「音楽は言葉で説明するものではない。表現がすべてであり、わかる人にはわかる、わからなければそれもやむをえない。だが、そう突き放されることでどれだけの音楽が私たちの手を離れていっただろう。言葉で説明することを邪道とする固定観念は、鑑賞者よりもむしろ音楽家自身を不自由にしてきたのではないだろうか。それが彼らのストイシズムである一方で、呪縛となっていたことは否めない。」
人間が「絶対」と呼ぶものは、本当に絶対なのか?崇めるほどのものなのか?絶対音感は、音楽家には、特に指揮者には必要な能力だとも聞く。その能力が、カリスマ性を後押しするのも確かであろう。絶対音感のない音楽家には劣等感のために口を閉ざす人もいて、能力の有無を質問することすらタブー化してしまう。確かに、心の拠り所となるものが絶対的な存在となれば、楽になれる。だがそれは、ある種の宗教にも似たり。なによりも芸術心は自由精神に支えられ、社会の画一化された常識や絶対的な観念から、一瞬でも解放してくれるところに芸術の意義がある。既成の価値観の破壊活動ということもできるわけで、あらゆる学問がそうした性格を持っているはずだ。
ピアノはこう弾きなさい!小説はこう書きなさい!絵画はこう描きなさい!と強制することが良いことなのか、はたまた英才教育が正しいのかは分からない。そういう時期も必要なのかもしれない。もちろん基礎を学ぶことは大切で、感情を表現する技巧を追求することが間違っているとは思はない。技術や知識があるからこそ、そのレベルに応じた自己表現が可能になるのだから。
ただ、手段が目的化することはよくある。哲学をともなわない芸術や技術は、それ自体が色褪せてしまう。特殊能力を獲得することに執着し、強迫観念にまで高められた時、もはや真の目的を見失うであろう。
一方で、鑑賞者の側もぼんやりとしているわけにはいかない。芸術家とともに高みに登っていかなければ。鑑賞者が最低な感想をもらす場合もある。作者はいったい何が言いたいのか?と... もはや目的が目先の利益へと偏重し、自然に裏打ちされた芸術作品が語りかけてくれる声も耳には届かない。せめて子供たちの才能や個性は、大人どもの脂ぎった欲望から遠ざけてあげたいものだ...
「全身の奥深く眠り、容易には取り出せない幼い頃の記憶。私たちはそれを往々にして天性と呼ぶ。そして、そう呼んだときから何かが半分くらい見えなくなる。それを手にした人も、手にすることができなかった人も...」
一方で、絶対音感は、音楽の本質ではないと言う人も少なくない。モーツァルトやベートーヴェンには絶対音感があったと言われるが、おいらの好きなチャイコフスキーにはなかったと言われる。音楽家にとっては絶大な道具となるのだから、あるに越したことはない。だが、あまりに研ぎ澄まされすぎた能力は、精神に弊害をもたらすこともしばしば。そもそも、絶対音感の定義が難しい。ニューグローブ音楽事典によると、こう記されるという。
「ランダムに提示された音の名前、つまり音名が言える能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力。」
耳から入ってくる音が即座にドレミで言い当てられるということは、感覚的に捉える音の世界を、言語脳を働かせて論理的に捉えることができるわけで、いわば、デジタル記法で表現できる能力と言えよう。つまり、言語解釈を左脳の機能と決めつけず、右脳と柔軟かつ絶妙に協調することで、音楽の意志を言葉で感じることができるということだ。
しかしながら、現実の音は、すっきりと音名に収まるものではない。すべての音を周波数で言い当てるという方法もあるが、真の自由を求めれば無理数に頼ることになる。魂がデジタルに幽閉された世界とは、いかなるものであろうか。ただでさえ騒がしい社会にあって、耳から入ってくる情報がすべて言語と結びつけば、やかましくてしょうがない。
デジタル信号の優位性は、情報伝達の正確な復元性にある。心に思い描いたメロディを、その場で書き写すとは、まさに作曲家に求められる能力。近代化社会では、便宜上デジタルを用いることが多く、シャノン的な二項対立の思考を要請してくる。
しかしながら、精神にとっては、どこか曖昧なアナログの方が居心地がよいと見える。聴覚が歪んでいれば、少々音程のずれた音楽でも心地良く聴こえ、精神が歪んでいれば、歪んだ社会を生きるのに都合がいい。
「絶対音感 = 万能というイメージが、さまざまな幻想と誤解を生み出していった。それは、創造性を左右する魔法の杖でもなければ、音楽家への道を約束する手形でもなかった。」
1. 音響心理学と共感覚
本書は、絶対音感が実に多様な精神現象であることを教えてくれる。
絶対音感が災いして街に溢れる音という音に無関心ではいられない人々がいる。会話の声、電話の音、照明や空調の音、車のクラクション、救急車のサイレン... こうした音がすべて調和するとは考えにくい。読書をしながら BGM が聴けないという人、音楽が周りの音と調和しないと気持ちが悪いという人、ホールの雑音までも音譜として浮かび上がり、気になって演奏に支障をきたすという音楽家など。
一方で、なんなく絶対音感を受け入れられる人々がいる。1Hz ずれた音をしっかりと認識しながらも、周りの調律と合わせて音名と関連づけることができる音楽家など。相対音感に絶対音感を調和させることが自然にでき、音感の抽象レベルが高いということか。絶対音感そのものが害になるのではなく、これを絶対化することの方が、はるかに害になるようである。
また、音楽を聴くと、色彩が見えてくる人々もいるという。ある楽器の音色から赤色が見えたり、ある旋律を聴くと金色が見えたりと。「色聴」という視覚と聴覚が連携する共感覚である。
そういえば、特定の能力を発揮するサヴァン症候群にも、数字から形や色が見えたり、匂いを感じたりする人がいると聞く。色と感情にも相関性がある。赤は情熱、青はクールなど、色彩が明るいか暗いかだけでも気分が変わる。ちなみに、風俗店の壁はピンク系で演出している場合が多い、とバーで聞いた。
共感覚の持ち主は、多感性に恵まれた感性豊かな人で、生まれつき芸術センスを持ち合わせているのかもしれん...
2. ミッシングファンダメンタルと音の死角
音響心理学に、「ミッシングファンダメンタル」という概念があるそうな。心理的印象をもたらす音の要素に、音の高さ、大きさ、音色がある。人間は声や楽器から聴こえる音を、基本周波数を下に感じ取る。純音であれば、単純に基本周波数が耳に入ってくる。だが、実際の音の周波数スペクトルには基本周波数以外の周波数成分が多く含まれている。
そこで、周波数の合成によって、物理的に存在しない周波数を複合音として聴かすこともできる。例えば、片耳に 1000Hz と 1400Hz、反対耳に 1200Hz と 1600Hz を呈示すると、200Hz が聴こえるらしい。脳の幻想によって生じる音というわけだ。ただ誰でも、ミッシングファンダメンタルが感じ取れるわけではない。
また、絶対音感の持ち主でも聴音できない音があるという証言を紹介してくれる。ジャズのテンションと呼ばれるコードトーンを聴いた時、その音名が分からないというピアノ教師。テンションは、音と音がぶつかるので汚く聴こえるという。クラッシックの場合は非和声音だが、ジャズでは緊張感を生むために和声音として使用されているものだったという。絶対音感が先天的なものなのか後天的なものかは分からないが、おそらく双方と関係があるのだろうが、絶対的な能力にも死角があるようである。
3. 「固定ド唱法」と「移動ド唱法」
日本人には絶対音感を持つ人が多く、また欲しがる人も多いという。それは早期教育の影響のようである。そのためかは知らんが、技術偏重で、演奏者に教養の欠片もないと酷評されることも多いようである。
教育の場では、ドレミのダブルバインドがさらに混乱を招いているという。義務教育では「移動ド唱法」が用いられるが、専門教育では「固定ド唱法」が用いられるそうな。
1939年、ロンドンの国際会議で定められた基準音によれば、A(ラ) = 440Hz、C(ド) = 約261Hz に固定された。ところが、義務教育ではドレミは音名ではなく階名であり、何調であっても、長調の主音は「ド」、短調の主音は「ラ」となる。そのために、絶対音感で訓練してきた子供たちは、移動ド唱法に馴染めないらしい。文部省の言い分によると、相対的なドレミの規定は、まったくの素人でも音楽に馴染めるにように考慮されているんだとか。
音の表現法は、イタリア語であったり、フランス語であったり、国によって様々。固定ド唱法を採用しているフランス、イタリア、ロシアなどは、階名は、J. J. ルソーが提唱した数字譜を用いるという。
音名も階名も同じ名前を用いるところに、日本固有の問題があるようである。太平洋戦争時代にはイロハ音名を用い、音感教育も盛んだったという。来襲した飛行機の型を識別したり、B29 の高度を計測したり、スクリュー音で敵船の型や進行方向を感知したりと。交流したヒトラーユーゲントに高度な音感を持つ子供が多かったらしく、その影響もあるようだ。イロハ音名は国粋主義の現れかは知らんが、音名と階名を区別するチャンスはあったようである。
4. 基準音 A = 440Hz の呪縛
1939年、国際規約において気温20℃で、A音は、440Hz と制定された。オーケストラに安定した基準音を提供できる人がいるとありがたい。本書は、「人間音叉」と呼んでいる。
ところが、世界各国でオーケストラの基準音が上昇する傾向にあるという。アメリカでは、カーネギーホールをはじめ主要なホールのスタインウェイピアノの基準音は、442Hz だとか。深刻なのは、ベルリン・フィルやウィーン・フィルの基準音の上昇で、絶対音感だけの問題ではなく、オーケストラ全体の音質にまで影響する事態だという。古楽ブームの影響もあるようで、バッハやモーツァルトの時代は、現在より半音から全音低く調律されていたとされるらしい。
特に、バイオリンなどの弦楽器の音色に影響を与え、オーケストラ全体の緊張感が高まり、音程や音色を均質化するとの批判もあるようである。フルトヴェングラーやカラヤンのもとで打楽器の首席奏者を務めた作曲家ヴェルナー・テーリヒェンは、ベルリン・フィルをバベルの塔に喩えて、こう語ったという。
「コミュニケーション手段としての言語の混乱は、多くの現代曲が理解できないことと対応している。音楽は魂の言語だ。だが、魂は高々と積み上げる嵩上げを必要としない。魂が求めているものは内面への道なのだ。」
5. 妥協の調律「十二平均律」
音階における人間の生得的な性質は、ピュタゴラスの時代から知られている。周波数比率が整数比となる 2:1 のオクターブ、3:2 の完全五度、4:3 の完全四度など、耳に心地よく完全に協和する音の関係が完全音程である。十二音階でいえば、オクターブは「ド」と「ド」の八度の関係、完全五度は「ド」と「ソ」、完全四度は「ド」と「ファ」となり、オクターブが最も協和する。音律は、この音程関係を周波数で相対的に規定したもので、平均律は、1オクターブを12等分した西洋音楽で最も一般的に用いられる音律である。
この音律が成立するまでの歴史は長い。ピュタゴラス音律は、オクターブ、四度、五度のみを用いて音階を構成しようというもの。
12世紀には音楽が複雑化して、三度(ドとミ)の関係が多用されたという。だが、三度音程は周波数比が、64:81 と複雑なため、響きが粗く、同時に2音を奏でると音がワンワン唸るとか。
そこで、響きを美しくするために、三度音程の周波数比を、4:5 にし、これが純正律だという。主要三和音、「ド・ミ・ソ」、「ソ・シ・レ」、「ファ・ラ・ド」の周波数比がすべて 4:5 となり、唸りや粗さがなく、グレゴリオ聖歌のように透明感があるのが特徴だとか。
しかし、純正律で演奏できるのは、ハ長調、ヘ長調、ト長調しかなく、一曲の中に様々な転調のある場合、唸りが生じてウルフトーンと呼ばれる汚い音が響いてしまうという。
そこで、この転調の問題を解決したのが、「十二平均律」というわけである。18世紀末からドイツで普及し、19世紀後半に世界中に広まったとされる。平均律は、純正律に比べると、三度や五度の音程は少し汚く濁って響くが、どの調にも均等なために転調が可能である。そのために、「妥協の調律」とも言われるそうな。
ピアノによって絶対音感を身につけた人たちの大半は、この十二平均律をラベリングした人ということか。テレビから流れる音楽から街角で流れるBGMの群れなど、耳から無理やり入ってくる音楽すべてが平均律で則っているとすれば、聴覚が離散化していることは否めない。そして、木々のざわめき、滝の音、川のせせらぎなど、自然の音を聴く能力は退化するのだろうか?それは、絶対音感の持ち主だけの問題ではなさそうである。
2016-06-19
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