2017-05-14

"失語症と言語学" Roman Jakobson 著

「失語症による損傷は、幼児の習得順序を逆に再現する。... 言語の障害のされ方はでたらめではなく、一定の法則に従っているということ、そして言語学の技術と方法論とを首尾一貫して適用していくことをしないかぎり、言語の退行現象の基底にある法則を見出すことはおそらくできないだろう。」

言語学者ロマーン・ヤーコブソンは、心理学、神経学、病理学などとも協調する学際的な立場をとり、精神科医との連携が欠かせないと強く主張する。彼が語尾を強める背景には、フロイト学派への牽制がある。当時のフロイト学派は、言葉が理解できなくなったり、話すことができなくなったりする症状を、まだ病理の方面からでしか捉えていなかったようである。進化への道と退化への道は、互いに逆ベクトルの関係にあると言えばもっともらしい。そして今、人類は進化の過程にあるのか、はたまた...

進化の過程を自然に体現する赤児という生き物は、驚異的な学習能力を発揮しやがる。言葉を覚えるというのは、かなり高度な努力が要求されるはず。なのに、おぎゃー!としか発っせないガキどもが、たった数ヶ月でクーイングから喃語へ進化し始め、やがて身振りとともに言葉もどきを発声するようになり、数年もすれば大人が理解できる言葉を操る。大人どもが外国語を習得するのに、十年かけても苦労が絶えないというのに...
幼児と大人の違いとは、なんであろう。まず知識ゼロからのスタートは、学び方に偏見がないということがあろう。金儲けのため... 地位を得るため... といった脂ぎった欲望を知る由もない。子供の純真な好奇心ほど旺盛なものはない。意味的な価値観を獲得する初期の段階では、余計な知識もなければ雑念もなく、なんでも素直に受け入れられる度量がある。
対して、大人どもときたら他人の論調を受け入れがたいところがあって、説明に困った時には、それは常識だ!と一言で片付ける。知識や技術に理解のない大人の見解は、こんな事に何の意味があるのか?こんなものが何の役に立つのか?といった類いで、芸術作品に対しても、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。英語の学習法に対してはもっと顕著で、聴き流すだけ... といったキャッチフレーズにこぞって群らがる。インプットが少ない幼児が言葉遅れの傾向を示すのも確かで、日本語と英語の音声周波数帯が違うのも間違いなく、それなりに説得力のある文句ではある。ただ、与えられる情報量に処理能力がついていけなければ、却って害になる。鍵となるのは、音声周波数が言語脳と結びつくかどうかであって、言語脳が形成される前に単なる音として耳が慣らされてしまえば本末転倒。
結局、大人どもの意識には、楽して得をしたい!努力の見返りが欲しい!といった最小労力の原理が働くというだけのこと。そういえば、むかーし睡眠学習というメソッドがもてはやされた。大人はみな面倒臭さがり屋よ。おまけに、経験を積み、歳を重ねていくと、意識改革までも難しくなる。知識の見直しは、過去の否定になりかねない。大人どもは自己肯定を意識するあまり過去に縋り、餓鬼どもは前世の悪行をものともしないのである...

ところで、失語症の対極に、お喋り症候群とも言える病がある。お笑い芸人なら、口から生まれた!などと冗談も通じよう。会話が達者ならば、それはむしろ才能だ。しかしながら、独りぼっちでグラスに向かって話しかけているとしたら... 氷を人差し指で回しながら、君って冷たいね!ってな具合に... アル中ハイマー病患者にとっては、こちらの方が由々しき問題だ!独り言の意義とは、なんであろう。言葉を発することが精神安定剤となることがある。知識を膨らませるために、話し手と聞き手の共同作業を独りで演じきれるとしたら、高度な精神状態とも言えよう。
孤独と相性のいい芸術は、いわば独り善がりの世界。最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は騒動のうちになされる... とは、トーマス・エジソンの言葉だ。まさに哲学は自問自答を根幹に置き、自己否定に陥ってもなお心が平穏であることを要請してくる。それは自立への意志であり、自由への意志である。
言葉を武器とする小説家のような人種は、最初から精神病棟の入り口に立たされているようなもの。失語症が言葉や文脈の関係を断ち切ることによって生じるとすれば、これまた関係性からの自立、すなわち、依存症からの脱却とも言える。自立や自由への思いが強い人ほど、危険性が高いということか。自立と孤独とを混同してはならなるまい。
「自律には価値があるが、孤立は常に有害である。」
人間が精神的ダメージを受けやすい状況は、概して恐怖心との関連性が強い。精神を活性化させるには、ヨガ、瞑想、禅、茶道、華道といった外来的方法もあるが、自我が無意識に自己解決を試みるとしたら、どんな方法をとるだろうか。失語症も、独り言も、自我が試みるマインドフルネスの一種であろうか。無意識というからには自己の制御不能な領域から発するわけで、すでに自我は別の人格へ移行しているのかもしれない。
したがって、本ブログが「アル中ハイマーの独り言」と題しているからには、けして本心ではない!と語尾を強めて言い訳しておこう...

1. 恐るべしガキ!恐るべし模倣者!
周りに人がいようが、いまいが、赤子は泣く。人に振り向いてもらいたいという欲求は、泣けば相手をしてくれるという経験を重ねていくうちに後から目覚めていく。周囲との関係から存在を意識するようになると、やがて自分の居場所というものを追求するようになり、言葉は自己存在との関係から発達していく。乳幼児は喃語の時期に、多種多様な音を発する。舌打音、口蓋化子音、円唇化子音、半閉鎖音、歯擦音、口蓋垂音など。だが、単語を習得する段階になると、これらの音をほとんど消失してしまう。
ここで興味深いのは、言語習得の努力によって、軟口蓋音、歯擦音、流音などを意味論的な価値と結びつけて、再度、獲得しなおすという指摘である。つまり、知識の獲得によって、音声的豊饒から音声的制限へ移行するというのである。
言語機能の発達によって、感嘆詞や擬音語は主役の座からおろされる。幼児語が自己の中で再認識された時、音素の意味論的な傾向が言語記号と結びつき、音素の選択肢が制限される。無意識的な自由から意識的な制限への移行... とでも言おうか。知識がなければ、理性も知性も育まれない。理性や知性を獲得すれば、自ら自由を制限する力を持つようになる。言語習得の法則も、これに従うらしい。子供には、まず喋ることを教え、次に黙ることを教えよ... とは誰の言葉であったか。
幼児の学び方は、単純明快!それは大人たちの物真似から始まる。そもそも人間の創造性とは、何らかの影響によってもたらされる結果であって、いわば模倣を原理としている。ダ・ヴィンチにしても、ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、修行時代、多くの模写に励んだ結果、自然に独創性が生じるのを待った。完全な無から創造できるのは、神ぐらいなものか。幼児の模倣は、知識を無意識に借用しつつ創造するのであって、猿真似とはちと違うようである。模倣を超越した次元で、原型から創造的逸脱を要求するような。そこに模倣の対象を選ぼうとする意志はない。書を選び、師を選び、弟子入りしたり、帰依したりするのは大人の意志だ。知識を都合よく選択によって狭め、常識と非常識を篩いにかけ、偏狭にあるのはむしろ大人の方か...
「一言にして言えば、幼児は自ら模倣されつつある模倣者なのである。」

2. 言語の対称性と非可逆性
物理学では対称性の理論が重宝される。しかも、完全な法則ではなく、対称性の破れってやつがつきまとう。人間もまた、物理学の法則に従っているのかは知らんが、だいたいにおいて対立的な関係を好み、しかも、どこか適度の自由を求めている。体系が不完全であるがゆえに進化の余地を残し、自由度と柔軟性によって秩序と無秩序までも調和させるのである。言語体系の変遷は、国語の法則などで強制できるものではない。不完全な人間にとって、完全な法則よりも法則たらんとすることが、心の休まる存在となろう...
幼児の場合、最初に鼻音と口腔音の対立が生じるという。やがて言語の最小体系に、母音と子音の対立が現れる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、物事は区別によって認識され、二項対立によって構築されていく。それは極めて離散的な、デジタルな世界であり、シャノンの情報理論にも通ずる。自己存在を心地よいものとするには、自己優位説を唱えるのが手っ取り早く、人間が差別好きというのも頷けよう。
また、世界のあらゆる言語にある共時態には、非可逆連帯関係の法則が見出せるという。例えば、幼児の音韻体系では、軟口蓋と硬口蓋子音の習得は、唇音と歯音の習得を前提にするケースがあるとか。タタール語では、軟・硬口蓋子音を欠き、多くの言語でも軟口蓋や硬口蓋鼻音を欠くケースがあり、その場合でも唇音と歯音を欠くとか。世界諸言語で、軟・硬口蓋子音の存在には唇音と歯音が同時に存在するが、その逆は成り立たないそうな。摩擦音の習得にも閉鎖音を前提にするという。摩擦音が完全に欠けた言語は存在しても、閉鎖音のない言語は存在しないのだそうな。
ちと話は違うが、日本語でも反対語が見当たらないことがある。慣習的に反対語を必要としなかったのか。そんな時は否定文を用いればいい。論理学には、いざという時に全否定という裏ワザもある。言語体系が完全であれば、言い訳の隙も与えず、精神病から逃れる道も閉ざされよう。非可逆の法則は、人間にとって拠り所になっているのやもしれん...

3. 母音と子音
人間の身体は、息を吐く物理的構造に鼻と口の二本の管を具える。かくして最初に、塞いだ管と開いた管の対立が生じたという。口腔閉鎖音や鼻閉鎖音など。次に、一本の管と二本の管の対立が生じる。母音と子音がそれで、前者は鼻の管を塞ぎ、後者は鼻の管を開く。母音はそのままでも、子音は複雑に分化していく。多くの共存を望むならば、選択肢を増やして分岐を多様化させるのは、ダーウィンの法則がごとし。
ところで、日本語の特徴は、母音を強く発し、鼻の管を塞いだ音が強調される傾向にある。言葉を学ぶ時は書くことを基調とし、文字がそのまま発生記号の役割を持つ。
対して、英語の特徴は、子音を強調する傾向があり、おのずと発声周波数帯が違ってくる。それは、言葉を学ぶ時に喋ることを基調としているからであろう。
日本語の五十音に対してアルファベットは26文字と少ないが、発音記号を含めれば音素的にはむしろ多彩である。西洋人の中には、言葉は喋れても文字が書けないという人が意外に多いと聞く。日本人は、だいたいどちらもできる。こうした違いは、コミュニケーションの仕方にも現れる。日本人は発音に無頓着なところがあり、よく外国人から、口の動きがはっきりせず、もごもごしていると指摘される。それは、英語の L と R が区別できないことにも現れている。日本語には、音素的にカタカタで柔軟に対応できる仕組みがあるとはいえ、厳密な発声法は表記できないのである。
さて、幼児の言語習得では、最初の母音対立は、最初の子音対立より後だという。それゆえ、子音が既に弁別的機能を満たしているにもかかわらず、他方で、一つの母音が子音の変種のような素材でしかないような段階があるとか。
また、音素的価値と記号的価値はどちらが原始的かは、失語症にも現れるようである。精神科医の観察から、言語障害では、第一に鼻母音が消失傾向にあり、同時に流音の対立も消失しやすいという。第二次母音は第一次母音より消失しやすく、摩擦音や半閉鎖音は閉鎖音へ変わり、軟口蓋子音は口腔前方子音より先に失われるという。そして、唇音と母音の A が、破壊に対抗する最後の音素だそうな。
老人が口から名詞がとっさに出てこなくて、あれ、これ、それ、などと代名詞に頼ろうとするのも、外国人との会話で、大袈裟なジェスチャーに頼るのも、とっさに言葉が出ずに、えー、んー、などと発声してリズムをとるのも、ある種の失語症に見えてくる...

4. 失語症タイプを区別する二分法
病理学的には、言葉が理解できない感覚性失語症と、言葉は理解できるが話すことができない運動性失語症とに分類されるが、ここでは、言語学的に六つの失語症タイプを紹介してくれる。言葉が理解できなければ黙るしかなく、理解できても口から言葉が出てこなければ、やはり黙るしかない。結局、同じことと言えばそうなのだが、治療法となるとやはり複雑である。ヤーコブソンは、失語症タイプの基礎に三つの二分法を置く。

第一の二分法... 符号化障害 対 解読障害
符号化障害では、構成要素が正常でも文脈で障害を起こし、逆に解読障害では、文脈が正常でも構成要素に障害を起こすという。前者は、結合や近接性における障害で、後者は選択や類同性における障害であると。
文脈が組み立てられなければ、統辞的な関係が崩壊し、支離滅裂となる。一方で、単語が貧困化すれば、選択の余地をなくし、文体までも貧素になる。ただ、二重否定のような構文は、正常者であっても理解が難しいし、難解な哲学書が誰でも理解ができるとは思えないし、誰でもどこか符号化障害や解読障害のようなものを抱えているのであろう...

第二の二分法... 制約 対 崩解
第一の二分法から薄められた型があるという。符号化障害の中の動的失語タイプと、解読障害の中の意味性失語タイプである。符号化障害にともない、視覚像をもった夢が抑制されるという症状もあるそうな。符号信号から視覚信号へ変換される際の崩解という見方もできそうか。
正常な言語では語類と統辞機能との間に区別があるが、意味性失語症ではこの二重性が失われるという。操る語が制約されると、言いたいことが制約され、精神までも制約を受ける。単語がある文脈に固定されて、言葉がやけに形式的になるのも、ある種の制約と言えよう。制約と崩解は、対立関係というよりは表裏一体に見えてくる。動的失語は静的文脈に支配され、自ら自由を束縛にかかる。意味性失語は統辞規則を単純化し、自己を窮屈にする。そうなると、義務的規則も考えものだ。礼儀作法で多用される決まり文句や書式の慣習化は、便利でありながら思考を低下させかねない...

第三のニ分法... 連続(継時性) 対 共起(同時性)
言語系が破壊されれば、単語と単語、文と文における、連続性か、同時性か、のどちらかが障害されているのだろう。もっと言うなら、精神病のほとんどは、なんらかの時間的関係性を失った状態なのだろう。自己防衛本能が、都合の悪い関係性を自動的に断ち切ってくれることは、ありがたいことではあるが...
中でも興味深い病状に、求心性失語と健忘性失語を紹介してくれる。求心性失語は、同時的結合における符号化障害で、健忘性失語は、継起的選択における解読障害だという。前者は、言語の音連続における共起的構成要素の配列のみが関与する近接性障害で、後者は、純粋な類同性に基づいた文法的連続体のみが関与する類同性障害であるとか。求心性失語は弁別素性の近接性における障害で、健忘症失語は語配列の類同姓における障害ということらしい。
同音異義語や類音異義語を弁別するには、文脈から判断しなければならず、これらを多用するのにも高度な技術が要求される。音素的に調和する詩文的な技巧にも、連続性と同時性が多分に関与する。文面に語呂合わせが出現するのは、高度な精神状態の表れであろうか。となると、音律的な駄洒落も高度な技術の一つと言えよう。酒に酔うと駄洒落がでやすくなるのも、この手の障害であろうか。ちなみに、あるバーテンダーは「酒に落ちる」と書いて「お洒落!」などと能書きを垂れていたが、棒が一本足らんよ!

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