2017-05-28

"天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎" 長谷部浩 著

江戸三座の流れを汲む中村座と守田座の家で生を受けたがために、互いに、十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎という名を背負った。片や天才坊やと呼ばれた歌舞伎界のサラブレット、片や重厚な脇役道の家柄を継承。光と影ほどの違いはあれど、十字架を背負うがごとく藝術の殉教者となったことに変わりはない。
二人は奇しくも同学年に生まれ、六十を前に逝く。人間五十年... と歌われるが、今の時代にしては早すぎる。弔辞で三津五郎さんは勘三郎さんに語りかける。
「肉体の藝術ってつらいね!」
化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり... 絵画や小説と違って、まさに肉体芸は儚い...

「... 芝居も踊りも持ち味が違い、二十代から八回も演じた『棒しばり』。はじめの頃は、『お前たちのようにバタバタやるもんじゃない、春風が吹くようにフワッとした感じでやるものだ』と、諸先輩から注意を受けましたが、お互いに若く、負けたくないという心から、なかなかそのようにできなかった。それが、お互いに四十を超えた七回目の上演のとき、『やっと先輩たちの言っていた境地の入口に立てた気がするね』と握手をし合ったことを忘れません。長年の経験を経て、お互いに負けたくないという意識から、君には僕がいる。僕には君がいるという幸せと感謝に生まれ変わった瞬間だったように思います。...」

個人的には、長年名乗ってきた、勘九郎さん!八十助さん!と呼ぶ方がしっくりくる。この業界は、出世魚のごとく名を変えていく。ぶり、はまち、元はいなだの出世魚... とも言うが、二人には原点となった舞台があったという。「納涼歌舞伎」がそれである。初心忘るべからず!との世阿弥の言葉を受け継いだものと言えよう...
二月、八月は、ニッパチといって、客が入らない月とも言われるそうな。大立者といわれる役者は八月に休み、格下の役者が怪談物や本水を使った涼しい演目を見せるのが通例だったとか。二人は、この慣例を逆手にとって自分たちが芯を取って実力を養い、人気を集める公演をとうとう手に入れたという。
立役にとって三十代後半は難しい年頃、若旦那やいい脇役ではそろそろ物足らなくなり、かといって、芯を勤めるにはまだ荷が重い。芸風が微妙に変化しつつある中、円熟の下地となったのが、納涼歌舞伎だったという。八十助さんの言葉を借りれば、「八月は歌舞伎がはじめてのお客様にも愉んでいただける演目を考える」のだそうな。気さくに言葉をかけてくれる勘九郎さんの姿が目に浮かぶ... 博多座の襲名披露に来て下さったお客様はいらっしゃいますか?今日はじめて歌舞伎を観られる方はいらっしゃいますか?... こっちだって応えずにはいられない... よっ中村屋!軽い笑いで緊張感をほぐしてくれるのも、地方公演の魅力。八十助さんにしても、あの優しそうな口調でテレビ視聴者に語りかけていたのを思い出す... どうぞお気軽に観に来てくださいね!だからこそ、おいらのようなド素人でも、日本人であるからには一度は歌舞伎というものを鑑賞してみたい、と足が向く。
にもかかわらず、観客の間では、その御召し物では歌舞伎を汚すざんす!などとセレブリティどもが火花を散らす。どうやら和服の流派の争いのようだ。おいらのような門外漢は、そんなやりとりを遠目で観察する。そもそも舞台芸の真髄は滑稽芸、いわば人間観察の投影の場。なるほど、観客の側も滑稽芸を演じずにはいられないというわけか。人生とは、狂言のようなもの。猿の面をかぶれば猿になりきり、武士の面をかぶれば武士になりきり、セレブリティの面をかぶればセレブかぶれにもなれる。あとは、幸運であれば流れに乗じ、不運であれば逆境を糧とし、いかに達者に振る舞うか。いや、いかに優越感に浸れるか。人生とは、まさに滑稽芸のようなものやもしれん...

1. 血統よりも藝統
勘九郎さんは、生まれた時から様々な藝統を受け継ぐべく立場にあったという。伯父初代吉右衛門の得意とした時代物の演目、母方の祖父六代目菊五郎が五代目菊五郎から引き継いだ世話物や踊り、さらに、父方の祖父三代目歌六が上方の出身だったために上方歌舞伎の血も父十七代目が継承していたとか。幅広い歌舞伎狂言の演目を、父十七代目を通して「家の藝」として受け継ぐ宿命を追っていた。
しかしながら、宿命とは権利でもあり、恵まれた家柄ということもできるわけで、これが誇りとなる。江戸時代、幕府から公認された芝居小屋は、中村座、市村座、森田座(のちの守田座)の三座だけ。劇場の座元には所有権と興行権を与えられ、座頭役者を上回る格式を備えていく。
ただ、明治八年の十三代目引退以来、勘三郎の名跡は系譜上のみ数えられただけで、事実上途絶えていたという。中村もしほが十七代目を襲名したことで、江戸最古の座元として十八代目の意識が課せられることに。
一方、八十助さんは坂東流の重責を担ってきた家に生まれた。七代目三津五郎が子に恵まれず、八代目、九代目と養子、義子が続く。八代目は学者肌で、著書のたくさんある知識人。戦後関西で起こった「武智歌舞伎」では、武智鉄二が理論面を、八代目が実践面を担ったという。
また、九代目は、菊五郎劇団を支える脇役として一生を全うしたという。八代目、九代目と渋い脇役の三津五郎が続いたために、十代目は主役を演じる役者になることが期待されたとか。
三津五郎家は踊りの家ともいわれ、坂東流の代表的な舞踏を継承している。「傀儡師」、「寒山拾得」、「喜撰」、「道成寺」、「流星」などがその代表的な演目。だが、八代目、九代目と脇役が続いたために、家の藝と呼べる芝居は数少ないそうな。おれは捨石になってもいい!という父の思いを、八十助さん自身の言葉で語ってくれる。
母の方は、守田座の座元の家という誇りと執念を持っていたという。というのも、七代目三津五郎は十二代目守田勘弥の長男として生まれたが、三津五郎家の養子に入ったという経緯があるそうな。伝統的な脇役の家柄からの脱皮を、息子に託したということか...
しかしながら、こうした重厚な家柄で育っても、やはり若い頃は、テレビドラマや商業演劇の誘惑に負けることはあろう。どんな天才でも、どんな名人でも、目先の欲望に惑わされない人間はいない。ましてや実力を具え、すぐにでも実現できそうな場面で...
「曇りなき天分が、欲によって乱されていると感じていた。人は愛されることを強く望みすぎてはいけない。それは役者にとっても同じことだ。勘九郎は前のめりに生きていた。それは天才がはじめてあじわった苦悩だったのだろう。」

2. コクーン歌舞伎と平成中村座
伝統芸能のジレンマは、古典に斬新な解釈を打ち出せるか?という問題を抱えている。歌舞伎役者の藝は、いわば神聖化された領域。この領域を再検討し、エンタテイメントとしての演劇を見直す試みが「コクーン歌舞伎」である。回り舞台が常設されていないなど劇場機構に問題があるものの、即興性の舞台は江戸の芝居小屋をイメージしていたようである。芸能は庶民あってのもの、時代に合うものを取り入れ、古典と融合させて新たな解釈を試みながら生き残ってきた。
「歌舞伎はひとつの題材をさまざまなかたちで書き替えていく歴史である。」
尚、串田和美の演出は、歌舞伎用語で「コクーンの型」とも、「串田の型」とも言われる。
勘九郎は敏腕プロデューサーであるばかりか、敬虔な藝術至上主義者の面が同居している。仮説劇場の試みが浅草に居を定めるのではなく、どこへでも歌舞伎専用劇場を用意できる魔法の絨毯となる。
「笑いは演劇にとってもっとも有効な武器である。鑑賞するための伝統藝能であることをいったん投げ捨てて、歌舞伎になじみのない観客を存分に楽しませようとする勘九郎の意図が詰め込まれた舞台だった。」
そして、「東海道四谷怪談」の成功は平成中村座のニューヨーク公演の布石となった。評論家ベン・ブラントレーの劇評がニューヨーク・タイムズ一面に綴られる...
「歌舞伎の伝統に忠実でありながら、それを少しひねったやり方で階級、犯罪、名誉、恥といったテーマを扱い、うねうねと曲がりくねって進むこの物語は、確かに教養マニア向けとういだけではすまない作品といえる...
しかし時間がたつうちに、舞台上の竹格子の後ろにひかえた演奏者たちがかき鳴らす、切迫したように振動し瞑想的に鳴り響く弦の音が役者たちの演技を強調し、彼らの信号的な身振りやしかめた表情の下に、複雑なものが感じられるようになってくる。オープニングで騒々しく始まった滑稽な茶番劇が、いつしか、ドストエフスキーの小説の罪と恐怖の感覚を呼び起こすような、重々しい心理風景に変わっていたのだ。」
勘九郎は、ドストエフスキーと比べられたよ!と鬼の首でも取ったように喜んだそうな。歌舞伎が、現代を生きる演劇として認めれた瞬間であった...
ちなみに、納涼歌舞伎で上演された野田秀樹版「研辰の討たれ」では、こんな台詞を言わせているそうな。
「四十七人もいれば、中には今頃悔やんでいる奴もおりますよ。」

3. 襲名の重み
十七代目勘三郎が残した名言に、こういうものがあるそうな。
「歌舞伎とは、襲名と追善と見つけたり」
実力と人気がともなうから襲名できるのだが、それだけでは足らない。継ぐべく名跡が背負う家の藝の継承者として立っていく決意が求められる。襲名披露の公演では、先人たちの業績を意識し、しかも自分の進むべき道を示すよう考慮される。
三津五郎襲名時には、不思議と人柄までも温厚になる、と語ってくれる。大きく見せようと演じれば、かえって小さくなる。何もせず、自然に大きく見せることだと。賢人には、地位が人をつくると見える。だが、愚人には、地位が人を堕落へいざなう。
「ここには伝承の正しい形が残っている。教える人間が誇りを持ち、教わる人間に尊敬がある。かといって、ひとたび伝えたならば、それを二度目以降は墨守せよとはいわない。自分の自由だ...」

4. 海老蔵襲名時の弁慶代役
海老蔵の父、十二代目市川團十郎は、十九で父の十一代目を亡くしているという。團十郎家は市川宗家といわれ、誇りを高く持ちつつも、親がいないばかりに、こうべを垂れ、苦難を生きてきたことから、人格者として知られるそうな。二代目松緑、六代目歌右衛門、十七代目勘三郎らの指導を受けながら、一人で十代目海老蔵、十二代目團十郎を襲名。
そして、ようやく息子の海老蔵襲名の機会が訪れた矢先、白血病で倒れる。襲名披露公演「勧進帳」での弁慶役は、團十郎。その代役を務めたのが、三津五郎である。まったく稽古なしの代役も驚きだが、円熟期にあることの証である。團十郎は、こんな言葉をよくつぶやいていたそうな。
「日本人として大切なことを伝えたい、それは必ずしも歌舞伎でなくては、とこだわっていた訳ではない。『たまたま自分はこのような少し特殊な環境に生まれ、自分ができるのは歌舞伎を通すこと。日本で培われてきた先人たちの知恵を今こそ見直すべきだ』と常々言っていた。」

5. 踊りの家、三津五郎家の自負
「芝居には、味とか、風(ふう)とか、言いあらわしにくいものが大切だと思います。でも、踊りの場合、それらは後からくるものだと思う。」
踊りは、まずもって身体に叩き込む。極めて人為的でありながら自然と戯れるような極意とは、春風駘蕩がごとし。名人はどんなに曲がった形になっても、お尻の穴から頭の上へ、一本の棒が通っているという。どんなに激しい踊りでも、重心がぶれない、心棒から外れない。まさに、コマとは独楽と書く!
「芝居には、ストーリーがあり、共感して泣けたりとか、感情が外に出てくるものですが、本当にいい踊りを見終わった後って動けない。すごいものを見て、椅子から動けなかったことが何度かありました。芝居を見る感動と、いい踊りを見た時の感動って、種類が違う気がします。」

6. 過激な古典主義者
歌舞伎界には、こんな言葉があるそうな。
「時代に世話あり、世話に時代あり。」
歌舞伎が伝統芸能であるからには、時代物となるは至極当然。だが、どんな時代にも風俗は存在し、義理や人情もあれば、怨みや妬みの類いもあり、愛憎劇も欠かせない。だから人間喜劇として伝えられる。現代の価値観だけで歌舞伎を観ても理解が難しい。歴史を理解するということは、その時代の価値観をも飲み込むこと。そして、現代演劇として成り立たせようと試みたのが、コクーン歌舞伎であり、平成中村座であった。
しかしながら、勘三郎襲名を境に、古典主義者としての一面を露わにしたという。演劇の中心に歌舞伎があるという古き時代を、もう一度取り戻そうと尽力し始めたと。襲名の重責がそうさせたのであろうか。歌舞伎によって現代演劇をも飲み込もうとしたのだろうか。過激すぎた古典主義者だからこそ、古典を超越した創造力に駆り立てられたのやもしれん...

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