2017-03-05

"知性改善論" Baruch De Spinoza 著

宇宙論的な神を唱えれば、無神論者のレッテルを貼られ、長らくタブー視されたスピノザ哲学。だが、人間の編み出した宗教の教義など普遍性には遠く及ぶまい。汎神論論争の帰結が、スピノザ哲学を不動の地位に押し上げるとは、なんとも皮肉である。真理を探求すれば懐疑主義となり、独りよがりの自問自答に耽る。それは疑い深いのとは違う。健全な懐疑主義と啓発された利己主義こそが、真理探求者の資質とでもしておこうか。時勢に逆らってまで信念を貫く姿勢は、酔いどれ天の邪鬼にはたまらない...
本書は、知性の方法論を語ってくれる。注目したいのは、事物理解の方法として、定義を重視している点である。優れた定義が、優れた認識を与えるというわけだ。優れた質問が優れた結論へ導くものだが、そこには、きちんとした定義が前提される。定義が不明瞭であれば前提を見失い、議論は迷走する。誤謬の原因の多くは、ここにあるのではあるまいか...

ところで... 知性とはなんであろう?
知性をうまく定義することができれば、人生に意味を与えることができそうだ。しかしながら、これを定義することが最大の難題である。スピノザは、最高善を唱えている。それは、人間の至高の幸福としての真理を探求する意志とでも言おうか、能動的な精神の姿であって、極めて自由意志に近いものであろう。
「知性」を我が家の国語辞典で引くと、「物事を知り、考えたり判断したりする能力...」とある。思考力や判断力には、おのずと限界がある。肉体で成り立つ人間は有限的な存在でしかなく、量子論的に言っても、質量ある物体は有限的な存在でしかない。そもそも真理なんてものは、人間が勝手に編み出した退屈しのぎの概念かもしれないし、そんなものは存在しないのかもしれない。仮に存在するとしたら、おそらく無限の体系にあるのだろう。
では、幽体離脱した魂は、無限的な存在になりうるだろうか?遺伝子や記憶子の継承によって、普遍的価値観へ昇華させることができるだろうか?時間の矢に幽閉され、空間次元の非対称性に幽閉される人間の認識能力が、唯一活路を見出すとすれば、それは世代を超越した永劫回帰にあろうか。ニーチェが問題提起したあれだ。スピノザだって、知性への道を完全に記述できると思ってはいまい。なるほど、どんな賢人であっても、自分自身を真理会得者などとは呼ばないものらしい...

さらに... 知性を導くための道具とはなんであろう?
知性はしばしば知識と混同されるが、まったく違うもののように映る。知性は知識によってもたらされるが、知識を詰め込んだところで知性が得られるものではない。知識の宝庫と言えば学問だ。最高の仕事が最高の道具によってもたらされるように、最高の知性もまた優れた学問によってもたらされるであろう。
しかしながら、学問は手段でしかない。知識とて記憶と忘却に見舞われ、人間の都合でどちらかが選択される。実際、凡人の学問は最高善を求めず、金銭欲、名誉欲、快楽の手段と化す。有識者や有徳者ですら名誉を重んじるがために、相手の名声を傷つけることに必至で、感情の捌け口としているではないか。真理ってやつが、おぼろげに存在すると信じたところで、精神そのものが存在するのかも、いまいち自信が持てず、確実に実感できるものに縋るのも道理である。
世間が求める善と真理探求者が求める善が真逆であれば、真理探求者は、寒山拾得のごとく社会から距離を置くか、あるいは、シャングリ・ラのごとく世間の目に晒されない領域を求めるであろう。
デカルトが、人間は思惟する存在だと明言しても、なぜ思惟するのかまでは答えられない。キェルケゴールが、それは人間が精神であるからだと答えても、精神の正体までは答えられない。いまだ人間は認識の正体を知らないでいるのだ。どうして事物が存在し始めたのか?存在の根源とは何か?それは、単なる認識の産物ではないのか?実は、すべてが虚構であり、真理もまた空虚ということはないのか?脳の形成では、原子や電子が無数に集まることで意識なるものが生じる。そして、それが精神へと昇華し、精神の持ち主は思惟せずにはいられない。ただ、それだけのことかもしれん...

そもそも... 自己の正体も知らない人間が真理を知ることができるのか?
論理を駆使したところで、すぐに矛盾にぶつかり、弁証法を用いて堂々巡り。自己の正体も知らないから幸せ者なのかもしれん。だから、哲学という学問が成り立つのかもしれん。どうせ凡人には真理を見極めることなんてできんよ。
具体的な方法論では、せめて消去法を用いるぐらい。現実を生きるには、反省の認識が有効となる。そして、人生は思考実験の場となる。この実験を放棄すれば、真理の探求を放棄したことになり、生きる意義の大半を失うことになろう。能動的に思考することを放棄すれば、知識や情報に惑わされるだけの存在となろう。だから、デカルトは「省察」ってやつを書いたのかは知らん...
「精神は理解することがより少く知覚することがより多ければ、それだけ大きな虚構能力を有し、また理解することがより多ければ、それだけそうした能力が減少するということを特に注意しなければならない。」

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