2013-04-14

"マックスウェルの悪魔(新装版)" 都筑卓司 著

科学者たちが自然法則に魅せられるのは、そこに対称性の美があるからであろう。大概の物理法則には、可逆性や回帰性といった基本性質がある。
しかし、熱力学第二法則だけが、不可逆性を主張する。実際、目の前の多くの物理現象や社会現象が不可逆性を見せやがる。太陽熱で氷を沸騰させることができても、逆に凍らせることはできない。ボールを自由落下させても、地面との衝突熱でエネルギーが奪われ、元の位置に跳ね返ることができない。生き物は、常に栄養分を吸収しながらもなお、若返りの道は閉ざされている。さらに、歴史は進む一方で、知識や情報は蓄積される一方。おまけに、精神エネルギーの損失が大きく、群衆は惑わされる一方。余計な知識を忘れ去れば幸せにもなれろうが、その選択でいつも誤る。記憶ってやつは、せめて時系列に順序正しく失われれば可愛げもあるが、忌まわしい過去ほど強く残りやがる。経済現象では、利率がマイナスになるのを見たことがない。これが欲望のバロメータかは知らん。こうした不可逆現象に介在する物理量が、時間とエントロピーってやつだ。
ちなみに、アインシュタインは、エントロピーはすべての科学にとって第一の法則であると語ったとか、語らなかったとか。エントロピーを研究したボルツマンやエーレンフェストが自殺したのは、不可逆性の矛盾を嘆いてのことかは知らん。

はたして不可逆性は、宇宙の真理なのか?例えば、箱の左半分に1気圧、右半分に2気圧の同じ気体が入っているとする。そして、中央の仕切りを外したらどうなるか?そりゃ、時間が経てば1.5気圧になるだろう。温度差、圧力差、濃度差のある気体が混合すれば、均等化の方向へ動く。しかも、再び分離することはない。そこで、電磁気学を確立したジェームズ・クラーク・マクスウェルは、ある思考実験を提起した。もし量子の世界に、エントロピーを減少させることができる小人たちがいたらどうだろうかと。無秩序へ邁進するものを秩序へ引き戻そうとする何かが存在したらどうだろうかと。その正体が、ダークマターとか呼ばれる暗黒物質にあるかは知らん。ただ、箱の中の気圧は、あくまでも平均値であって、比較的温度が高く、速度の速い分子が混在している。激しい運動をする分子は、中央の仕切りに衝突する確率も高くなるだろう。そこで、中央の仕切りを分子が衝突した時に一方向に弁が開く仕掛けにすれば、片方には気圧の高い分子が集まるはず...なーんて考えを披露してくれる。だが、弁に衝突した分子が間接衝突しているかもしれないし、比較的温度が高いかどうかなんて判別のしようもない。なにやら、この思考実験は悪魔じみている。
だからといって、不可逆性が真理だと無条件に受け入れられるだろうか?真理が心地良いものだとすれば、小悪魔こそ真理かもしれないではないか。たいていの教科書には、エントロピーはただ増大する!とだけ記述されるが、これを自明と言い切れる人は宗教家だけかもしれない。とはいえ、覆水盆に返らず!...後悔先に立たず!...空けたボトルにおとといおいで!...などと囁かれるのは、やはり人間はそれを真理だと薄々気づいているからではないか?いや、水と油のごとく最初から交わらないものもある。人間社会では、政治は凡庸化しているように映るが、生活様式や思想観念は多様化している。気体のような分子ではなく、意思を持った個体の集まりであれば、民主主義が機能するかは知らんが...
いずれにせよ、熱力学や統計力学の観点から眺めると、複雑化、乱雑化、均等化、多様化への推移、あるいは運命の片道切符といったものは、すべてエントロピーで抽象化できそうな気がする。熱力学の法則は、空想世界から現実世界に引き戻してくれる役割を担っている。一瞬で燃え上がる愛情熱は一瞬に冷める理性熱と相殺する。これが熱力学第一法則。そして、愛情の縺れはますます混沌へと向かう。これが熱力学第ニ法則。おまけに、何がしらの憎悪熱が残り、けして絶対零度まで完全に冷めることはない。これが熱力学第三法則。おっと!いつのまにか小悪魔について語っている。熱力学とは、夜の社交学であったか。

ところで、時間には親しみがある。だからといって、これを説明することは至難の業だが、ちょっとだけ頑張ってみるか...
物理現象を観測するとは、人間が認識することを意味する。つまり、純粋な物理系に、観測系が加わるということ。この統合環境は、やはり物理系を成す。これは、はたして純粋に物理現象を観測していると言えるだろうか?この問いは、不確定性原理を匂わせている。つまり、観測する行為そのものが、自己矛盾を孕んでいる。そう、人間が認識するという行為そのものが...
いまだ人類は、絶対的な価値観を構築できないでいる。相対的にしか認識能力を発揮できないとなれば、何かと対比しながら認識するしかない。そして、過去の経験と未来の希望との狭間で、現在の価値観を構築することになる。過去の経験は知識の選択という形で蓄積され、未来への希望は妥協や絶望という形で具現化される。ただ、人間は、時間の矢ってやつが一度放たれると戻ってこないことを、経験的に知っている。おそらく認識能力を持つ生命体は、「認識空間 + 時間」という次元の中に幽閉されるのであろう。
ならば、観測という行為を放棄したらどうだろうか?無認識こそ真理ということはないだろうか?もし時間に可逆性があるとしたら、記憶のメカニズムまでも逆戻りするだろうから、逆行していることさえ気づかないのではないのか?時間の収支が常に赤字なるのは、欲望という認識が働くだけのことではないのか?時間とは、認識の産物に過ぎないのかもしれん。そして、エントロピーもまた、時間に幽閉されているだけのことかもしれん。人間と時間、どちらが悪魔なのやら。人間は時間に魂を売ったのか?ファウスト博士がメフィストフェレスにしたように...
「地球には、バクテリアかなにかが繁殖するのが本来の姿であり、人間とは突然変異によってでき上がってしまった宇宙の変わり種だという説もある。偉大なる反エントロピーの創造者は、一方では鼠や昆虫やバクテリアのように、ながく生存する能力のない、か弱い動物なのであろうか。頭脳が発達したということが、かえって弱点であり、情報量を増やすという自滅行為のほか脳のない破綻者だろうか。」

1. 永久機関
人類は、古代から永久機関への夢を描いてきた。不老不死を求めるがごとく。金利所得だけで贅沢三昧という考えは、古代錬金術から受け継がれる思考原理で、永久享楽の欲望からきている。そして、人類は仮想社会の中に多様な価値を見出してきた。経済もまた、価値差益の循環機関として機能する。ただ、経済循環はしばしば頓挫する。金融危機とやらで。物理学が等速運動を証明し、振り子の動きを観察すれば、永久機関なるものが存在すると信じても不思議ではない。しかし、熱力学は、永久機関の存在をきっぱりと否定する。理想機関とされるカルノーサイクルは、絵に描いた餅というわけか。
さて、永久に運動を繰り返すとはどういうことか?機関系のエネルギーを外部に漏らさず、内部循環で完結するということか?そうだとすると、機関系からエネルギーを取り出すという時点で、外部との接点を持つことになるではないか。そもそも、外部系と接点を持たずに運動を開始することは可能であろうか?永久機関とは、無から有を創出しようとする企みということになりそうだ。なんらかの損失エネルギーが生じるならば、埋め合わせのエネルギーを与え続けなければならない。はたらけど、はたらけど猶わが生活楽にならざり、ぢっと手を見る!とは、そういうことであろうか。地球には太陽系との接点があり、人間社会にも自然との接点があり、こうした機関系はいつか破綻するだろう。では、宇宙空間は外部との接点があるのだろうか?接点がないとすれば、永久に内部循環する可能性があるのかもしれない。

2. エルゴード仮説と情報理論
エントロピーを研究する学問は、統計的にあるいは確率的に分析して本質を見極めようとする。圧力、温度、体積などはマクロ的な統計量であって、物理学の主役であるエネルギーがそういうものである。電圧、電流、電力にしても、個々の電子を観察したものではない。集団とは、どこかに反抗分子を抱えているものだ。個々の粒子を追ってもあまり効果が得られないとなれば、物理量のエルゴード性を観察することになる。ボイル・シャルルの法則にしても、アボガドロ数 N = 6.0 x 1023個という分子の数が非常に多い場合の関係を示している。その意味では、政治学やマクロ経済学と似ている。ただ、群衆の多数決が真理の方向性を示しているかは知らん。尚、エルゴードとは、ギリシャ語のエルグ(仕事)とオドス(道)をくっつけた造語だそうな。
さて、多くの物理現象は、離散的である。沸点や融点がそうだ。キュリー点では、ある温度で強磁性体は常磁性体に転移する。超伝導現象では、金属が超低温になると電気抵抗がゼロになる。単振動をする原子のエネルギーでは、hν の0.5倍、1.5倍、2.5倍...の離散値になる。尚、hはプランク定数、νは振動数。人間社会では、群衆エネルギーがある閾値を超えた時に爆発する。
では、なぜ物理現象は離散的なのだろうか?情報理論の父クロード・シャノンは、著書「通信の数学的理論」の中で、情報の本質は離散性であることを匂わせた。エントロピーの正体とは、ある種の情報を意味するのか?確かに、出鱈目の度合いという点から、エントロピーと確率、あるいは情報量と相性が良さそうだ。実際、エントロピーSは、次式で表される。

  S = k log W  (W: 事象やエネルギー状態の数, k: ボルツマン定数)

この式は、まさにシャノンの示したビットの概念とそっくり。エントロピーが増大するしかないとすれば、人間社会が情報に圧殺されるのも道理というものか。

3. 太陽の表面温度 6000K の系
太陽光は、湯を沸かすことができるほど、凄まじいエネルギーを持っている。供給されるエネルギーは、距離の二乗に反比例して小さくなるとはいえ、やはり直接浴びると健康には悪い。地表に到達する時は気温と調和されて心地良い温度となるものの、絶対温度6000度の系にあることは確かなようだ。
地球が太陽系の族である限り、太陽の放射線で決まる温度というものがあるそうな。放射線で決まる温度ってなんだ?熱い物体は放射エネルギーを出す。ただし、色つきの物体は特定の波長しか放出しないので、ここでは黒い物体としよう。黒体では、ある温度でどのような波長のエネルギーを多く出すかが決まっているという。発光体の温度が上がると、放射エネルギーも大きくなり、大きな振動数の光をたくさん放出するだろう。そして、熱をよく吸収する地上の物体は、潜在的に太陽の表面温度6000Kまで上昇できるというのか?どうやら、そうらしい。太陽方向に垂直な地上面は、1平方センチあたり、1分間にほぼ2カロリーの熱および光のエネルギーをもらっているという。太陽定数と呼ばれるやつか。レンズで黒い紙が燃えても、太陽光で火事になっても、不思議はないというわけだ。しかーし、それを言い出したら、太陽系だって、どこぞの恒星系の電磁波を浴びているだろう。オルバースのパラドックスのような無限エネルギーに曝されているってことにならないのか?
それはさておき、太陽よりもはるかに弱い発光天体が、ほどよく近くにあるとしたらどうだろうか?太陽と同じようにエネルギーを吸収して、地球環境が維持できるだろうか?それは無理だそうな。エネルギー総量が同等というだけでなく、そのエントロピーが小さいということも重要な要因だという。ほどよく近い仮想天体では、エネルギーの偏りが小さいので、エントロピーが極めて大きいという。エネルギーのゆらぎが大きいことが重要ということか。太陽光線には豊富な紫外線が含まれている。だからこそ植物は光合成をし、自分の成長の素材となる炭水化物を作ることができる。エネルギーにもメリハリが必要ということであろうか。いつも飽和状態では活性化されない。たまには忙しすぎることも、暇すぎることも必要であろう。多感だから様々な反応を感じ、創造力が増すのかもしれない。
しかし、もし地表が6000Kまで上昇したら、逆に太陽に向かって熱放射されるだろう。そうなると、太陽と地球の互いの存続はどうなるのだろうか?やはり、愛情熱や憎悪熱の強い相手は、軽く受け流すぐらいでちょうどいい。

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