2017-02-26

"世界を変えた17の方程式" Ian Stewart 著

「"~に等しい" という言葉をうんざりするほど繰り返さないために、私が仕事でよく使っているとおり、一対の平行線、つまり同じ長さの二本線 "=" を使うことにする。二つのものとして、これ以上等しいものはないからだ。」
... ロバート・レコード「知恵の磁石」より

世界を変えた... とは、良い影響を与えたという意味だけではない。実際、方程式そのものが真理であったとしても、用い方を間違えれば、途轍もない危機を招く。量子力学しかり、遺伝子工学しかり、金融工学またしかり...
科学者は、善悪はそれを用いる者の心の中にある!と訴える。それは詭弁であろうか。方程式に権威ある学者が太鼓判を押すと、人々はそこに群がる。変数を与えるだけで世界が分かると信じて。カオス社会では特にそうだ。「方程式」という言葉の響きは、よほど心地よいと見える。こいつに無限の期待をかけ、自己を暗示にかけちまうのだから。誰も検証できないとなれば尚更。そうなると、迷信と何が違うのだろう。仮に絶対的な方程式が存在するとして、その奴隷になることが幸せなのかは知らん。間違えない人生が楽しいのかも分からん。ただ言えることは、方程式は道具である。もっと言うなら、知識は道具であり、これを用いるのが知性である。哲学のない道具は危険となろう。一流の板前さんは、包丁一本にも職人魂を宿らせる。
ところで、知性ってなんだ???

方程式は、しばしば人類の道筋を示してきた。それは、自然界の本質を記述しているからだ。しかし、数学者イアン・スチュアートは、世間の粗略な扱いに不満をぶちまける。
「歴史書には王や女王や戦争や自然災害の記述に満ちあふれているが、方程式はほとんど登場しない。それは偏った扱いようだ!」
方程式は記号で表されるが、ある種の言語として振る舞い、自然言語に勝るとも劣らない説得力を持つ。その力は、抽象化と客観性に裏付けられる。ただ、この二つの形容詞は、そのニュアンスが学問分野によって微妙に違う。
「抽象化」という用語は、哲学者、科学者、芸術家などは「より真理に近い」といった普遍性と重ねた意味合いで用いるが、政治家や経済人などは「曖昧さ」という意味を込めて、具体的に示さなければ何の意味もない!と吐き捨てる。学芸に理解のない者は、芸術家の抽象表現に対して、何が言いたいのか?と最低な感想をもらす。
「客観性」という用語では、有識者たちが客観的に語ると宣言して、そうだったためしがない。客観性の度合いでは、数学は他の追従を許さないものの、不完全性の呪縛からは逃れられない。
ちなみに、ヴィクトリア女王時代、マイケル・ファラデーはロンドンの王立協会で、磁気と電気の関係を実験で説明したそうな。言い伝えによると、ウィリアム・グラッドストーン首相は、それに何か現実的な意義があるのか尋ねると、ファラデーはこう答えたという。
「そうですね、いつかこれに税金を掛けることになるでしょう...」
尚、この逸話を裏付ける証拠はないそうだが、埋もれさせるには惜しい!

17 の方程式とは...
ピタゴラスの定理、対数、微積分、ニュートンの重力法則、-1 の平方根、オイラーの多面体公式、正規分布、波動方程式、フーリエ変換、ナヴィエ=ストークス方程式、マクスウェル方程式、熱力学の第二法則、相対論、シュレーディンガー方程式、情報理論、カオス理論、ブラック=ショールズ方程式。
本書は、方程式を二種類に大別する。
一つは、様々な数量の関係を表し、真であることが証明された時に定理となるもの。純粋数学がこれに属し、ピタゴラスの定理やオイラーの公式などは恐ろしく真である。
二つは、未知の量に関する情報を与え、科学法則や社会的モデルとなるもの。応用数学や物理数学は大抵これに属し、ニュートンの重力法則や相対性理論などの経験法則がそれである。
前者は厳密な証明によって裏付けられ、後者は実験や観測によって裏付けられる。思考原理の観点から、前者が演繹的で、後者が帰納的という見方もできそうだが、その境界は微妙だ。個人的には、正規分布とブラック=ショールズ方程式あたりに、やや異物感があるものの、世界を変えたという意味では、そうかもしれない。正規分布は、正規という名を与えられたが故に、あらゆる統計モデルに用いられ、数々の誤謬を招いてきた。尚、嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... とは、ベンジャミン・ディズレーリの言葉だ。
ブラック=ショールズ方程式では、オプション価格の決定法に金融屋が群がり、あの悪名高い LTCM の破綻を招いた。ひいては、リーマン・ショックの警告であったとも言えるわけだが、歴史は繰り返された。アンドリュー・ホールデンとロバート・メイは、こう指摘したという。
「金融生態系では、進化力は、もっとも適応したものでなく、もっとも太ったものを生存させる。」
ピタゴラス教団が、数を占星術と結びつけたのは、現代感覚からすると常軌を逸している。だが今日でさえ、どんなに立派な方程式を編み出したところで、その結果は都合よく解釈される。では、本当に完全な方程式が存在すればどうだろう。人間は思考することをやめ、進化の道は閉ざされるだろう。結局は同じことか...

1.駄洒落と影のつきまとうピタゴラス
ピタゴラスの定理は、「カバに乗った女房」というダジャレに登場するという。ネットでも見かけるあれだ。あるインド人の族長には、三人の妊娠した女房がいたとさ。一人目は水牛の皮の上に、二人目はクマの皮の上に、三人目はカバの皮に上にいた。一人目は男の子を1人、二人目は女の子を1人、三人目は男の子と女の子の双子を産んだ。故に、カバの皮に乗った女房は他の二人の和に等しい。これで有名な定理が例証されたというお話。
これのどこがダジャレなのか?"hippopotamus(カバ)" を "hypotenuse(斜辺)" に、"squaw(女房)" を "square(2乗)" に引っかけているというオチ。実に下らん!
古代ギリシアの自然哲学者たちは、日時計の原理となる影ができる図形に憑かれた。ユークリッド原論にも登場するあれ、そう、グノーモーンってやつだ。ここには直角三角形の原理が内包され、距離を測る人類最初の方法が暗示されている。そう、三角法だ。紀元前五世紀以降、ギリシア哲学者がおしなべて大地が丸いと考えていたことに異論の余地はない。天動説が唱えられ、ピタゴラスの定理は、地図、航海、測量に欠かせない道具となった。
今日では、様々な距離の概念で応用される。それは、地理的な場所だけでなく様々な物理量のベクトル場で論じられ、抽象度の高さを魅せつけている。相対性理論では空間や時間における距離と重力の関係を論じ、情報理論では符号距離を論じ、さらに、解析学では直角という幾何学的概念を直交性という代数学的概念で抽象化し、便利な近似法を与えている。フーリエ変換やウェーブレット変換がそれだ。
日時計の時代から、人類は直角(= 直交)という影を背負って生きることを運命づけられているようだ。幸福のバロメーターとして、人間関係の距離を測る必要もある。そして、アル中ハイマーは夜の社交場で直交配置される点群(店群)へ直行するのであった...

2. ややこしい計算から解放してくれる魔術
人間にとって、掛け算よりも足し算の方がはるかに楽だ。自然対数の底の名を持つマーキストンの第8代領主ジョン・ネイピアは、神秘主義者だったらしく、錬金術や降霊術に携わっていたとされる。
まさに対数は、掛け算を足し算に置き換えてくれる魔法の術!掛け算や割り算、比の計算、平方根や立方根の開平などの計算から解放してくれる。音響工学や電気工学では、dB(デシベル)という単位を用いて増幅回路の利得などで重宝され、デジタルシステムでは、底が 2 の時に重要な意味を与えている。底に何を選ぶかは用途によって変えればいい、という柔軟さこそが真骨頂!人間の直感は絶対値よりも相対値を好むようだ...

3. 微積分学の美学
あらゆる物理現象は、時間とともに変化していく。つまり、すべては時間の関数で表わせるってことだ。そこで、本質的な変化の方向性を観察するには、時間の変化が限りなくゼロになる点における状態を定めればいい、という思考(嗜好)が浮かぶ。微積分が自然界のあらゆるモデリングで活躍の場を与えられる理由が、ここにある。
では、限りなくゼロとは、どういう状態か?「無限小」という物理量を、どうやって正当化するのか?時間をゼロにするということは、次元を一つ落とすこと。これが微積分学における哲学的解釈の一つとしてある。時間という次元をなくせば、連続性から解放され、離散的なスナップ写真が描けるという寸法よ。
しかしながら、人間の認識能力は時間の存在によって成り立ち、時間をゼロにするということは、認識を無にするに等しい。そのためか?限りなくゼロに近づけようとするだけで、けっしてゼロにはならない。これが無限小の正体だ。つまり、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。まるで消えゆく亡霊を追いかけるがごとく。ある落語家は言った... 人生はノーパンだ!はかない...

4. 潜在力学
力学とは、物体の運動における力の関係を問う学問である。
そもそも、力ってなんだ?アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなど、様々な用語が乱立してきた。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーと結びついた。
では、エネルギーってなんだ?力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和で記述され、そこには保存則が成り立つとされる。運動エネルギーの存在は、なんとなく分かる。物体が移動すれば、そこになんらかの力が働くであろうから。
では、位置エネルギーってなんだ?質量と加速度と位置(高さ)で決定される物理量だが、位置ってなんだ?物体が存在するからには、空間のどこかに位置する。つまり、位置は相対的な場所でしかない。位置エネルギーはポテンシャルエネルギーとも呼ばれ、重力などはポテンシャル、すなわち潜在的な力として解釈される。概して人間は潜在能力を持っており、努力によって開花させる者がいれば、ほとんどの者が才能を眠らせたまま。潜在的な存在といっても、自己存在に確証が持てなくなるばかりか、あらゆる存在に疑いを持たずにはいられない。
リンゴは、なぜ地面に落ちなければならないのか?と問えば、それは高い位置にあるからで、すべての地位は失墜する力学が働いているとでも言うのか。政治の力、金の力、愛の力... これらすべて腐敗する運命にあると。どうやらそうらしい。そしてさらに、こう問うであろう。男性諸君は、なぜ小悪魔に落ちなければならぬのか?やはり、人生はノーパンか...

5. 虚像という名の理想
人類は、実数に対して、虚数という仮想的な数を編み出した。実数と虚数の組合わせで表記される複素数は、三角関数を計算する上で優れた手法であり、電磁気学や量子力学では欠かせない。
幾何学的に存在しえない -1 の平方根に、いったいどんな意味があるというのか?しかも、その性質ときたら、乗法と加法の規則を守ってやがる。これは、理想解への道であろうか?最も美しいオイラーの公式は、この虚像の下でネイピア数とπという二つの無理数が戯れると、整数に収束すると告げてやがる...

6. 重ね合わせた猫は不気味
1オクターブを周波数の整数比で作る音律の概念は、既にピタゴラスの時代からある。波動方程式の線形性は、波の重ねあわせによってハーモニーを奏でる。フーリエ変換もまた、正弦波成分と余弦波成分の和によって構成され、周波数スペクトラムという概念を与えている。信号成分を周波数リストで記述すれば、再現性が高く、デジタル信号処理とすこぶる相性がいい。
実際、フーリエの考えた熱方程式は、恐ろしく波動方程式に似ていたという。マクスウェルの方程式もまた、ある種の波動方程式という見方ができよう。div(発散)とrot(回転)の演算子で、電場と磁場の見事な対称性を示している。マクスウェルは、エーテル説を信じて実証しようとしたが、光の波動性を匂わせてしまったことで、思い悩んだと伝えられる。
さて、あらゆる物理運動は、なんらかの振動を備えている。そもそも、物体の基本要素である原子や電子が振動している。となれば、振動の重ねあわせによって、存在そのものが定義されるのも道理であろう。直感では、物質の存在を粒子性によって示したいという衝動が働くが、存在の本質は、むしろ波動性の方にあるのかもしれない。
マクスウェルの方程式は、確率論に基づいた最初の物理法則という見方もできそうである。電子工学で用いられる電流や電圧の単位は、あくまでも統計的な物理量であって、電子の個々を制御しているわけではない。ひょっとしたら、マクスウェルの悪魔に憑かれた電子が、1個ぐらいどこかに存在するかもしれない。人間社会にも犯罪確率があるように、同じ教育を受けたからといって、同一の人間性が生まれるわけではない。
実際、量子の振る舞いは不気味だ。「シュレーディンガーの猫」という思考実験を試せば、確率と重ね合わせ状態の違いとは何か?と問わずにいられない。すべての現象が重ねあわせ状態で存在するとしたら、なぜ宇宙は古典的に見えるのだろうか?人間認識のスケールでは確率になるが、プランクスケールでは重ねあわせ状態になるというのか?おまけに、波動性ってやつは、振動に加えて位相を持ってやがる。しかも、不思議なことに位相は複素数で扱われる。つまり、虚数(= 虚像)というわけだ。
位相の違う波を重ねあわせれば、まったく違う状態になりうるし、情報がうまいこと相殺されることもある。となれば、猫の存在を問う前に、猫そのものが判別できないかもしれない。
定常位相の原理ってなんだ?光学系のすべての量子状態を重ねあわせると、光線は最短時間の経路をとるとされるが、やはり道を選択するというのか?
デコヒーレンスってなんだ?互いに干渉すれば、波動関数を収縮させ、やはり道を選択するというのか?
これらの原理は、同じ分子構造を持ちながら、まったく違う人格を作るのと同じ原理であろうか?現実に時間の波によって状態は変化し、人格までも変わっていく。時間とは、一列に行儀よく順番に並んでいるものなのか?時間が単なる意識の産物だとしたら?あらゆる物理現象が単なる観測の産物でしかないとしたら?現実逃避でパラレルワールドに縋るのも無理はない。その結果、猫が生きているか死んでいるか?そんなことは知らんよ。自分自身が十年後に生きているかも知らんし、今を精一杯生きるだけだ。量子コンピュータってやつは、猫の非人道的な扱いに復讐を企てようとしているのか?夜の社交場で男性諸君が概して子猫ちゃんにひれ伏すのも、神の企てであろうか...

7. 神が存在する方に賭けたパスカル
パスカルは悪魔の代弁者を演じて、神が存在する確率を論じた。
「神が存在するほうに賭けたときの、利益と損失を比べてみよう。それらの2つの可能性を見積もってみよう。賭けに勝てばすべてが手に入る。負けても何も失わない。だから迷わずに、神が存在するほうに賭けなさい。... 勝てば限りなく幸福な無限の人生が手に入るのに対し、負ける可能性は有限で、賭けるものも有限だ。したがって、勝ちと負けのリスクが等しいゲームにおいて賭けるものが有限であり、勝ったときに得られるものが無限であれば、この論述には無限の力がある。」
...「パンセ」より

8. カオスに隠された連続性と離散性の調和
カオスのような複雑な世界は、だいたい偏微分方程式で記述される。ブラック=ショールズ方程式もこの類い。分からない対象は、考えうる変数をすべて洗い出し、これらの和として記述すれば、とりあえずのモデルが構築できる。それ故に、この場合の抽象化は、そのまま曖昧さを表すことになる。しかも、微分方程式ってやつは必ず解けるという代物ではない。
数学者たちは、高速なコンピュータを利用して近似法に頼ってきた。そこで、流体力学で有用とされるナヴィエ=ストークス方程式が登場する。こいつは、ニュートンの第二法則の姿を変えたものという見方ができるという。
圧力p, 応力T, 体積力f の関係を表し、こんな形をしている。

  ρ(∂v/∂t + v・∇v) = -∇p + ∇・T + f  (ρ: 密度, v: 速度)

とはいえ、基本的な問題は残されたまま。この方程式が導く解が実在するという数学的保証はあるのか?それは、あらゆるカオスな世界につきまとう問題である。
一方で、カオス理論は、連続時間の微分方程式から脱皮して、離散的な写像として記述している。

  Xt + 1 = kXt(1 - Xt)  (X: 個体数, k: 増加率, t: 現世代, t + 1: 次世代)

この方程式は、利用可能な資源に限界がある場合、生物の個体数が世代ごとにどう変化するかをモデル化している。すこぶる単純な形でありながら、元となる非線形性が複雑なダイナミクスの根源であることを示しており、ランダムの裏に秩序が隠されている可能性を匂わせる。
ところで、未来永劫に有効であり続ける方程式の解というものが、カオスの世界で存在しうるだろうか?結局は、統計力学的に、より改善された近似モデルを模索するしかないような気もする。実際、方程式が美しい対称性を示しても、その解が対称性を保つとは限らない。エントロピーがそれだ。秩序と無秩序という対称性を示しても、その解は時間の矢に支配される。覆水盆に返らず... と言うが、喰っちまったラーメンは腹の中!その痕跡は排泄物に見いだすしかない。おまけに、健康状態か、体調不良か、でも姿形を変えやがる...

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