2016-09-25

"元朝秘史(上/下)" 小澤重男 訳

マルコ・ポーロに触発されて、これを手に取る。というのも、「東方見聞録」はあまりにもモンゴル帝国の視点から書かれたものであった(前記事)。それは、タタール人、イスラム教徒、キリスト教徒の三つの世界観が混在する物語で、大カハンが征服地に対して宗教的、文化的にある程度寛容であったことが綴られる。アレキサンダー大王が大帝国を統治するために多くの異国人を登用したように。こうした記述がやや贔屓目に感じるのは、クビライ・カハンに厚遇されたこともあろう。そこで、モンゴル帝国の祖チンギス・カハンの一代記として名高い「元朝秘史」というわけである...

モンゴル帝国は、第五代クビライの時代に最盛期を迎え、人類史上最大の帝国となった。しかし、その礎となると、偶発的な、いや運命的な力を必要とする。ハプスブルグ家しかり、ブルボン家しかり、ロマノフ家しかり、徳川家またしかり...
戦は、なるほどやってみなきゃ分からん。石橋を叩いても渡らない!とまで言われた家康とて、万万勝てるとは思っていなかっただろう。戦の敗者は姦雄とされるのが世の常。後の回想録は大袈裟に改変される傾向があり、英雄伝にもしたたかさが滲み出る。それが歴史書というものか。善玉と悪党の対立構図は分かりやすく、水戸黄門のような物語が長く愛される。
いつの時代でも、成功者が崇められる。成功と失敗は紙一重と承知しながらも。現実社会では、しばしば正義が負けるのを目撃する。それでもなお、正義が勝つ!と信じられる根拠とは何であろう。判官贔屓という情念も少なからずある。英雄伝の類いを読む時は、こうした性癖を差し引いて臨む必要があろう。
本物語では、ケレイド族のトオリル・カン(後のオン・カン)と同盟しながらも、裏切りによって窮地に陥り、これを撃退。この時、トオリルの背信を責めながらも、節度ある言辞によって寛容な態度を示す場面は、まさに英雄伝!寛容さを演出するからこそ正義が際立つというもの。
チンギスには好敵手がいた。幼き頃から盟友であったヂャムカは、両雄並び立たず!のごとく敵対していき、ついに「十三翼の戦い」で激突。勝利者はヂャムカであったが、チンギスは人望厚く、逆にヂャムカには梟雄というレッテルを貼る。そして再三の激突の末、チンギスが勝利し、ヂャムカは囚われの身となる。最後に、互いに幼き頃を懐かしみ、自ら死を望むヂャムカにチンギスが心を打たれる場面は、最高の盛り上がりを見せる。なるほど、好敵手のいない英雄伝は、この上なく締まらない。ライバル、友情、敵対... こうした自己を投影する存在がなければ、偉大な仕事は成し遂げられないのかもしれん。そこには、尊大な自己陶酔がつきもの。となれば実は、敗者の方に、あるいは歴史の外の方に、真理が隠されているということはないだろうか。だから、歴史が繰り返されるのかは知らん...

尚、モンゴル族の最古の古典は、「永楽大典」に収録される形と「元朝秘史」単体のニ形式が残されるそうな。前者は明の永楽六年(1408年)に成立し、後者は1228年から1252年にかけて書かれ、それ以降も加筆されて成立したらしい。そして、様々な流伝を経て、今日、十二巻本と十五巻本の二種類に至るという。
書かれた時期に諸説があれば、著者も特定できない。専門家の間では十二巻本の方が優れていると評されるそうだが、翻訳者小澤重男氏は両方とも同じ価値があるとしている。本書は、本編の十巻と続集の二巻の十二巻で構成されるが、続集と呼ぶからには書かれた時期も違うのだろう。そして、十五巻本を参考にしている部分も見受けられる...

1. 族祖伝説「蒼き狼」と「白黄色の牝鹿」
チンギス合罕の祖先は、「蒼き狼(ボルテ・チノ)」と、その妻「淡紅色(うすべにいろ)の牝鹿」だという。狼と牝鹿の落とし子から11代目ドブン・メルゲンは、コリ・トゥマド族のコリラルタイ・メルゲンの娘アラン・ゴアを娶る。夫は先に死に、アラン・ゴアが日月の精を得て、チンギス一族の祖を含む三子を生むという感光出生の説話が語られる。その際、「五本の矢」の教訓が伝承されたという。それは、毛利元就伝の「三本の矢」と同じで、五人で力を合わせよ!というもの。
「汝等、五人の我が子達は唯一の腹より生まれたり。汝等は、さきの五本の矢柄の如く、ひとりひとりにてあらば、あの一本ずつの矢柄の如く誰にもたやすく折られなん汝等。かの束になりし矢柄の如く共に一つの和をもちてあらば、誰にもたやすくいかで折られるべきや...」
五人とは、先にドブン・メルゲンとの間に生まれたベルグヌテイ、ブグヌテイの二人と、日月の精を得て生まれたブク・カタギ、ブカトゥ・サルヂ、ボドンチャル・ムンカクの三人。だが母の死後、上の兄弟四人で財産を分けあい、ボドンチャルは愚弱として親族に数えられなかったという。孤高に生きた末子ボドンチャルから更に11代目イェスゲイを父とし、ホエルンを母とし、モンゴル族の英雄テムヂン、すなわち、後のチンギスが生まれたとさ。その時、テムヂンは右手に髀石(シアー)のような血塊を握って生まれたという。
「日月は望み見らるるなり。今、この海青の掴みもち来たりて、わが手にとまれり。白きもの降りたり。何かよきことをば示すや...」

2. チンギス合罕の誕生秘話
テムヂンは、兄弟族のタイチウド族に嫉まれ、若くして勇士の器と目されていたことが語られる。一旦はタイチウド族に捕らわれるが、スルドゥス部族のソルカン・シラの義侠に救われる。
また、メルキド族の領袖トクトア・ベキに妻ボルテを奪われ、ケレイド族の王トオリル・カンやヂャムカと同盟して撃退。
さらに、バリアン族のシャーマンのコルチ・ウスン翁の力を借りて、モンゴル族の族長にのし上がっていく。シャーマンとは祈祷師か。シャーマニズムという言葉も耳にするが...
コルチが言うに「テムヂン、国の主たれ!」。これは、神のお告げか!ここに「チンギス合罕」と名付けとさ。
だが、同盟していた大部族ケレイドも、ヂャムカも、いずれ敵対することになる。

3. 十三翼の戦い
両雄並び立たず!の言葉のごとく、やがて敵対していくテムヂンとヂャムカ。直接の対立原因は、ヂャムカの弟タイチャルがテムヂン側のヂョチ・ダルマラの馬を盗み、ダルマラがタイチャルを追って射り殺したこと。
ヂャムカには反テムジン派が集結し、十三の部族と結びついて三万もの勢力になる。これに対抗して、テムヂンは十三群団を編成。ヂャムカ陣営の十三の部族連合とチンギス陣営の十三群団との激突は、「十三翼の戦い」として伝えられる。この最初の対決でテムジンは敗れはするものの、人望を失うことなく、これを教訓として、以降の相次ぐ戦闘で敗れることなく、大帝国を築いていったとさ。
ヂャムカの運命はというと、後にメルキド族とナイマン族の大連合軍がチンギス軍に撃退された時、僚友に裏切られてチンギスに捕らえられ、自ら死を選ぶことになる。

4. 四勇士と四賢者
この物語には、チンギスを支える四勇士と四賢者の名が挙げられる。四勇士は「四狗(ドルベン・ノカイ)」と呼ばれ、クビライ、ヂェルメ、ヂェベ、スベゲテイ。四賢者は「四俊馬(ドルベン・クルグ)」と呼ばれ、ボオルチュ、ムカリ、ボログル、チウラン。さらに、ヂュルチェデイ、クイルダルを加えて、彼ら英傑に対する篤い信頼が語られる。いずれも一大遊牧帝国を築く上で欠かせない人物だ。

5. 軍法「千戸の制」と「近衛輪番兵の制」
軍制は、帝国の規模とともに大掛かりな組織になっていく様子がうかがえる。
まず、千家戸の家戸(アイル)という単位の基本組織が語られる。遊牧生活の最小単位であった家戸(アイル)をそのまま軍制に取り入れたものらしい。次に、十戸(アルバン)、百戸(ジャウーン)、千戸(ミンガン)の単位で編成し、各戸ごとに長(ノヤン)を配置。諸部族の首長をノヤンと呼び、千戸長、百戸長、十戸長とする。侍従(チエルビ)は、チンギスの傍らにあって政務や軍務を補佐する側近の臣で、六人の侍従官を配置。
1206年、メルキド族とナイマン族の連合軍を破って大帝国となった時、チンギス合罕は行政官に「罕」の称号を与えたという。そして、95人の千戸長を任命したことが語られる。
さらに、「千戸の制」「近衛輪番兵(ケシグテン)の制」という拡大編成について語られる。近衛輪番兵には、八千人の当直兵(トウルガウド)に加えて、箭筒士(コルチン)を含んだ二千人の宿衛兵(ケプテウル)を擁する一万人体制となる。チンギスは、この輪番集団を「大中軍(イエケ・ゴル)」と呼ぶべし!としたとさ。

6. シャーマン僧の陰謀
神を後ろ盾にすれば、精神的に大帝国の乗っ取りを図る者が現れる。テムヂンは、シャーマンによって「チンギス合罕」の称号を得て大帝国の礎を築いたが、今度はそのシャーマンによって謀反の兆しあり。コンコタン氏のムンリグ父の子は七人で、その真中のココチュは「テブ・テンゲリ(天なる天神)」と呼ばれる。ココチュはシャーマンの特権を行使し、王位を脅かしたとか。奴は霊媒師か。
そして、チンギスの弟カサルをそそのかしたのか?それとも単なる流言か?英雄伝は一転して小説風の展開を見せる。だが、自称神の代理人は葬られて終わる。

7. 大遠征と後継者争い
1211年、チンギスは闘将ヂェベと共に居庸関を破り、金国の首都、中都を包囲して帰順させる。次いで、西夏(カシン)に出陣し、王ブルカンも帰順。先に帰順した金皇帝は再び謀反するが、1214年に討伐軍を派遣して北京城壁を降し、金皇帝は中都から南京に逃亡し、ついに投降したという。
また、帝国が巨大化すればするほど、後継者争いも熾烈となる。長子ヂョチと次子チャアダイの諍いに、その仲をとりもつ重臣ボオルチュとムカリ。権威を欲する当人たちと、組織の安泰を図る重鎮たちというお馴染みの構図である。
最終的に、三子オゴデイを後継者に選定。そして1227年、「チンギス合罕、天に上りぬ」

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