2016-09-18

"マルコ・ポーロ東方見聞録" Marco Polo 著

東方見聞録は、二つの偶然が重なった時、その成立を見る...
一つは、父ニコロ・ポーロと叔父マフェオ・ポーロが商売のために南ロシアへ行き、さらに砂漠を越えてタタール人の王クビライ・カーンの宮殿へ赴いた経緯。二人は、大カーンからローマ教皇への使者の役目を託されるほどの信頼を得た。そして、カンバルク(北京)へ復命に戻る二度目の旅に、息子マルコ(17歳)を帯同する。ただ、三人ともヴェネツイア商人であって、宣教師でもなければ、誰に対しても記述の義務も負っていない。
二つは、1298年、ジェノヴァの牢獄に虜囚となったマルコは、同房のルスタピザン(ピサのルスティケッロ)という著作家に出会ったこと。本書の冒頭には、マルコの口述を書き留めることが宣言されるので、むしろ「ルスティケッロ著」とするところであろう。
つまり、ヴェネツイア商人の冒険心とピサ人著作家の好奇心という偶然の出会いがなければ、このような歴史叙述は残されなかったということである。そのために歴史の殉教者として崇められるのか、いや踊らされるのか。おそらく偶然が重ならなかったために、無言のまま闇に葬られた歴史の方がはるかに多いことだろう。真理は沈黙の側にあるのかもしれん...
尚、月村辰雄・久保田勝一訳版(岩波書店)を手に取る。

本物語には、三つの世界観が交錯する。一つは、タタール人が支配する地域、二つは、マホメットを崇拝するサラセン人の地域、そして、ネストリウス派キリスト教徒が混在する三つ巴の構図である。クビライの時代、モンゴル帝国は最盛期にあり、中国をも呑み込んでいた。さらに東南アジア方面でも貢ぎ物を捧げるなど、ほぼ属国的な関係にあったことが伺える。大カーンは、征服地に対して宗教的、文化的にある程度寛容であったようである。アレキサンダー大王も大帝国を統治するために現地の異国人を多く登用した。地域事情に最も精通する者を。そのために古参の将軍たちから疎まれることにもなるが、広大な領土を治めるには最も現実的な政策であろう。
キリスト教徒であるポーロの一行も、大カーンに厚遇された。そのためか?中国に関する記述がぞんざいな感がある。万里の長城などの歴史建造物や宗教慣習の記述が見当たらないのは、方々で指摘を受けるところ。それほどモンゴル帝国が偉大で、大カーンに敬服していたということであろうか。
マルコの注目点は二つの経済システムに向けられる。
一つは、交通網における飛脚システム。主要道路は並木道で整備され、旅行者は遠くからでも暗闇でも道に迷わないようになっており、飛脚は昼夜を問わず駆け抜ける。中継点が、3マイルごとに設置され、鈴を鳴らすことで飛脚が近づくことを知らせ、引き継ぐ馬や人が常に準備されている。まさに駅伝システム!
二つは、商取引における証書システム。紙幣と呼ぶほどの利便性はないものの、既に証券や約束手形のような合理的な取引の仕組みがある。証書はカンバルク(北京)の造幣所で造られ、支配義務は法で規定され、拒否する者は死刑に処せられるという。
他にも、町の来訪者に目的や滞在期間を登録させたり、家族構成や家畜の数を申告させる国勢調査風の制度にも言及され、大カーンは人口の変化までも把握していたと記述される。
こうした経済的観点は、古代ローマにも通ずるプラグマティズムを感じずにはいられない。おそらく宣教師や修道士には、こうした実用的な制度に感じ入ることはできなかったであろう。まさに経済人ならでは視点である。マルコの眼力は大カーンに認められ、行政官としても重用される。イデオロギー色の強い統治者では、多様な民族や宗教を束ねることは難しいということか...

ところで、異民族や異文化との出会い... それは人間の本能において、どのように働くものであろうか?交流か、敵対か、あるいは、好奇心か、恐怖心か。自信に満ちた社会は前者を選択し、不安に満ちた社会は後者を選択する、という傾向はあるかもしれない。
信仰心なくして人間は生きられない。宗教ってやつは、この心理に巧みに入り込む。本書には、心の隙間に巧みに入り込む「山の老人伝説」が語られる。それは、テロリズムの原点のようなもの。結局、宗教原理とは、見返りの原理であろうか。
ただ、テロリズムを複雑な宗教心の側から分析するよりも、ある種の機械論で解釈してみるのもいいかもしれない。多くの敵に包囲されると、自爆するようにプログラムされているオートマトン... 魂に宿る絶対的な存在、すなわち無条件に服従できる心の安穏... こうした心理状態が、そうさせるのか?脳の原始的な恐怖心を麻痺させるという意味では、フィアレスのようなものであろうか?そして、酔いどれ自身がそのようにプログラムされていないと、どうして言い切れようか...

1. 稀有の時代が生んだ書
12世紀は、古代ローマ帝国の衰亡以来、実に千年ぶりに東方への衝動に突き動かされた出来事がある。そう、十字軍だ。シリア沿岸部のアンティオキア、トリポリ、エルサレムには封建諸侯の領国が並び、イスラム諸邦と対峙していた。
ちょうどその頃、ビザンツ皇帝やローマ教皇のもとに、「プレスター・ジョン」と名乗る東方のキリスト教君主から怪しげな書簡が相次いで届けられたという。それはイスラム諸邦の挟撃を目的とした同盟を仄めかすもので、中央アジアでネストリウス派キリスト教を奉ずる小君主の存在を過大に伝える偽文書であったとか。この噂が、東方に君臨する強大なキリスト教国という伝説となり、西洋人の冒険心を煽ることに。
さらに1204年、第四回十字軍が騙し討ちの形でコンスタンティノープルを陥落させると、ボスポラス海峡の門戸が開かれ、商人たちは東方へ旅立つ機会を得る。
一方、東方では、13世紀初頭、チンギス・カーンが中央アジアに進出し、モンゴル帝国の礎を築いていた。ウイグル王国、西遼、サマルカンド、カスピ海南岸のコラズム帝国、黒海北岸を次々に呑み込み、第二代オゴタイ・カーンの時代には、ポーランドにまで侵攻。だが、ここが終末点で、以降は足固めのためキプチャク汗国とイル汗国の建設に向かう。歴代のカーンたちは、仏教とイスラム教とネストリウス派キリスト教の三つ巴の中で、絶妙なバランスを保っていたようである。そして、ポーロの一行が厚遇されたクビライの時代に最盛期を迎える。
カーンの子孫は、アルタイと呼ばれる山に埋葬される習わしとなっており、亡骸を運ぶ一行は、あの世でお前たちの君主に仕えるようにと、途中で出会った人々を殺したという。馬も同様に、あの世で乗馬できるようにと。モンケが死んだ時、道の途中で出会った二万人以上が殺されたとか。
しかしながら、こうした活発な東西交流の時代も、マルコの帰国後、急速に閉ざされることになる。シリア沿岸の西ヨーロッパ封建諸侯領は次々と滅ぼされ、最後の拠点アッカは1291年に陥落し、シリア一帯はマムルーク朝のスルタンに牛耳られる。ビザンツ帝国もオスマントルコの勢いに押され、黒海やカスピ海を経て中央アジアに向かうルートも困難となる。モンゴル帝国もまた14世紀半ばには勢いを失い、イデオロギー色の強いティムール朝や明にとって代わる。
... こうして眺めると、13世紀後半から50年間という絶好の時代に、東方見聞録が生まれたことになる。歴史ってやつは、偶然の積み重ねの結果というだけのことかもしれん...

2. 山の老人伝説
中東のムレットという地方に、山の老人が住んでいたそうな。ムレットはフランス語で「地上の神」を意味し、その語源はアラビア語のムラヒド(異端者)で、イスラム教イスマーイール派を指すらしい。老人は、アロアディン(アラー・ウッ・ディーン・マホメット)と呼ばれ、あらゆる果物が実る美しい庭園を作り、金で飾りたてた宮殿を建て、それをマホメットが唱えた楽園であると信じこませたという。葡萄酒、ミルク、蜜、水の豊かに流れる水路を設け、美しい娘を大勢集める。彼女らは楽器を奏で、素晴らしい声で歌い、上手に踊る。しかも、周囲を堅固に要塞化していたとか。
老人は、戦士になる少年たちを宮殿に連れて来ては、マホメットが唱えた楽園について話して聞かせる。少年たちは、飲み物で眠らせて連れ込まれ、目を覚ますと、豪華さと壮麗さに圧倒され、美女たちに慰められ、まさに楽園だ!と信じこむ。そして、気に入らない君主を抹殺するための暗殺者に仕立てあげるという寸法よ。... 奴を殺せ!もし戻って来られたら天使に頼んでお前を楽園へ導こう!もし死んだとしても天使に頼んでお前を楽園に戻してやろう!... と。
少年たちは、楽園に戻りたいという強い欲求に誘われて、どんな危険にも怯まず、老人の命令を忠実に実行する。老人は、命じた通りにあらゆる人物を殺害してきた。王侯たちは老人を恐れ、友好を求めては貢ぎ物をする。
1252年、レヴァント(イル汗国)の王アラウ(フラーグ)が、老人の悪行を聞きつけ、滅ぼそうとする。三年間の包囲で落とすことができなかったものの、やがて食糧が尽き、ついに落城。老人は殺され、それ以降、いかなる暗殺者も出現しなかったとさ...
しかしながら、原理主義はマホメットを崇拝する者だけのものではい。十字軍もそうであったように、宗教と原理主義はすこぶる相性がいい。それは人間の潜在意識として受け止めておくべきであろう。そして、彼らは必ず「聖戦」という言葉を口にする。

3. 聖トマス伝説
大インドと呼ばれるマアバール地方(インド東岸南部のコロマンデル海岸地方)では、この地に埋葬される聖トマスの伝承があるという。この地域では牛を崇拝し、けして牛を殺さず、食べもしないと。
そこには、ゴヴィという人々がいるそうな。サンスクリット語ガヴァ「牡牛に捧げられた」の転訛で、下層カーストを指す言葉だとか。彼らとて、けして牛を殺さず、自然死や事故死した時に食べるくらい。
さて、ゴヴィには、聖トマスの亡骸のある場所に留まることのできない魔術がかけられているという。二十人や三十人もの人々が力づくで押さえつけても。というのも、聖トマスはゴヴィの先祖たちに殺されたとされるからである。聖トマスの亡骸は、マアバール地方のほとんど人の住んでいない町マドラス近郊のマイラプールに置かれるという。不便な場所だが、改宗したサラセン人がしきりに巡礼に訪れるらしい。彼らは信仰が厚く、聖トマスを大預言者として崇め、アヴァリアン(アラビア語で聖者の意)と呼ぶ。聖トマスは、この地で様々な奇蹟を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させたと伝えられる。
また、アルバシー地方(アビシニア、すなわちエチオピア地方)でもキリスト教を広め、多くの人々を改宗させた後、マアバールに赴いて亡くなったとさ...

4. 出版者に黒幕でもいるのか?
ところで、本物語から三つの疑問点に遭遇する。
一つは、東方見聞録の最初の記述がフランス語でなされたこと...
これは定説だそうだが、証拠もあるらしい。なぜ、ヴェネツイア人とピサ人がフランス語で?ルネサンスの口火が切られる14世紀半ば以前において、まだイタリア文化は後塵を拝し、特に北イタリアではフランス語が広く用いられたという。フランス語の写本は、二つの系統に分かれるとか。「イタリア訛りのフランス語写本」と紹介されるフランス国立図書館 fr.1116 と、ティボー・ド・シュポワがフランスに持ち帰った写本に端を発するフランス国立図書館 fr.2810 写本で、本書では後者を中心に訳出される。「イタリア訛り」の方が説得力がありそうな気もするが...
二つは、淡々と綴られる文面の中に、時折見せる異教を貶す記述...
中国の思想観念に興味を示さないのに、仏教を偶像崇拝と蔑み、特にイスラム教への敵対心を露わにする。これが、商人の言葉なのか?時代からして、マルコがキリスト教中心主義であったことは考えられる。とはいえ、大カーンの異教徒への寛容な態度を賞讃し、しかも厚遇された身で?出版にあたっては、ルスティケッロの採録編纂した形で残されるので、多少の脚色はあるだろう。また別の視点から、出版時期がアヴィニョン捕囚に至る事件と重なるのは偶然であろうか?十字軍が下火になった時代、十字軍の再興を夢見た一派の影響でもあったのか?さらに、マルコとルスティケッロの他に介在者がいた可能性は?尚、マルコは牢獄を出て、ヴェネツイア市民の生活に復帰しているらしい...
三つは、旅の犠牲者に関する記述が見当たらないこと...
プロローグには、帰路において、大カーンは14隻の船と600人の船員を随行させたことが記述される。1286年、レヴァント(イル汗国)の王アルゴンの妃ボルガラが死去。彼女は自分の血筋に王妃の座を譲ることを遺言したとか。そこで、大カーンは十七歳の血筋の婦人コガトラ(コカチン)を派遣する。その大勢の家来に、ポーロの一行が随行した。しかしながら、生き延びたのはわずか8人(イタリア訛りのフランス語写本では18人)だったという。三ヶ月あまりの航海でジャヴァ島に着き(実はスマトラ島だったらしい)、この島で多くの不思議な出来事があり、後で詳細を語るとしながら、その記述が見当たらない。インドの海を十八ヶ月あまり航海した後に目的地に着くが、アルゴン王は既に亡く(1291年)、かの婦人は王の息子カザンに与えられたという。そして、ポーロの一行は1295年にヴェネツイアに帰国したとさ。陸路にせよ、海路にせよ、異教徒や異民族の国を横断するのだから、過酷の旅であったことは間違いあるまい。疫病も襲ってくる。だからといって、これだけの犠牲者を出しながら、その記述がないとはどういうわけだ?どこかの島に、そっくり置いてきたというのか?王女の護衛だから、そっくりイル汗国に残り、うち8人か18人を召使として貰い受けたというなら、筋は通る。ならば、そう書けばいい。不思議な出来事については、マルコ自身が口を封じたのか?あるいは、ルスティケッロが筆を封じたのか?それとも... などと思いをめぐらすと、最終的に出版を許可した影の存在を想像せずにはいられない。
... などと考えてしまうのは、ジェームズ・ロリンズの影響であろうか。実は、ロリンズ小説「ユダの覚醒」のおかげで、本書を手にとったのだった。それにしても、この旅行記は実に中途半端のうちに終わりやがる。

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