2017-09-03

"自然学" アリストテレス 著

天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。
知るには、まず観ること!ここに思考の原点がある。学ぶためには知識が前提され、この受動的な思考活動の蓄積が、やがて能動的な思考活動へと昇華させる。自由意志の覚醒とでも言おうか。
観測の歴史は、実に古い。古代人が天体観測に憑かれたのは、地上の投影に思いを馳せたからであろうか。そこには自分自身を知りたいという願望を覗かせる。つまり、人類は永遠に自己を知り得ない存在ということか。そして、本格的な観測活動が始まったのは、天体望遠鏡が進化を遂げたガリレオの時代になってからのこと。観る精度が上がれば、知識はより確かなものとなる。しかしながら、人間ってやつは、近代科学をもってしても流言に惑わされ続け、アリストテレスの迷信の時代とそれほど変わりはないようだ。
本書は、観測的な根拠がないにもかかわらず、ひたすら直観によって導かれる宇宙論の醍醐味を魅せつける。その根源的な思考原理は、人類が発明した論理学の偉大さとでもしておこうか。弁証法的な方法論の萌芽を見ているような... それは、カントやヘーゲルより二千年も昔のことである。
尚、出隆 + 岩崎允胤訳版(岩波書店)を手に取る。

「自然学」は全八巻で構成され、古くは「自然学講義」と呼称されたアリストテレスの講義集だったそうな。書として成立した時期も巻によって違うようで、七巻まではプラトンの学園「アカデメイア」にいた頃のものとされるらしい。すなわち、「リュケイオン」の設立前である。そのためか?プラトンへの批判はかなり遠慮がちで、相違点を軽く指摘している程度。イデア論に対する独自の見解を示しながらも、「われわれプラトン主義者は...」という記述もある。
議論は反駁の形で展開されるが、相手はレウキッポスやデモクリトスが唱えた原子論。これは徹底的な機械論を唱える立場で、愛や理性といったものまで否定したようである。
対してプラトンは、イデアという万物の原型のような存在を中心に据えた観念論を展開した。アリストテレスは、イデア論を批判する唯物論的な立場にあるので、むしろ機械論の方が相性が良さそうに見えるが、観念的な存在まで否定する気にはなれなかったと見える。プラトンやアリストテレスは、自然哲学が無味乾燥となっていく様を嘆き、観念論へ引き戻そうとしたのだろうか。
プラトンは、真の知識は超越的で恒常的なイデアを対象とする哲学と、これに準ずる数学のみとし、現実的な物理現象を軽視した。これに対して、アリストテレスは、もっと現実を見よ!としたのである。プラトンが普遍性を重んじ、アリストテレスが多様性を重んじたと解するのは、ちとやり過ぎであろうが、前者が理想主義者で、後者が現実主義者という見方はできそうか。冷徹なほどに虚無をまとった形而上学と、崇高なほどに成熟した科学は、よほど相性が良いと見える...

アリストテレスは、形而上学を第一の哲学とし、自然学を第二の哲学とした。しかしながら、どちらを優先したところで、双方の間には矛盾がつきまとう。唯物論と観念論とて同じこと。論理崇拝者が矛盾に遭遇すれば、動揺は隠せない。アリストテレスは、あえて動揺する自己を曝け出すことによって、人間自然論を語ろうとしたのだろうか。矛盾を前にして人間の出来ることといえば、弁証法に縋ることぐらい。しかも、そこに解が見つからなければ、双方の中間に身を委ね、中庸の哲学を模索せよ!とでも言うのか。そうかもしれん...
ちなみに、レーニンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「アリストテレスによるプラトンのイデアの批判は、観念論一般としての観念論にたいする批判である。... 或る観念論者が他の観念論を批判するとき、そのことで勝つのはつねに唯物論である。」

抽象的思考とは、自然界の合目的を知るために、目先の目的をぼかした見方とすることはできそうか。アリストテレスの運動論は、「存在」という観念的な上位概念から発していることが伺える。デカルトがそうであったように。
物理学の発展は、最も基本的な物理量としての「重力」をめぐるものであった。それは、存在する場と変化する状態、すなわち、空間と時間をめぐるもの。人間の根源的な意識が自己存在から発しており、これほど存在を意識させられる物理量が他にあろうか。にもかかわらず、女性は体重計の前では必死に存在の軽さを演じる。おいらが純情無垢な美少年だった時代、理科の先生が、真空ポンプで熱心にデモンストレーションをやっていた。どんなに重くても、どんなに軽くても、物体は同時に落ちるという実験である。先生には悪いが、おいらは懐疑的に眺めていた。ガリレオが正しいと分かってはいても、酔いどれ天の邪鬼はアリストテレスの世界で生きている。その証拠に、アルコール度数の重い方が沈むのも速い...

1.質料と形相
アリストテレスは、根源的な存在に「質料」という概念を持ち出す。物事は、素材である質料に形式を与えた時、はじめて成り立つというわけである。そして、形式化されて出現する存在に「形相」という概念を対置させる。原子構造が同じでも、DNA構造が似通っていても、形成されるものは違う。属性的な存在である質料に何かが働きかけた時、形相なるものが生じる。運動論の観点から、質料は動かされるもの、形相は動くもの。動くものはすべて何かに動かされ、さらに、動くものと動かされるものは接触していなければならないとしている。アリストテレスの時代には、真空という概念がない。近代科学をもってしても、物質や圧力が完全無の状態は見つからず、絶対真空は仮想的な状態とされ、ここにエーテル説の源泉を見る思いである。それは、受動的な知識から、能動的な自由意志なるものを覚醒させるような関係にも映る。自由意志とは、無への反発なのかもしれん...
対して、プラトンは、大や小などの属性を質料とし、基本的な唯一の存在としての形相を説いた。まずイデアという原型の存在が前提され、その変化した形である大や小、あるいは濃密や希薄といった性質の違いは、同じものだと考える。理性の原型もあれば、知性の原型もあり、様々な形で分岐した形は変質した存在に過ぎないというわけだ。こうした思考は、フラクタル幾何学や位相幾何学に通ずるものがある。
しかしながら、現実社会を見れば、もはや原型とされる理想形などというものは、欠片も残っちゃいない。質料にしても、形相にしても、おぼろげな物理量にしか見えず、真理は常にぼやけてやがる。人間社会で最も明白で明瞭なものといえば、混然たる集団そのものだ。その中に存在する一人の人間は、一つの物体か、それとも一つの霊魂か、依然釈然としない。
ただ、一つの実体ですら多様性に満ちているのは、人間だけの特質ではない。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではなかろう。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化するのは必然だというのが真の意図だと思う。法則は単純でも現象は複雑というのが真相なのだ。
とはいえ、宇宙は単純な法則に支配されているはずだ... との研究者たちの信念が科学を発展させてきた。物事を知るということは、そこに内包される原理や原因、あるいは構成要素といった本質を知り尽くすこと。こうした学問精神は、プラトンとアリストテレスで共通しており、現代科学に受け継がれる。
人生を単純化できれば、きっと幸せだろう。ただ、ある大科学者は言った... 物事はできるかぎり簡潔に、ただし簡潔すぎないように... と。理想像とする原型を崇めすぎても、はたまた、多様な現象のすべてを受け入れても、真理から遠ざかる。中間的な原理を見出すことの方に、真理に近づく道があるのかもしれない。ただし、永遠に近づくということは、永遠に到達できないことを意味する。微分学の美学とは、このもどかしさを言うのであって、ドMにはたまらない...

2. 有と無
アリストテレスは、原理は二つか三つだと言っている。原理が一つでは、あまりにも単純すぎて人間は認識能力を発揮できないであろうと。原理が多すぎれば、これまた混沌の中で認識不能に陥るであろうと。そして、「質料」「形相」という二つの原理に対して、「欠除」という第三の原理を加える。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、一対で存在するということが知る上で鍵となる。善の認識は、悪の認識によって可能となるのだ。
質料と形相は、対置関係にあっても共に有の存在で、これに欠除という無の存在を絡めて、より一層理解を高めようというわけだ。ただ、二つの有に一つの無が絡んで三つ巴となれば、三体問題のような状況になる。世間では三角関係と呼ばれる状態だ。生成するものはすべて消滅の運命を背負い、無から有が生じ、有から無が生じる関係を崩すことはできない。
では、魂の不死ってやつは、単細胞生物のような存在を言うのだろうか?一つの細胞が永遠に細胞分裂を繰り返せば、永遠に若返ることができる。人間が精神分裂症を患うのも、不死に焦がれた結果であろうか。ただ、いずれは環境に影響されて分裂は止まる。中途半端な分裂状態ほど厄介なものはない。では、DNAのような単なる分子構造ならどうであろう。受動的なままでいれば、消滅もありえないのか?永遠に存在したければ、無のままでいることか?だとすれば、死にも幸せを見い出せるかもしれない。人は、まず受動的な存在として生まれてくる。生まれることも、生まれる場所も、選べない。にもかかわらず、生き方となると、自ら支配しようとする。さらに、死との向かいた方となると、選択肢は二つしかない。必死に生きるか、必死に死ぬか。死を完全に支配しようとすれば、自殺の道ぐらいしか残されていない。天国への道は受動的でも、地獄への道は能動的なのだ。人は誕生日を祝う。死に近づくことをみんなで祝う。生とは、死の運命を背負うこと。それを知りながら。はたして、生きている自分と、死んだ自分とでは、同じ存在であろうか?
時間は、善意にも、悪意にもなりやがる。たった一分でも、地獄のように長く感じるかと思えば、一年を与えられても、天にも昇る気分のうちに一瞬で過ぎ去る。昨日はもう来ない。明日は来るかも分からない。現在に絶望すれば、未来に根拠のない希望を抱く。これが能動的な生き方なのか。過去は、片時も休まず未来を抹殺し続け、希望はすぐに絶望に変質する。すべては意識の産物か、幻想か。有限もまた無限に飲み込まれ、結局は同じことか...

3. 自然物と人工物
「自然」を理解するためには、これに対置する言葉が欲しい。世間では「人工」という言葉を当てる。人間は、自然物ではないというのか?それとも、自然から逸脱して取り返しのつかない状態とでもいうのか?この方面でのエントロピーは絶大のようである。芸術では、自然は神の代替物として描かれる。宗教では、自然の合理性から神の合目的が説かれ、あちこちに神の代弁者を名乗る者がわいてでる。人工とは、悪魔の仕業か?人間は、そうした意識を潜在的に持っているようだ。その証拠に、自然災害に対して、人災という言葉を持ち出しては有識者どもが憤慨する。もし人間が神の子だとすれば、人間が人間を抹殺にかかることの説明がつかない。
ただ、言葉の対置は、あくまでも認識能力からくる人間の都合であって、これが真理なのかは分からない。それでも、言葉からでしか学問を発展させることは叶わない。すべての知は言葉や記号で構成され、無知の知というものを自覚した時、精神のうちに何かを覚醒させることが可能となる。
そして、人間は、言葉で自問し、自己を語り、自己を崩壊させる運命にあるのか。ならば、無知のままで、そして、永遠に奴隷のままでいる方が幸せかもしれない。アリストテレスの「生まれつき奴隷説」も捨てたもんじゃない。ドMには...

4. ゼノン仮説の論駁
ユークリッド幾何学のような純粋数学を記述するには演繹法が輝き、おそらくこの思考法が王道なのだろう。しかし、人間社会を記述するには、帰納法が現実的である。前者をプラトン流だとすれば、後者はアリストテレス流とでもしておこうか。実際、本書には帰納法が鏤められる。
ただ、帰謬法となると、毛嫌いする記述も目立つ。帰謬法とは、ある命題をまず偽と仮定し、その矛盾を示すことによって命題が偽ではないことを証明する方法で、背理法と呼ぶ方が馴染みがあろうか。どうもアリストテレスは、偽を仮定することに抵抗があると見える。ニュートンが仮説を嫌ったように。それが顕著に現れる議論が、ゼノンの運動否定論に対する論駁である。それは、アキレスと亀のレースで語られる二分法の原理。そう、ゼノンのパラドックスっやつだ。
「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である。」
アリストテレスは、あらゆるパラドックスを受け入れれば、運動そのものを否定することになると指摘している。そもそも人間の存在が矛盾しており、神の合目的に照らしても説明できない。そして、矛盾が矛盾を呼び、人間そのものを否定せざるを得なくなる。ここに、論理の限界がある。人間が存在するかも怪しいとなれば、仮想社会に邁進するほかはあるまい。ちなみに、宗教があらゆる存在の意義を唱え、死後の世界を必ず用意しているのは、そうでもしないと、庶民がついて来れないという事情がある。

5. 無限の境界面をさまよう...
「万物は数である」とは、ピュタゴラスの教義である。自然数で表されるものは、すべて実存として定義できる。例えば、直角三角形の二辺を自然数で描いてみれば明白であろう。古代ギリシアで、作図問題が実存証明において重要とされたのも頷ける。有理数は、分母と分子を自然数で記述するので、実存を示している。アリストテレスは、人間が力学を観測できるのは、空間と時間の有限界においてのみだとしている。
では、無理数は記述できるだろうか?無限はどんな存在であろうか?数学は、∞ という記号を用いる。こいつは数と呼べる代物なのか?便宜上のズルではないのか?コンピュータだって無理数を近似演算で誤魔化しているではないか。無限には、永遠に吸い込まれそうな魔力を感じる。有限と無限の境界は、記述上では近くにあっても、実存となると果てしなく遠い。とはいえ、単位正方形の対角線は、どんなに目盛りを細かく切った定規を使っても、正確に長さを測定することができない。そこに、√2 という無理数が現れるからだ。しっかりと図形で描けるということは、無理数の実存性が証明できているではないか。そりゃ、数に実存性を求めたピュタゴラス教団が隠蔽するのも無理はない。
アリストテレスは、無限は実存しないとし、空虚の類いとして扱っている。しかしながら、無限までも大小関係を記述した野郎がいる。カントールは、無限の濃度を定義しやがった。そう、アレフってやつだ。数学は魔物か?これをアリストテレスが聞いたら、どう反駁するだろう?前提知識が違うだけで、賢さはこっちが上手だとでも言うだろうか?どんなに賢明な思考でも、その根源にはいつも疑問がつきまとう。ならば、答えよりも疑問の持ち方、質問の仕方の方が重要と考える方が賢明かもしれない。結果よりもそこに至る思考過程の方が重要と考える方が。ただ、過程にあるものは、不完全であることを意味する。なぁーに、心配はいらない。不完全な存在はどうせ完全には到達できない。真理の探求とは、微分学の美学を示している通り、もどかしいものらしい...

6. 深遠な真円よ!
真理が、無理数、無限、無秩序など無の側にあるとすれば、有限界に生を授かった人間にとっては絶望的である。しかしながら、有限界にも無限モデルが存在する。そう、円運動だ。幾何学が真円を崇めるのは、生に希望を持たせるためか?人間が創作意欲を持ち続けるのは、創生に限界がないこと、ひいては、自己存在が永遠であることへの願望であろうか?有限界だけでなく、無限界にも、安住の地を見い出せれば幸せになれそう...
アリストテレスは、移動を「第一の運動」とし、円運動を「第一の移動」としている。本書には「慣性」という物理用語は登場しないが、円運動のみが永遠に連続的であるしている。円運動は、時間までも凌駕する。運動方向が同じでも、角度によって状態を変え、おまけに逆戻りを必要としない。180度の移動は人格を正反対にし、360度ならば昔のまんま。始端も終端もなければ、誕生も死滅もない。この無限モデルは図形に描くことも簡単なのだから、実存することは明白だ。
ちなみに、四則演算に対して第五の演算と呼ばれるものに、モジュロ演算がある。この演算法は、幾何学的に投射すると円運動をする。しかも、四則演算をすべて可能とする深遠な演算となるのだ。モジュロ演算は、剰余演算とも呼ばれる。割り算の余りとは、数の残り物。昔の人はうまいことを言う。残り物には福がある... と。

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