聴域を超える音域にも、善かれ悪しかれ生理的に影響を与えるものがある。ひと昔前は、鉛筆が紙の上を走る音が心地よかったものだが、今では、キーボードを叩く音が静かな空間を支配し、これまた心地良い。無響音室に入ると居心地の悪さを感じるのは、やはり何か音素を求めているのだろうか?情熱的な夜でピロートークに心の拠り所を求めるのも、やはり何かの囁きを欲しているからに違いない...

1. 心に奏でる懐かしい音
長らく人間の耳の可聴域は、20Hz から 20kHz とされてきた。CD が登場した時代、アナログレコードの方が耳に優しい!などと感想をもらすと馬鹿にされたものだ。そして今、巷で騒がれるハイレゾ音源には、可聴域の上限をはるかに超える周波数成分が含まれる。わざわざ自然の環境音を求めて CD を買い求めたところで、サンプリング周波数 44.1kHz、すなわち、再生周波数の上限 22kHz の壁に阻まれる。
確かに、オーケストラやバンドの演奏を聴くとワクワクする。だが、大き過ぎる音に気をつけなければ、鼓膜を傷つける。自然界の音は、人間の聴覚をあまり傷つけたりはしない。いくら土砂降りの音がうるさくても、嵐や雷の音が轟こうとも、耳を傷つけたりはしない。真夏に発情期のごとくアブラゼミのやつらが鳴き狂えば、精神までも狂わされるけど。情報が洪水のように溢れる社会では、人を盲目にさせるだけでなく、耳までも難聴にさせるものらしい...
「サウンドスケープは、いつだって変化している。古い音は、いつも消えていく。いったいそういう音は、どこにいってしまうのだろう?前に聞いたことがあるのに、もうぜったいに聞くことができない音を、いくつくらい知っているかな?」

2. 音楽と論理性
音楽を記号によって表現すれば、より複雑になっていく。それは、知性や理性では収拾のつかない言葉以前の混沌を記述しようとするからであろう。とはいえ、音楽そのものがメソッド化し、洗練されていくこと自体は悪いことではない。問題なのは、そこに音楽そのものへ向かう求心力があるかどうか...
「数字を含む言語は、巷の事象を合理的に写し取るための最も効率のよい道具である。論理に裏づけされたそのようなマナーを、西洋人たちはロゴスと呼んだ。知性や理性は、ことばを基盤としたロゴスによって成り立っている。では、音楽はこのロゴスによって隅々まで解明されるのだろうか。十九世紀、西洋音楽の修辞学の伝統も、ことばと完全に一致するわけではない。音響を数値化してみても、われわれは数に心を動かされるわけではないようだ。」

3. BGM を心の拠り所に
音楽は、いろんな気持ちにさせてくれる。BGM をちょいと付け加えることによって、その場所がもっと楽しくなる。勉強や仕事をする場所は、静かな方が適していると言われる。共有の場所では、音楽の好みも違えば、個々の精神状態も違うので、その通りだろう。しかし、一人の環境ではどうだろうか?
十年以上前、ベンチャー企業と称するアドベンチャーな会社で働いていた頃、会話もなく静まり返った職場が心地よかった。電話の音は迷惑千万!メールやメッセンジャーは環境に良いツールだとつくづく感じたものである。ただ、キーボードを叩く音が気になってしょうがない。やがて従業員たちはヘッドホンを着用するようになった。あちこちの大企業から逃避してきた人の集まりでは、自然に自由な空気が漂い始める。それぞれに音楽を聴いて互いの領域を侵犯しないように心がける。もっとも独立しちゃえば、独りの空間を謳歌し、独り言も言いたい放題!しばしば仕事の気分を盛り上げるために音楽で誘導する。

4. 聴覚に発する想像力
聴覚に対する想像力は、視覚に対するそれとは広がりが違う。見たまんまという説得力では視覚の方が優るが、芸術心の根本には雰囲気ってやつがあり、感覚や感性が潜在意識を覚醒させる。感知能力の指向性においても、視覚は目で見通すことのできる範囲に限られ、聴覚は上下左右ほぼ全球面をカバーし、危険察知能力で聴覚に頼るところが大きい。

「ラジオドラマはやっぱりいいですねぇ。ぼくの持論なんですけど。ラジオドラマには、デレビドラマにはない良さがある。例えば、テレビで SF をやるとしますよね。アメリカ映画に負けない映像を作るためには SFX やら、コンピュータグラフィックスやら、やたらお金がかかるわけです。
ところがラジオなら、ナレーターがひとこと、ここは宇宙!と言うだけで、もう宇宙空間になっちゃうんですから。人間に想像する力がある限り、ラジオドラマには無限の可能性がある。ぼくはそう思うなぁ。ぼくは好きだなぁ、ラジオドラマ!」
... 映画「ラヂオの時間」より

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