2018-02-25

"一外交官の見た明治維新(上/下)" Ernest Mason Satow 著

十九世紀末から二十世紀初頭、アーネスト・サトウは大英帝国の極東政策における主導的外交官として知られる。サトウというのは日本ではありふれた名だが、日系人ではない。ドイツ東部出身なのでドイツ人ということになりそうだが、当時はスウェーデン領にあって、出生時の国籍はスウェーデン人ということになるらしい。
とはいえ、ナポレオン興亡時代に幼少期を過ごし、地図の色の変わるがままに、スウェーデン人、ドイツ人、フランス人、ロシア人へと転身、そしてロンドンに定住、しかもソルブ系(スラブ系)である。彼にとって国籍という概念は、あまり意味がないのかもしれない。また、貿易商の家の出ということもあり、時代の趨勢や世界の情勢に目を向ける下地が自然に育まれたようである。

さて、明治維新とは、どんな革命だったのだろう...
日本では英雄伝説として語られがちだが、革命ってやつは極めて国家論に陶酔した社会で起こりやすい。案の定、日本国内は攘夷論と開国論で割れた。開国論に対抗するのは鎖国論のはずだが、これを通り過ぎて「夷狄追放」を合言葉とし、幕府が頼りないとなれば、これに尊王論が加わり、一気に倒幕論へ傾く。世論の不満を徳川家が一身に受け止め、最後に会津藩が尻拭いという構図である。
そして、官軍が進軍した先に何があるというのか...
これが一番重要なのだが、いつの時代でも急進派は穏健派の要人までも抹殺してしまう。そんなナショナリズムの傾向を強める時代では、外国人の目というより、国籍という帰属意識の薄い人物によって綴られる回想録は特に興味深い。このような文献が日英同盟への布石となった... と解するのは行き過ぎであろうか。結果論かもしれんが...

この書は、太平洋戦争終戦前二十五年もの間、日本では禁書とされてきたそうな。こっそりと非売品で配布された経緯はあるらしいが、検閲にひっかかって全章がそっくり抹殺されたりと、「鬼畜米英」が標語となっていた時代である。
数々の事件に巻き込まれ、斬首刑や腹切などの場面も盛り沢山。自ら身の危険を晒しながらも、機知に富んだ奇行や紅毛膝栗毛なユーモラス。当時の日本社会の人情や風情を垣間見る思いである。人生の成功とは、筆を優しくさせるものらしい...
尚、坂田精一訳版(岩波文庫)を手にする。

1. 開国と治外法権
サトウが日本へ赴任した1862年、ペリー提督に始まった対日貿易におけるアメリカの主導権は、すでに資本主義の先進国イギリスに移っていた。彼は横浜港に到着すると、いきなり生麦事件を目の当たりにする。他にも、鎌倉事件、長崎の水兵殺害事件、備前事件、堺事件、さらに、サトウ自身も襲撃を受けた経験が綴られ、文化摩擦によって実に多くの外国人が死傷した様子を物語る。
相手が外国人であろうと無礼があれば、武士には特権がある。切捨御免!これに攘夷思想が結びつけば、役人も見て見ぬふり。当初、外国人たちは日本人の残虐行為に接しては理解に苦しみ、日本固有の頑冥な世界観と野蛮な風習のせいだと考えたようである。
そして、外交交渉や通商条約で必ず持ち出されるのが「治外法権」という概念。法とは、慣習との結びつきが強いものであり、誤解が元で法律に触れることも度々ある。法的な駆け引きにおいて自由と平等が天秤にかけられ、先方の法律で自由な活動が制限されるのは御免蒙る。だが、外交上の法的な温床も微妙に変質し、犯罪者を保護する方向に働く場合もある。今日、問題が取り沙汰される日米地位協定もその類い。客人の安全保障という意味では同じことか。犯罪に関しては、人間である以上、各国でお互い様といえばそうなのだが...
集団社会において、よそ者との摩擦、すなわち縄張り意識が絡んだ時にはデリケートな問題となる。現在でも、グローバリズムが急進すれば、却ってナショナリズムを旺盛にさせ、排外主義ならぬ廃絶主義と化す。古代ギリシア人がバルバロイと呼べば、ナポレオン時代にはバーバリアンと呼び、徐々に夷狄や野蛮といった蔑視のニュアンスを帯びてくる。民族優越主義もこの類い。西洋人から見れば、世界地図の隅っこに住む蛮族だし、日本人から見れば、やはり蛮族なのである。
外国人の中には、わざわざ遠くからやってきた客人という意識を持った者もいるだろう。当初、礼儀作法や挨拶などから、無礼、憤慨という形で現れる。特に形式を重んじる公家や武家の社会では、面子こそ命。おまけに、侍は威信をまとっており、庶民と接する方が自然に振る舞えたと見える。
そして、文化の摩擦は、法律の摩擦という形で露わになる。開国、すなわち、自由貿易を認めるということは、治外法権の議論を避けられないことを意味する。

2. ヨーロッパの掃溜め... 横浜
16世紀半ば、日本はすでにヨーロッパと自由に貿易をしていた。ポルトガルの宣教師が九州で歓迎され、オランダ、スペイン、イギリスがこれに続いたが、秀吉によるキリシタン迫害から徳川幕府による鎖国政策によって、長崎だけが特別な地となった。サトウが赴任してきた時は、安政の条約で外国貿易のために港を開いて、もう三年が経っていたが、長崎は進んだ町だったようである。
一方、神奈川は条約によって最初に西洋人の居留地に定められた東海道の要所だが、横浜は商業都市としてはまだ未熟な地だったようで、商売に無知な山師連中が溢れ、約束の破棄や詐欺は珍しくなかったという。生糸に砂が混じっていたり、重い紙紐で結わえてあったり... 税関の役人が賄賂を要求すれば、西洋人も負けじと巧みに振る舞って役人のおこぼれを頂戴したり... まったく時代劇で見かける、お代官様!の世界。横浜在住の外国人社会を「ヨーロッパの掃溜め」と称したという。サトウが、いきなり生麦の地で事件に遭遇したことも、こうした背景との関係が見えてくる。犯人探しをめぐっては、なかなか役人が本気になってくれず、苛立ちを隠せない。
「日本語には定冠詞というものがなく、英語では、"The treaties are sanctioned." というのと、単に、"Treaties are sanctioned." というのではひじょうに大きな差異があるが、日本語では両方とも同じ表現の形式をとるからである。そして、私たちは、大君の閣老がわれわれをペテンにかけて、時間をかせぐために、責任のがれのあいまいな用語を使用しようとは、全く思いも及ばなかったのである。」

3. 薩摩と長州、攘夷論から開国論へ
将軍配下の武家支配は、中世ドイツの国情に似ているという。王侯の乱立した政体である。伊藤俊輔(後の博文)は、こう語ったという。
「大名がみな勝手に助力の手を差し控えたり、各藩の大名がまちまちの流儀で軍隊の教練をやったりするのを放任するかぎり、日本は強国にはなり得ない。北ドイツ連邦で、その実例が繰りかえされた。弱小な諸侯は、より強大な者に併合されるほかはないのだ。」
日本は島国ということもあり、今まで外国からの侵入の恐れがなかったために、強力な中央集権国家の必要性がない。おまけに、蒙古襲来の危機に際しては神風伝説が生まれた。
徳川時代には、譜代大名が外様大名の監視役として配置される形式が顕著となる。参勤交代や大名行列は、特に遠方の、とりわけ九州の大名連には顰蹙を買った制度である。何かと難癖をつけては、お家断絶へ追い込む空気が漂う。やがて、外国からの圧力が譜代も外様もないという意識を強めていく。ここに廃藩置県の意義がある。
とはいえ、倒幕の先鋒役を演じた薩摩藩や長州藩にしても、当初は攘夷論が旺盛であったようである。生麦事件では、島津家の行列に遭遇して乗馬したままのイギリス人を、薩摩藩士たちが殺傷。イギリスは補償を求めて艦隊を派遣し、鹿児島の街を砲撃した。薩英戦争である。町を破壊された薩摩藩は、攘夷決行がいかに無謀であるかを知り、一転してイギリスとの親善を図る。
これと同様の意識変化が、長州藩でも起こる。攘夷論の先鋒に下関海峡航行中の外国船を砲撃した。下関戦争である。英、仏、米、蘭の四ヶ国連合艦隊の砲撃はひとたまりもなく、長州藩もまた攘夷決行の無謀を知る。
そして、開国思想へと傾くと、京の都で反目しあった薩摩と長州が手を組み、倒幕論で一致していく。だからといって、攘夷論が完全に失せたわけではあるまい。とりあえず列強国と仲良くし、富国強兵の道を探るといった穏健な攘夷論がくすぶる。
では、幕府の方針はどうであったのか?ペリー提督の圧力で、最初に開国論へ向かったのは、むしろ幕府の方である。幕府が主権者であれば、各藩の面子を考慮しなければならない。特に、御三家への配慮を。水戸藩は、京都の攘夷派と結んで、幕府を仇敵視していたという。実際、桜田門外の変で条約締結の責任者である大老井伊直弼を暗殺したのは、水戸の浪士。1867年、徳川慶喜は、内乱勃発の懸念から自ら将軍職を退いた。大政奉還である。天皇を主権者とした強力な国家を建設する必要性は、徳川家も認識していた。
しかしながら、徳川家が存続すれば、廃藩置県にまで及ばない。それは、徳川幕府が豊臣家の存続を許さなかったことと酷似している。
また、世間では「幕府は二股政策をやっている」という噂が広まっていたようである。幕府は大名と外国の板挟みになって、双方に矛盾した言質を与えていたというもので、将軍が大名に外国人追放の命を下したというのである。あるいは、外国人追放の命の根源は、朝廷にあるかもしれない。日本社会には、天子様には逆らえないという論理が、正義の旗で巧みに利用されてきた歴史がある。真相は不明だが、政変時には諜報活動も盛んで、様々な情報が錯綜するもの。
「当時外国人の間では、名分上の君主という単なる名目中に存在する無限の権威についてはまだ全く思い及ばなかったし、また外国人の有した日本史の知識では、日本の内乱の場合に天皇(ミカド)の身柄と神器を擁することのできた側に常に勝利が帰したという事実がまだわからなかったからだ。おそらく、世界のどの国にも、日本の歴代の皇帝(エンペラー)ほど確固不動の基礎に立つ皇位についた元首は決してなかったろう。」

4. 惚れ薬には佐渡の土
日本の諺に、「惚れ薬には佐渡の土」というのがあるそうな。黄金の国ジパングの名を伝えたのはマルコポーロの「東方見聞録」で、佐渡の金山については外国人たちも見逃せなかったと見える。
そして、七尾は、加賀、越中、能登に三国に渡る良港の地であり、貿易港の候補地として目をつける。この地は加賀藩の支配下にあるが、幕府が外国貿易のために召し上げようとすれば、加賀藩士たちも警戒して外国人たちに対して曖昧な返事に徹する。いくら自由貿易を唱えても、どうせ利益は幕府が独占しちまうのさ... などと人足たちの愚痴まで聞こえてきそう。海外貿易に対する権益をめぐっては、目の上のたんこぶは幕府という空気が、藩士だけでなく、庶民にまで漂っている。
正義を掲げるには、誰かを悪者にするやり方が手っ取り早いわけだが、これに各国の思惑も絡み、海外商社が暗躍する。幕府側に肩入れする者あり、新興勢力に肩入れする者あり。偽文書の類いも横行。どっちにせよ、勝てば官軍!正義の御旗ってやつは、後ろめたさをなくさせ、相手を合法的に抹殺する法則とさせる...
「かつてイギリスはパークス以上に献身的な公僕を代表として派遣したことがなかったということ、そして日本自身としても、パークスのおかげを被っており、日本はこれに報いることができず、また充分にパークスの努力を認めてさえもいないということを知る必要がある。もし、彼が1868年の革命の際に別の側(幕府側)に立っていたならば、あるいは、彼が多数の公使仲間と一緒に単純な行動に組していたならば、王政復古の途上にいかんともなし難い障害が起こって、あのように早く内乱が終熄することは不可能だったであろう。」

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