2017-05-21

"シンボリック・マネジャー" T. Deal & A. Kennedy 著

本棚を眺めていると、なんとなく懐かしい用語に目が留まる。こいつに出会ったのは、二十年くらい前になろうか...
80年代から90年代にかけて日本社会がバブルを謳歌していた頃、アメリカの産業はことごとく日本の製造業に脅かされ、日本に学べ!といった書が数多く出版された。しかしながら、ハーバード大学教授のテレンス・ディールとマッキンゼー社のアラン・ケネディは、こうした論調に苦言を呈す。日本の経営方式を真似ても、根本的な解決策になるとは思わないと。また、MBA分析、ポートフォリオ理論、費用曲線などを駆使する経営方式を弄しても、解決できるとは思わないと...
常に生き残ってきた企業には、近代経営学だけでは説明のつかない何かがある。同じ方法論を用いながらも、片やマンモス企業に成長すれば、片や早々に消え去る。企業とは、本来、人間による人間のための組織であるはず。そこには、きちんとした理念や価値観がある。巷では、社風と呼ばれるやつだ。本書は、より抽象度の高い「企業文化」という言葉を用いている。人が集まれば、集団の気質や個性が育まれ、それなりに理念や価値観なるものが生じてくるもので、その共通意識は文化となって現れる。健全な文化は集団の中で強い意志となり、企業体は精神的な総体となって強力となる。当時のアメリカにも、こうした企業精神を持つ偉大な企業が存在した。NCR, GE, IBM, P&G, 3M, Xerox など。その創設時の考えや方法を見直してみてはどうだろう、というのが本書の主旨である。
そして21世紀、経営陣の浅はかな行動によって危機的状況に追い込まれる企業の多い昨今、今度はこの書が日本企業に苦言を呈しているように映る...
「人が企業を動かしていることを忘れてはならない。そして、文化がいかにして人びとを結びつけ、日々の生活に意味と目的を与えているかについて、先人の教訓を学びなおさなければならない。」

なぜ働くのか?と聞けば、ほとんどの人が、お金を得るため、食うため、生活のため、と答えるだろう。だが、文化が非常に強く浸透した企業体では、心の奥底にある動機は、それだけにとどまらない。文化は強かろうが、弱かろうが、組織全体になんらかの影響を及ぼす。従業員たちの関心事は、どんな決定が下されるか?どんな人物が昇進するか?といったことから、好みの服装やスポーツや芸能にまで至り、互いの人間性にも少なからず影響を与え合う。それが、哲学的な意識や普遍的な価値観のレベルで影響し合うとしたら、どうであろう。仕事そのものが自己を高める手段となり、自己実現へと導くとしたら、どうであろう。「シンボリック・マネジャー」とは、そのような企業文化を体現する象徴的管理者のことを言う。本書は、組織の構造や戦略は、実体よりも象徴にあるという見方を示し、合理的管理者との対比から語ってくれる。
今日、MBAの取得などに躍起になる風潮がある。金儲けに直結する知識に群がるのは、いつの時代でも同じ。そもそも企業とは利潤を求める場所であり、こうした傾向が、経済的合理性という観点を与えてくれるのも確かだ。しかしながら、精神的合理性という観点からは、どうであろう。本書は、なにも合理的管理者を否定しようというのではなない。むしろ、企業の象徴的存在が別の役割を担おうというわけである。それは、独裁者のようなアクの強い管理者のことではなく、そうした頑固なタイプとは反対の人物。人間性を見抜き、育て、使い分ける手腕の持ち主。自ら英雄になろうとするよりも英雄を育てようとするタイプ。人を知るための忍耐力を人一倍具え、感受性が豊かでデリカシーに富むような、すなわち人間通の、人間観察の、人間の達人のような人間である。どうやら、カリスマ性だけでも勤まらないようである。野心家よりも淡々とした人物の方が相応しいのかもしれない。状況が変わって機能を必要としなくなれば、素早く身を引くような。管理者の立場に未練がないような。それだけ軽い存在だということを自分に言い聞かせているような。高尚な哲学者のような。
... などと書き並べれば、おいらにはまったく無縁の性格ではないか!と、二十年経った今も落ち込むのであった...

1. 文化は確実な投資物件!
社員が、互いに領分を侵すことなく、同じ方向に進めるのは、何の力によるものだろう。一つの答えは、不文律と相互理解、もう一つの可能性は、権限の分散だという。中央集権化した権限、形式化された手続き、厳格な階級制度などに強く依存することなく、自律と管理が調和した組織である。こうした傾向を文化と呼ぶからには、宗教めいたところも多分にある。ただし、盲信とはちと違う。信念にしても、理念にしても、どこか自発的な要素から発しており、しかも、自然に溶け込んでおり、強要的なものがまったく感じられない。
活気のあるチームでは、共有哲学を隠喩したような合言葉が生まれるのを、よく見かける。その合言葉が、目先の仕事、くだらない仕事を排除し、本当の意味で合理性をもたらす。そのような意識が組織全体に根付いていれば、危機的状況に陥っても少々無理がきくし、根付いていなければ、従業員は報酬額ばかりを口にしては、さっさと逃げ出すだろう。
どんな組織でも、重要な問題を解決し、利益に大きく貢献した英雄がもてはやされる。ただ、文化を根付かせ、本当の意味で持続的に貢献している真の英雄は、縁の下の力持ちの方かもしれない。しかも、そうした人物ほど表立って評価されないものである。
理念が隅々にまで行き届いた企業には、非公式でまったく形式張っていない伝達機構が存在するという。成文化されていないのが特徴で、柔軟性を持ちながらもルールは厳格だとか。共有された意識が厳格と言うべきであろうか。本書は、これを「文化のネットーワーク」と呼び、その役割分担を、語り役、聖職者、耳打ち役、スパイ、秘密結社、うわさ屋などの性格から解き明かそうとする。彼らは、悪知恵の働く連中から政治利用されやすい立場でもある。しかし、共有する哲学的意識を重視すると同時に、互いの自由意志を尊重するので、組織系統を越えた存在であろうとする。会社が理念から外れようとすれば、こうした連中が歯止めとなろう。シンボリック・マネジャーとは、文化のネットワークの成員を熟知し、彼らの活用法をよく心得ており、しかも真の英雄として暗躍し、言動そのものが経営理念を体現するような人物というわけか。ただし、企業文化を正式な声明書として記せば、聖書さながらのぎこちないものとなろう。文化の押し付けは、しばしば逆効果となることに留意したい...

2. ダミー定理と行動心理学
むかーし「ダミー定理」という用語を耳にした。それは、80対20の法則のように、真に活動を牽引しているのは少数派にあるという見方である。この定理によると、n人のグループにおいて、k人がダミーで、n に対する k の比率は 2/3 とされる。どんなグループでも、2/3 はダミーというわけだ。経済学者や統計学者は、こうした考えがお好きなようである。世の中にそんなに大勢のダミーが存在するのだろうか?自分でも意識できないような隠れた役割というものはないのだろうか?
しかしながら、こうした法則を持ち出さない限り、企業社会で高額の報酬を平然ともらっている連中が大勢いる事実を、説明できない。そして、有能な経営者がダミー定理を活用する事例が紹介される。例えば、三菱系の会長は、日本社会の終身雇用問題についてインタビューを受けた時のエピソードがある。中間管理職の職務遂行能力が低下してきたらどうするのか?終身雇用を建前としてどのように扱うのか?との問いに、会長は即座にこう答えたそうな。
「その問題については大いに研究しています。まず、彼の成績をあげるために何かうつ手はないかどうか、状況を調べます。しかし、彼の成績不振の原因がどうしても掴めない場合には、昇進させます。なぜなら、72.4 パーセントの確率で、昇進させるとたちまち成績があがるからです。」
組織内において、自分がダミー的な存在ではないか?という不安は、誰にでもあるだろう。昇進すれば、そのような不安を払拭でき、ダミー的な振る舞いを捨てるというわけだ。ある種の行動心理学である。
逆に、ピーターの法則というものも耳にする。人は能力の限界まで昇進し、そこでキャリアが行き詰まるという見方である。こちらの方が正論に見えるが、現実社会は実に多くのダミー的な存在によって成り立っている。そのダミー的な存在から真に評価すべき人物を知っているのは、管理者よりむしろサブカルチャーに身を置く連中であって、経営陣からはなかなか見えないものである。となれば、このような社会学の法則を利用するのも一つの手かもしれない。
ちなみに、ナポレオンは、ただの記章で価値のないレジオンドヌール勲章を復活させたことで、評論家たちの痛烈な非難を浴びた時に、こう反論したそうな。
「部下は、言葉ではなく、金ピカの飾りで導くものだ。」
実に皮肉に満ちた言葉ではあるが、見事に人間の本質を言い当てている。もちろん功績は認められるべきであって、認めることがさらなる偉大な動機となろうが、正当な評価がなされない組織では、むしろ文化を破壊することになろう...

3. IBMの餌づけエピソード
個性主義が行き過ぎても、はたまた画一的過ぎても、会社の活気は失われる。業界体質から、無法者を歓迎する会社もあれば、能力よりも秩序を重んじる会社もある。遊び心を奨励する会社があったり、野心や独立心を旺盛にさせる会社があったり、あるいは、少しでも集団意識から逸脱すると、けしからん!と叱られる会社があったり、企業風土というものは実に様々だ。GEで重役になれるような人物が、Xeroxでは失脚するということも、その逆もありうる。雁字搦めに規則で縛られたいM君もいれば、儀礼儀式にうるさく、官僚的な命令を下すことを好むS氏もいる。だからこそ、会社を選ぶ時は、看板や報酬に惑わされることなく、自分に合った企業風土を見つけたいものである。
ところで、アメリカ流のジョークには感服させられる。副社長の退任劇では、副社長のテーブルや椅子を彼の面前で火焙りにしたり、偉いぞ賞!でかした賞!あるいは、今週の殉教者賞など。IBM創始者の息子トーマス・ワトソン・ジュニアは、こう語ったそうな。
「餌づけされた鴨はもうどうこへも行こうとはしません。企業は野生の鴨を必要としていると確信します。IBMでは、彼らを餌づけしないように心がけています。」
すると、透かさず社員がこう返したという。
「野生の鴨でも隊列を組んで飛びます!」
この抗言は、たちまち教訓の一部に組み込まれたとさ...

4. 日本株式会社
日本企業の成功の大きな理由の一つは、国全体として、一つの非常に強い、緊密な文化を維持していることだと指摘している。個々の企業がそれぞれに強い文化を持つだけでなく、企業、銀行、政府との連繋をも含めた一つの文化を形成している。
例えば、ソニーが初めてニューヨーク支社を創設すると、これに続け!と日本電気や日立製作所などの営業マンたちが密かに集まって祝杯をあげた、などのエピソードはいまだに語り継がれる。ひと昔前、総合商社が世界各地の情報を集める重要な役割を担っていた。いわば産業界の諜報機関として。言い換えれば、政府系のシンクタンクは当てにならないってことだ。長い間、国家レベルの諜報機関が存在しないことは、我が国の弱点されてきた。外交能力の乏しい国家が経済大国にまでのし上がったのは、奇跡と言わざるをえない。
「日本株式会社とは実に企業文化の概念を全国規模に拡大したものである。」
しかしながら、成功してきた大企業でも、やはり官僚主義は蔓延する。時代にそぐわない惰性的な会計処理を見直すこともできなければ、粉飾決算として明るみになり、スキャンダル沙汰となる。社員全員で苦しみを分かち合おうってか?汚染水を川に垂れ流しするような行為に、従業員が反発しないようでは先行きは暗い。皮相的な儀礼や形式だけが継承され、企業精神ってやつはどこへやら?忘年会に欠席するヤツは査定するぞ!などと豪語する取締役がいる。集まることが団結力だと思っているようなマネジャーがいる。飲みニュケーションを優先させる空気の中で、サッカーの代表チームの試合を優先する人がいてもいいではないか。なによりも自発性、自主性が重んじられるべきであって、強迫しなければ参加を促せないとすれば、どこか間違っている。
一方で、アメリカでは、国家レベルで日本社会のように意識を一方向に向けることはできないだろう。それでも成功の陰には、個々の会社で効率的で、持続可能な文化が強い推進力として働いている。そうした意識傾向は、日本式だとか、アメリカ式だとかで区別できるものではなく、人間学の問題である。すべては、従業員にヤル気をおこさせることができるか、それを継続させることができるかにかかっている。個性や多様性が結束した時のパワーは、より計り知れないものとなろう...

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