2018-02-18

"ゲーテとの対話(上/中/下)" Johann Peter Eckermann 著

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ... この文豪について語り始めると、かっぱえびせん状態になり、一晩中、酒を酌み交わしても足らない。義務教育時代、すっかり文学嫌いにされたものの、この酔いどれ天の邪鬼を救ってくれた作家の一人。ファウスト博士ときたら実に珍しい個性の持ち主なものだから、内面を追感することは困難ときた。では、メフィストフェレスの方はどうだろう。皮肉な言葉のおかげで偉大な人間世界を忠実に再現しているではないか。メフィストフェレスこそ救世主!真理を語ってくれるのは、やはり悪魔であったか...
ただ、自分の生涯をかけてまで一人の人物に夢中になれるヨハン・ペーター・エッカーマンという人には感服してしまう。同時代を生きたという幸運に恵まれたこともあろう。ゲーテの書き手としてのパワーは、晩年になって衰えるどころか、却ってキレてやがる。なにしろ七十を過ぎて二十歳前の小娘に求婚するほどの情熱漢、偉大な生気の持ち主。彼の生に対する執念と行動力は、見習わずにはいられない。さっそくマリーエンバートへ直行し、ゲーテと饗宴だ。ちなみに、おいらは「マリーエンバート」を「夜の社交場」と訳すのであった...

ゲーテの作品に触れるにしても、翻訳者の力を借りる。おいらの語学力では、原語で味わうには辛すぎる。それでもなお詩的な文体に魅せられるとは、どういうわけか?原文の美しさに、訳文が釣られるのだろうか?作品の偉大さが、翻訳者を自然に導くのだろうか?もし普遍的な精神なるものがあるとすれば、普遍的な言語のリズムというものがあるのだろう。
しかしながら、言葉は災いを呼ぶもの。ゲーテとて例外ではなく、やはり悪口を言う評論家たちの餌食となってきた。大きな論争では、ニュートン力学とヘーゲル弁証論の二つを挙げておこう。
ニュートンの科学的立場に対しては、人間精神の存在の解釈において大きな誤謬になると指摘している。ゲーテの「色彩論」は、生理的色彩を直観的演繹法によって綴ったもので、ある種の主観的なプリズム実験であり、単に現象として捉えたニュートンの「光学」とは一線を画すというわけである。
ヘーゲルの思考法は、誰の心にも宿る矛盾を法則化し方法論としたもので、これに対しては、偽を真とし、真を偽とするために精神の技術や有能性がみだりに悪用されるとしている。
本書に見られる弁明風の言葉は論争というほどの調子ではないが、面白おかしく書きたてる新聞屋が煽っているということはあるだろう。
「まず第一に無知ゆえの敵がいる。私を理解せず、無知ゆえに私を非難する連中だ... けれども、この手合は自分のやっていることの意味を知らないのだから、まだ許すこともできよう。
つぎに、数の上で多勢いるのが、嫉妬する連中だ。私の名声にけちをつけて破滅させようと躍起になっている...
つづいては、自分の成功がたいしたものでなかったので、敵にまわった連中がいる。私のせいで冷飯を食わされる羽目におちいったといって、憎んでいる...
第四には、しかるべき理由があって敵にまわった連中がいる。私も人間である以上、欠点や弱点を持っているから、書いたものにそれが現れざるをえない...」

1. エンテレヒーとデモーニッシュ
ゲーテは、精神現象における生気を語る上で「エンテレヒー」という用語を持ち出す。自然は、エンテレヒーなくして活動できないと。自己を偉大なエンテレヒーならしめよと。エンテレヒーこそ生産性や創造性の源、偉大な創意の源泉というわけである。ここに精神のエントロピーのようなものを感じるのは気のせいであろうか...
また、「デモーニッシュ」という用語を持ち出す。宇宙や人生の謎、悟性や理性では解き明かせないものという意味で。ナポレオン、フリードリヒ大王、ピョートル大帝などの天才的傾向は、これに属すという。
無意識に高次な努力を続ける幸福者、神がかった才能や理念の乗り移った無限の奉仕者、こういう人たちには世間の煩わしい言葉が耳に入らないものらしい。自然の言葉しか耳に入らず、だから安心して衝動に身を委ねられる。祈ったり、信じたりする必要もなく、感謝するのみ。ましてや神に見返りを求めるなど。自分の職に使命感が与えられれば幸せであろう。ラファエロも、モーツァルトも、シェークスピアも、きっとそうした類いの人間だったのだろう。
「優秀な人物のなかには、何事も即席ではできず、何事もおざなりに済ますことができず、いつも一つ一つの対象をじっくりと深く追求せずにはいられない性質の持主がいるものだ。このような才能というものは、しばしばわれわれにじれったい気を起させる。すぐさまほしいとねがうものを、彼らはめったにみたしてはくれないからだね。けれども、こういう方法でこそ、最高のものがやりとげられるのだよ。」

さて、これらの用語に「直観」という語を当ててみると、カントとの親和性が見えてくる。カントの三大批判書もまた偉大な直観を唱えたもので、酔いどれ天の邪鬼は、これを「崇高な気まぐれ」と呼んでいる。
ニュートンやヘーゲルが客観性に重きを置いたのに対して、カントやゲーテが主観性、すなわち直観に重きを置いたという見方はできそうだが、そう単純ではあるまい。いずれにせよ、双方の立場は補完関係にあるということ。文学作品としての面白さは、後者の側にあるのは確かだけど。
ただ、ニュートンから科学全盛の時代へと向かい、後にヒルベルト問題が掲げられ、宇宙や人間社会のすべてが科学や数学で説明できると豪語された時代へ向かいつつあった。そんな時流に、ゲーテやカントのような直観を重んじる立場が攻撃されるのも、仕方がないのかもしれない。カントは理性批判を書いた。次に誰かが感性批判と悟性批判を書くことになるだろう。かつて、ゲーテはカントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えているのだ... と。この言葉を、そっくりゲーテ老翁に捧げたい...

2. 書き手と読み手
ところで、読書というものは不思議なものである。一旦、こいつの虜になると、いくら読んでも足らない。満腹感というものがまるで得られないのだ。そして、次の作品にいっそうの期待をこめ、まったく贅沢を助長しやがる。
ただ、その贅沢を得んがために、ますます古典へ向かうとは、どういうわけか?現代が枯渇しているというのか?それとも、童心に帰りたいという潜在意識でもあるのか?いや、プラトンの言うイデア回帰のようなものかもしれない。権威的な一神教の神を強要すれば、多神教の時代を懐かしみ、ギリシア・ローマ文化へと古代回帰する。ルネサンスがそれだ。万物は回帰する... というのは本当らしい。いくら生に執着したところで、いずれ死に帰する。人生行路とは、原点回帰をめぐる巡礼の旅のようなものであろうか。いや、過去に絶望すれば、未来に根拠のない希望を抱く。つまりは、現実逃避というだけのことよ...
作家たちは、何を書こうとしているのだろう。既にホメロスが、アキレウスとオデュッセウスという最も勇敢な者と最も賢明な者については書いてしまったし、過去の偉人たちが、精神を描き尽くしてしまったではないか。後に遺された仕事とは?小説家たちは、偉大な心理学者でもある。精神というものが完全に説明できないばかりか、その存在すら疑わしいとくれば、いくらでも書けるという寸法よ。
小説家たちは精神に内包される矛盾と対峙し、多重人格性を体現し、精神分析のために自己からの幽体離脱をも厭わない。書いてるものが自我と調和できれば幸運であろう。だが、自我との対決は危険だ。下手すると、自己を抹殺にかかる衝動に駆られる。自分でこしらえたものに惑わされ、ゲーテとてメフィストフェレスに憑かれる。穏健な自由主義者が求めるものは自然療法か。主義主張という現代病を患わせなければ、書くものもなくなるであろうに...
「本物の自由主義者は、自分の使いこなせる手段によって、いつもできる範囲で、良いことを実行しようとするものだ。必要悪を、力づくですぐに根絶しようとはしない。賢明な進歩を通じて、少しずつ社会の欠陥を取り除こうとする。暴力的な方法によって、同時に同量の良いことを駄目にするようなことはしない。このつねに不完全な世界においては、時と状況に恵まれて、より良いものを獲得できるまで、ある程度の善で満足するのだよ。」

では、読者の方はどうであろう。
多くの作品を読み散らかして、ようやく総括された何かが読み取れそうな気がする程度で、すべての言葉から含蓄を読み取ろうなど無理な話。病的なほどの作品の群れが押し寄せれば、読者もまた狂わされる。書き手の独創性には、まったくまいる。読み手を無力にするだけでなく、その無力感がたまらないときた。おいらは、M だし。
玄人の書き手がド素人の読み手に高みに昇って来いと仕掛けてくれば、ディレッタント魂を呼び覚まさずにはいられない。これぞ至福の時間!酔いどれ天の邪鬼ときたら、本と BGM があれば、たいてい事足りる。おっと、それと熟成された酒だ。実は、こうした空間が最も贅沢なのやもしれん...
「自由とは不思議なものだ。足るを知り、分に案んじることを知ってさえいれば、誰だってたやすく十分な自由を手に入れられる。いくら自由がありあまるほどあったところで、使えなければ何の役に立つだろう!...
誰でも健康にくらせて、自分の職にいそしむだけの自由さえあれば、それで十分なのだ...
われわれは自分の上にあるものをすべて認めようとしないことで、自由になれるのではなく、自分の上にあるものに敬意を払うことでこそ、自由になる。なぜなら、自分の上にあるものを尊敬することで、自分をそこまで高め、上にあるものの価値をみとめることで、自分自身がいっそう高いものを身につけ、それと同じものになる価値があることをはっきりとあらわすからなのだ。」

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