2017-09-10

"幸福について - 人生論" Arthur Schopenhauer 著

「総じて賢者というものは、いつの時代の賢者でも、結局同じことを言ってきたのであり、愚者すなわち数知れぬ有象無象どもは、いつの時代にも一つのこと、つまりその逆をおこなってきたのだが、こいつは今後といえども変るまい。だからヴォルテールは言っている、『われわれはこの世をみまかるときも、この世に生れて日の目を仰いだときと同じく、愚かで悪党であることだろう』と。」

本書は「処世術箴言」の全訳で、「幸福について」という邦題は原題には見当たらない。このタイトルにやや違和感があり、また照れ臭さを感じるのは... いや胡散臭さか... いずれにせよ精神が腐っている証であろう。悪魔に魂を売り、おまけに酔いどれとくれば、それだけで愉快になれる。だから天の邪鬼なのだ。人生を論じれば、いかに楽しく、いかに幸せに過ごすか、という技術に囚われる。その意味で、人生論とは幸福の指針ということになる。
では、幸福とはなんであろう。これを冷静に客観的に捉えることは至難の業。強いて言えば、生きていないよりはまし!と言えるような人生にすることぐらい。あのお笑い芸人が言った... 生きてるだけで丸儲け!... とは、なかなかの真理をついている。現実をすべて受け入れれば、絶望論や悲観論を避けられない。それは、欲望と表裏一体に存在する情念を刺激する。こうした性向は、極めてネガティブ思考と相性がよく、精神と完全に融合してしまうと厄介だ。
「幸福は人間の一大迷妄である。蜃気楼である。が、そうは悟れないものである...」
そこで、この厭世哲学者は、悟れない人間を悟れないままに、幸せの夢を追わせたままに、救済しようというのである。それゆえ、すべての事物を諷刺とユーモアで語ることになり、著名人たちの俚諺、格言、詩文が皮肉めいた金言となって鏤められる。これら一大哲理の背後に、ペロリと舌を出す爺っちゃまの顔を想像せずにはいられない。厭世哲学者という皮肉屋の。人生論とは人生喜劇!なぁーんだ、ポジティブじゃねぇか...
尚、橋本文夫訳版(新潮文庫)を手に取る。

ところで、積極的と消極的、ポジティブ思考とネガティブ思考、これらの組み合わせで四つのパターンができる。積極的なポジティブ思考は無防備な陽気に行動を委ね、消極的なネガティブ思考は敗北主義的な態度で無条件の信仰へと誘なう。消極的なポジティブ思考は慎重すぎる上で行動を定義し、積極的なネガティブ思考は悪魔性を問い詰めた上で信念を切り開く。どれを選択するかはお好み次第、その時々の精神状態によっても違ってくる。
差し詰め、手っ取り早く幸福に浸りたければ、前の二つであろう。後ろの二つには少々困難がつきまとうが、中庸の哲学を実践するにはこの道しかあるまい。西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるアルトゥール・ショーペンハウアーは、積極的なネガティブ思考を要請してくる。そして、アリストテレスが表明した「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」という命題こそが、処世哲学の最高原則だとしている。処世術の詩人ホラティウスは、こう歌ったとか...

「中庸の美徳を愛する者は
 貧困の汚れに染まず、賢くば、
 人の羨みの邸宅の華美をも好まず。
 松高ければ嵐ますます猛り、
 山高ければ、雷(いかずち)まずこれを撃ち、
 塔高ければ倒壊の惨はなはだし。」

1. 人生の生贄
セネカは言っている、「精神活動を伴わぬ余暇は死であり、人間の生きながらの埋葬である。」と...
肉体的享楽もさることながら、精神的享楽となれば、自分を楽しむ... 自己を楽しむ... という表現がよかろう。だが、人生を楽しむ!この当たり前の事を実践することは難しい。人は誰しも、自分の存在を正当化しようとやまない。そうしなければ、生きて行くことも難しいのだ。才能ある人ならば、能力を存分に発揮し、知識をとことん突き詰め、それを謳歌することができよう。だが、凡人に何ができるというのか。
「人間の幸福は、自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある。」とは、アリストテレスの説だ。優れた人間と言えども、憂鬱質をもっているものらしい。いや、才能豊かなだけに、余計に敏感なのかもしれない。そのために、自分自身に愛想を尽かすという苦しい思いもする。他人に同情すれば惨めになるが、自分自身に同情すれば悲惨。誰しも自分以上のものの見方はできない。だから、人間は盲目と言うしかほかはない。ゲーテは言っている、「人間のこの知的無能のために、優れたものの発見はもとより稀であるが、優れたものが認識され、それ相当に評価されるのは、なおそれ以上に稀だ。」と...
幸福は、憂鬱質を克服し、いかに鈍感に生きるかにかかっているというのか。それは、凡人の得意技だ。人のせいにできれば、そりゃ楽よ。神のせいにすれば、神も本望だろう。だが、自由意志を尊重すれば、言い訳は無用だ。そして、自由との引き換えに孤独を生贄に捧げよというのか...
「ところで『悪魔には生贄を捧げよ』というのをわれわれの格言にしようではないか。言い換えれば、災難の起りうる可能性を封じるためには、労苦か時間か不便さか回りくどさか金銭か困苦欠乏か、何か或る程度の犠牲を忍ぶことを恐れぬがよい。そうすれば、未然に防いだその災難が大きかったはずであればあるほど、困苦欠乏は小さく、かすり傷程度で、本当とは思えないくらいなものになるであろう。この原則を最も明瞭に例示するのが保険料である。保険料はすべての人が公然と悪魔の祭壇に捧げる生贄である。」

2. 孤独礼賛
世間には、孤独を死のごとく忌み嫌う風潮があり、報道屋は、孤独死を最悪の不幸のように報じる。だが、人は誰しも、いつかは独りで死と向かい合わなければならない。人生の意義の一つに、死に向かう心の準備というのがある。すっかり年老いて、慌てて孤独に耐えようとしても無理な話。社交界の役割の一つにも、相対的に孤独を知るということがある。怨みや妬みが罪だというなら関係を放棄してみては... 画策や思惑が罪だというなら集団から距離を置いてみては...
とはいえ、独りの世界に篭もれば、自分自身が見えなくなる。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体には、他人を観察することによってしか、自己を観察することができない。ラ・ブリュイエールは言っている、「われわれの不快はすべて独りでいることができないということから起ってくる。」と...
孤独は、およそ優れた人間の運命的な持ち分だという。才知に富む人ならば、独りぼっちになっても、自分の能力でけっこう慰められようが、愚鈍な人々は、社交やら、娯楽やら、ひっきりなしに目移りし、死ぬほど辛い退屈をどうにも凌ぎようがない。
「人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に耐えられないからである。社交を求めるのも、異郷に赴いたり旅に出たりするのも、内面の空虚と倦怠とに駆られるためである。」
凡人には、独自の運動を自ら摘むだけの原動力が不足している。そのために、孤独に恋い焦がれれば、メフィストフェレスの囁きによって反撃を喰らう。社会を嫌い、人間を嫌い、自己嫌悪に陥り... 自虐の道をまっしぐら。この愚かさを承知しつつも、この道へ向かう衝動は抑えられない。アポロン神殿に刻まれた「汝自身を知れ!」という言葉は、いささかでも心得ておくべきであろうが...
「『愛しもせねば憎みもせぬ』という言葉にはおよそ処世術の一半が含まれている。『何も言わず何も信じない』という言葉には残りの半分が含まれている。とはいえ、こうした原則に類するものを必要ならしめるような世界には、背を向けたくなるだろう。」

3. 人間の規定
本書は、人間の根本を三つで規定している。
一つは、「人の在り方」、すなわち、品格、人柄、人物。これには、健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびに完成度も含まれ、これが最優先される。
二つは、「人の有するもの」、すなわち、あらゆる所有物。
三つは、「人の印象の与え方」、すなわち、外見、名誉、階級、思惑。
あらゆる差別意識は、人間が設けた規定から生じる。幸福と不幸の基準も。生き方そのものが、自分自身の中にあるにもかかわらず、他人との比較によってしか自分自身を発見できない。それゆえ、他人の欠点を探し、それを指摘し、自分の欠点を覆い隠そうとするのか。他人の弱点を見つけ出しては、自己優越感に浸って御満悦。他人の思考を気にせず、他人に依存せずに生きることは、よほどの修行を要する。
「内面的な富をもっていば、運命に対してさほど大きな要求はしないものである。」

4. 金銭欲
「人の有するもの」の代表に、金銭欲がある。しばしば世間では非難の的となるが、衣食住も、医療も、健康も、すべては金次第というのが現実だ。それは相対的な量で、要求と財産との比例に基づき、財産が増えれば、ますます貪欲となる。金では買えないものがある!というが、売っている所を知らないだけだろう。ちなみに、愛は買えるらしい。売人は小悪魔だという噂だ。フランクリンはこう言ったとか、言わなかったとか... お金と人間は持ちつ持たれつ。人間は贋金をつくり、金は贋の人間をつくる... と。
世間には、金を持っている人とは別に豊かな人がいる。能力によって金を稼ぐようになれば、その能力が固定資本となるものの、大きく儲かれば、自分の才能の利子だと自惚れる。精神のための自己投資は享楽のための投資へ向かい、ついに精神の自己破産を招く。貧困が身にしみた人ほど、この危険は大きいものらしい。本当の金持ちは、普段はあまり金持ちには見せないものらしい。富やら、階級やら、そんなものは芝居の中で演じている王様のようなものか。巨額な財産の持ち主より浪費癖が甚だしいのも、これまでの苦境の憂さ晴らしであろうか...
「内面の富を十分にもち、自分を慰める上に外部からほとんどあるいは全然何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福である。」

5. 名誉欲
「人の印象の与え方」の代表に、名誉欲がある。
「名誉とは、客観的に見ればわれわれの価値に対する他人の思惑、主観的にみればこの思惑に対するわれわれの畏怖の念である。」
それは、人間の本性に具わる特殊の弱みとでも言おうか、虚栄心が満たされるところの評判の類いである。人はみな、人からどのように思われているか気になってしょうがない。まさに、生まれつきの自然な不合理性!タキトゥスは言っている、「名誉欲は賢者にとっても最も放棄しがたいものだ。」と...
名誉欲は、誇りと密接に関係する。名誉は人間社会を生きていく上で非常に有益であるために、不名誉を避けようと敏感になる。集団に対する帰属意識が強いほど。集団に属す人は、集団の欠点や弱点を熟知しているために、それを改善したいと考えるだろうし、カント的な批判哲学が有効となるだろう。
「名声は名声を求める人を避け、名声を顧みぬ人に従う。」
一方、政治的な扇動では、民族的な優越を誇張しては、凡庸な人々に勇気を与え、団結を求めようとする。賞讃を貪ろうと。
「誇りのなかでも最も安っぽいのは民族的な誇りである。なぜかと言うに、民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだということが、問わず語りに暴露されているからである。」
虚栄心は自己欺瞞と相性がいいが、真の名誉は自己欺瞞と相容れない。
「虚栄心は人を饒舌にし、誇りは寡黙にする。」
芸術家たちは、永遠の生への思いを労作に込める。好きで好きでたまらなく、自然に魂を解放した中で生み出された労作でなければ、芸術は完成しないだろう。邪念は無用だ。これが、寿命を克服するってことであろうか。しかしながら、そんな人生が送れるのは、一握りの才能の持ち主の特権。ただ凡人にだって、自然の導くままにとまでは言わなくても、力まずに肩の力を抜いて生きてゆくことはできそうか。これを、崇高な気まぐれとでもしておこうか...
「最も真性な名声すなわち死後の名声は、本人の耳に達することは金輪際ないけれども、しかしその本人は幸福な人とみられる。してみれば幸福は名声を得たゆえんの優れた性質そのものにあり、またその人がこの性質を発揮する機会を掴んだこと、すなわち自分に適したとおりの行為をするか、ないし気の向く好きな仕事に従事するか、どちらかの境遇に恵まれた点にあったことになる。」

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