2017-09-17

"知性について 他四篇" Arthur Schopenhauer 著

アルトゥル・ショーペンハウアーは、「幸福について」に続いて二冊目。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、またもや嵌りそうな予感...
彼は、西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるだけあって、ここでも積極的なネガティブ思考を要請してくる。いや、皮肉屋の愚痴か。悲観主義に皮肉が混じると、奇妙なポジティブ思考へいざなう。「常に多くを学び加えつつ年老いん」とは、ソロンの言葉であったか...
尚、本書には、「哲学とその方法について」、「論理学と弁証法の余論」、「知性について」、「物自体と現象との対立に関する二三の考察」、「汎神論について」の五篇が収録され、細谷貞雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

知識をいくら詰め込んでも、知性豊かになれるわけではない。ただ、知識なくして、知性は育まれそうにない。知識は極めて客観性に近い領域にあるが、知性は、これを解釈し、理解することによって身につけていくので、極めて主観性に近い領域にあるということになる。本来、知性とは、自己を客観的な脳髄として現象化するもののはずだが...
それ故に、知性は暴走しやすいということも言えよう。歴史を振り返れば、実に多くの社会的暴走が有識者たちによって扇動されてきた。大衆は、彼らの言葉を自分の意志と解して同調する。思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。下手に知識があるために判断を誤るということはよくあることだが、それもまた主観が介在した結果である。
知性には自由意志がともなう。従って、真理の探求者は、常に自分の意志にも疑いを持つことになろうし、要請されるは、意志に奉仕する知性とでもしておこうか...
「哲学するために最初に求められる二つの要件は、第一に、心にかかるいかなる問いをも率直に問いただす勇気をもつということである。そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、あらためてはっきりと意識し、そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである。最後にまた、本格的に哲学するためには、精神が本当の閑暇をもっていなくてはならない。」

自由を謳歌するということは、自分の意志を弄ぶということであろうか。自分の居場所を自己の中にどっしりと構え、自然と戯れるがごとく意志を貫く。春風駘蕩とは、こうした奥義を言うのやもしれん...
しかしながら、凡人は集団の中に居場所を求めてやまない。孤独を寂しいものとして忌み嫌い、いびつな仲間意識を助長させ、自立や自律を妨げる。儀礼的な態度に徹しては、ひたすらグループに属すことを生き甲斐とし、奴隷根性が染み付いていく。いくら哲学書を読み漁っても、哲学者にはなれない。いくら芸術作品に触れても、芸術家にはなれない。自由を謳歌できる者は、詩人のごとく天賦にしてはじめて成しうるということか...
「自分の知性をいくらかでも純粋に客観的に使用できる人々の間の対話は、その内容がどんなに軽いものであっても、そしてただの洒落におわるようなものであっても、ともかくもすでに、精神的な力の自由な遊びになっているので、ほかの連中の対話にくらべれば、歩行に対する舞踏のような感を与える。」

1. 知性は、本当に形而上学に属すのか?
「知識欲は、普遍的なものへ向かうときには学究心と呼ばれ、個別的なものへ向かうときには好奇心と呼ばれる。」
人間の知識の限界は、例えば、ユークリッド原論が公理と公準という形で示してくれる。それは、これ以上、証明できない自明な原理に支配されるということ。カントは、認識論においてア・プリオリな概念を導入した。それは、時間と空間という直観的存在が、どんな認識原理よりも先立って認識されるということ。プラトンは、イデアという精神の原型なる存在を唱えた。だが、文明人の魂に原型を垣間見ることはできそうにない。
人間の知識は、こうした素なる存在から派生した認識能力によって組み立てられる。その素なる存在は、まさに説明不可能なものとして君臨しているわけで、ここに形而上学の本分がある。その過程では、まず身近な事象を具体的に知覚し、やがて抽象的に捉えようという意識へ変化していく。個別的な意識から普遍的な意識への昇華とでも言おうか。
客観的に説明できないものが存在すれば、もはや主観に頼るしかない。不可知なものを主観で語るということは、独り善がりな議論ともなり、知性は極めて経験的となる。ショーペンハウアーは、哲学が対象とするところは経験であるとし、その意味で、こうも言っている。
「知性は形而下的であって、形而上的ではない、と言うこともできよう。」

2. 合理主義と照明主義
あらゆる時代の自然哲学は、合理主義と照明主義の狭間で揺れ動いてきた。時には、カント式批判原理によって、時には、ヘーゲル流弁証法によって。人間の解釈能力は、恐るべきものがある。なにしろ普遍的な真理を、俗的で特殊な真理もどきに変えてしまうのだから。どうやっても答えの見つからない事象と対峙すれば、客観性を崇める者は懐疑主義や批判主義に走り、主観性を崇める者は宗教に魂を売る。精神を語ろうとすれば、合理主義から逸脱し、超越的な仮説の領域に踏み込む。
だが、宇宙の本質を知らぬ人間どもが精神の本質を語れるはずもなく、形而上学は信仰の領域に踏み込まざるをえない。ならば、何事にも批判的な態度で立ち向かうことにも、ある程度の合理性を見出すことはできよう。実際、議会における野党のごとく、ただ批判するだけでも、ある種の真理を含んでいることもある。たまには...
ショーペンハウアーは、単に利口なだけなら懐疑家の資格にはなろうが、哲学者の資格にはならない、と言っている。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼に与えられる資格とは、皮肉屋になって自己陶酔することぐらい。そして、おいらの耳に、この言葉が嫌みに聞こえる...
「とのような時にせよ、異を立てようという気になるな。無知の人々と争えば、賢者も無知に沈むのだから。」... ゲーテ「西東詩集」箴言の書二七番

3. 時間と空間の観念性
カントが唱えた「時間の観念性」は、既に力学で説かれた「慣性の法則」の中に含まれているという。時間は物理量というより、認識主観から発現するものであると。時間の観念性については、古代の哲学者たちも仄めかしてきた。プラトンは「時間は、永遠の動く影」と表現し、スコラ学派は「永遠性は時間の終わりなき継続ではなく、恒常の今である」と言明し、スピノザは率直に「時間は事物の状態ではなく、思惟の様態にすぎない」と語ったとか。この酔いどれ天の邪鬼ですら... 時間は認識の産物に過ぎない!... といったことは言えるのである。永遠性は、その性質上、時間の反対ということもできよう。ショーペンハウアーは、こう言っている。
「永遠が存在しなければ、時間もありえない。いな、われわれの知性が時間を生じうるのは、われわれ自身が永遠の中に立っているからにほかならない。」
時間の観念性が自己存在を想定する上で重要であることは明らかだ。ただ、もう一つ重要な概念に空間の観念性がある。おそらく空間を想定せずに、あらゆる存在を認識することはできまい。もちろん、それがユークリッド空間である必要はない。脳内に構築できる想像可能な思考の次元空間であれば、なんでもありだ。そして、あらゆる事象に対する認識は、時間と空間に支えられた副次的な偶有的な現象にすぎない、ということは言えそうである。
では、空虚とはどんな空間あろうか?時間の観念を失うだけなら精神病患者に見て取れるが、空間の観念をも失えば、もはや人間ではなくなるのだろうか?
ところで、人間の本質的に具わるもの、根源的な思考をもたらすもの、それは意志の存在だという。空間と時間の次にくる観念性は意志ということか。ならば、意志の解放こそが、哲学に求められる資質ということになりそうだ。直観的な認識から知識を汲み取り、自然、世界、人生を直視し、自己の思想原典としていく。それが、自己実現ってやつか。自然と現実は、けして欺かない。無知を自覚してはじめて自然の導きに素直に応じることができる。子供が最も素朴な哲学者!と言われる所以だ。しかしながら、大人になればなるほど知識は歪められ、自ら道化を演じてやがる...

「われわれ自然の道化どもが
 われわれの心には及びえぬ思想で
 かくも怖ろしくわが身をゆさぶる」... シェークスピア

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