2018-11-25

"ゆたかな社会" John Kenneth Galbraith 著

身長 2 メートルを超える経済学の巨人ジョン・ケネス・ガルブレイス。この書の立ち位置が異端とはとても思えないが、彼自身はそう言っている。不確実な世界を論じれば、時代的な欠点が含まれるのも仕方があるまい。人間社会を問うた学問において、すべての現象を完全に説明できた学派は、いまだかつて存在しないのだから。ただ、異端と聞くと天の邪鬼の性癖がうずく。
ガルブレイスは、経済学的思考に疑問を投げかける。労働に明け暮れた古典的な生活から脱皮し、人生を謳歌する生活へ転換されつつある時代に、なにゆえ所得を最大限にするような議論を続けるのか?と。財貨はますます豊富になり、緊要性が低下しているというのに。彼は、ゆたかさの指標を誤れば、ゆたかさ自体を脅かすと警告する。いまや人生の意義を求めるような進歩の設計ができていると。それは教育であり、教育のあり方である。
とはいえ、人間社会には、働かざる者食うべからず... という風潮がいまだ根強い。経済的なゆたかさとは、金の使い道を心得ているということであろうか。それは、自己投資、自己啓発、そして自己実現への道。投資が経済循環の原動力であるという考えは変わらないにしても、従来の物的資本から真の意味での人的資本へ比重を移すべきだというわけである。どうやら経済学理論の陳腐化は、ゆたかさの度合いに比例するらしい...
尚、鈴木哲太郎訳版(岩波現代文庫)を手に取る。
「私はあえていうが、ここで述べた思想は、むしろ専門外の読者にとって、もっともで合理的と思われるのではなかろうか。
... しかし通念体系の高級な上層部では、このような目標は極度に望ましくないと思われるであろう。専門的な経済学者のうち高名だが鈍感な人たちまでもがこの反対論に加わっているのは遺憾なことである。」

原書の初版が刊行されたのは、1958年。いくつか改訂を繰り返し、本書は四十周年記念版に当たる。ガルブレイスの「ゆたかさ」という経済指標の考えには、執念のようなものを感じる。経済学が本格的に稼働を始めたスミス、リカード、マルサス、ミルの時代、価値の指標はもっぱらい生産に向けられ、それは貧困モデルから出発した一学科であった。人類の歴史を紐解けば、その大部分は貧困の歴史である。大衆が富を獲得するようになったのは、封建社会から解放され、資本主義や自由主義が生起する近代社会になってからのこと。
貧困や困窮をテーマにすれば、陰気な学問とあだ名される。リカードが貧乏は避けえない現象と論じれば、マルサスは喰える人間の数を論じ、やはり暗いイメージがつきまとう。マルクスの目には、政府はブルジョアジーの手先にでも見えたか。労働者を産業予備軍のごとく言い放ち、階級闘争を煽る。マルクス主義者の宗教性は常軌を逸しており、反対論者は誤っているばかりでなく罪人扱い、異端者は道徳的にも否定される。
ただ、ガルブレイスのマルクスの見方は少々違うようである。マルクスは、マルクス主義者にも、反マルクス主義者にも誤解されているという。当時のイメージは、経済学者の代表であるリカードは冷血な株屋の傍観者、対して、マルクスは熱血漢の正義漢。つまりは、労働者の代表である。失業率の増減、すなわち産業予備軍の存在が、経営に柔軟性を与え、企業体を安定化させるのは確かである。マルクスは、社会階級、経済行動、国家の本質、帝国主義、戦争などを体系化し、経済学というより社会科学として確立した。その業績はあまりにも偉大すぎて、マルクス主義者はこれを信仰するしかなかったということであろうか。
マルクスという人物は、この酔いどれ天の邪鬼にとっても、なんとなく気になる存在ではある。これほど影響力を持った偉人はいないと、世間が言うものだから。ただ、「資本論」という大作にはいまいち踏み込めないでいる。「資本論」の序説に当たる「経済学批判」に触れた時はなかなかのものだと感じ入ったものだが、「共産党宣言」に触れた途端に距離を置きたくなる。万国のプロレタリア団結せよ!... などと叫ばれた日にゃ。これも、ガルブレイスの指摘する誤解であろうか...

一方で、陰気とは言えない事例も多々見られる。スミスが大著「諸国民の富の性質と原因に関する研究」と題したのは、彼が富に希望を持つ楽観主義者という見方もできよう。陰気な部類とされるリカードにしても、おいらが「比較優位論」に出会った時は、まるで経済学の相対性理論と、この明るい説に感服したものである。なにしろ、自由貿易の力学が単純な国力差だけでは機能しないことを示し、弱小国にも得意分野があれば生き残れる希望を与えているのだから。
そして現在、生産量の指標に多少の改善がなされたものの、消費量や需要量などの指数と絡めて議論される。政治家のお好きなケインズ的財政政策は、生産物に対する総需要が経済の総生産を決定するという考えが中心にある。政策立案者は相も変わらず、設備投資や物価指数、あるいは公共投資といった計測可能な指標に目を向けるばかりか、消費を煽る方策しか打ち出せないでいる。反対論者は反対論者で、インフレ論やマネタリズムの金融政策を旺盛にしていく。そりや、「生産こそ社会の進歩の公認の尺度」と皮肉られても仕方があるまい...

しかしながら、経済学という学問は、測定不可能な目線で存在しうるのだろうか?個人的には、経済学は社会学に属す一学科として捉え、その意義の一つは社会学に数学的な視点を与えることだと思っている。だが実際の経済学は、社会学からますます乖離していくように映る。
そこで、ガルブレイスは「ゆたかさ」という指標を提案してくれるが、数値的な度合いや段階的なレベルまでは踏み込んでいない。
また、生産過程で生じる不平等や既得利益、貨幣への幻想や社会への不安、さらには社会保障から安全保障に至るまで、依存効果の観点から論じている。依存効果とは、「欲望は欲望を満足させる過程に依存する」というもの。
こうした見方は行動経済学の領域にあるが、人間の依存症は生産や消費に絡む問題だけでなく、むしろ生理的な問題であろう。人生の意義を求めて知識に執着すれば、やはり知識依存症となる。おそらく哲学者という人種は真理依存症なのであろう。金銭依存症や権威依存症よりはましか。
人間の満足には二つある。他人がどうであろうと自分自身が欲する絶対的な満足と、何かを得ることで他人よりも優越できる相対的な満足。人間ってやつは、なにかを心の拠り所にし、なにかに依存しなければ生きてはいけない存在である。
したがって、ゆたかな社会とは、より高度な依存社会ということになりそうだ。ガルブレイスは、社会がゆたかになれば余裕ができ、ゆたかさの恩恵にあずかれない人々も救われると楽観視していたのか、現実はそうではなかったことを嘆く。現実社会は欲望が欲望を呼ぶ世界で、依然として何百万、何千万もの飢えた人々がいる。ゆたかな社会だから福祉が拡大するという仮説は妥当しない。実際、助成金の類いはタカリ屋を蔓延らせる。
それでもなお、「ゆたかさ」という指標に希望を持ち続けたのは、陰気な学問を陽気な学問へ変えようとしたのだろうか。現在、この路線を継承するかのように、「幸福度」といった尺度があるにはあるが、科学的な信憑性も疑わしいし、却って政治利用されてもかなわん。そうした指標は改善の余地が大いにあるにせよ、現時点で経済学の主流に取り込まれていないことは、まだしも健全かもしれない。
とはいえ、ゆたかさの度合いによって貨幣の存在感は変わるだろうし、何に価値を求めるかの多様性はますます広がるだろう。ゆたか過ぎても、貧困過ぎても、どちらも不幸な社会になりそうだ。前者は問題が分かっていないから誤った解決策しか施せないでいるし、後者は問題が分かっていても手の施しようがない。ゆたかさの温床が人口減少へ向かわせるのか。ロボットや AI が肩代わりすれば、労働人口を必要としなくなる。それは、人間不要論の布石か... などと言えば、経済学に失望し、陰気な学問に引き戻される。救いは、ガルブレイスが四十周年という記念碑的行為に対して語ってくれる。やはり学問は陽気でなくっちゃ...
「長い年月が経ったあとで自分の書いたものを再検討することは、決して不愉快な仕事ではない。人は自分自身の労作の同情的な批判者である。正しいとわかったことから得られる喜びは、間違っていたと判明したことについての後悔より、常に大きい。」

2018-11-18

"推測と反駁 - 科学的知識の発展" Karl R. Popper 著

先日、知的自伝「果てしなき探求」では、いかにして批判的合理主義に至ったか、その思考プロセスを味わわせてくれた。ここでは、「過誤から学びうる」という命題を提起してくれる。世間でよく言われる「失敗から学ぶ」という試行錯誤法の応用例といったところか。それは、正しく問うことの難しさを暗示している。
人はみな、何かに依存しなければ生きてはいけない。ならば、何に依存して生きていくか。知識依存というのも悪くない。過誤を正すことによって真の知識を獲得する、という考えは一つのテーゼを示している。
しかしながら、過誤を自認することは至難の業。まずは過誤かどうかを判定するために検証してみることだ。検証するために反証してみることだ。反証に耐えうるなら、真の知識が見えてくるかもしれない。
いま、この検証と反証の試みを、表題の「推測と反駁」に対応させながら読み進める。とはいえ、真の知識とはなんぞや。自分にとって都合のよい範疇でしか、物事を知ろうとしないではないか。酔いどれ天の邪鬼に寛容さは皆無。知識主義を称するなら、なにゆえ権威や名誉に縋る。なにゆえ人目を気にする。まずは他の依存症から治療せねば。自省の道は険しい... 自立の道は険しい... 自由の道は険しい...

「経験とは、誰しもが自己の過誤に与える名称である。」... オスカー・ワイルド

ここに批判ネタとされる人たちは、それだけ偉大であることの証であろう。批判するに値するということである。プラトンも、アリストテレスも、ベーコンも、デカルトも、ライプニッツも、ロックも、バークリーも、ヒュームも、ミルも... カントには心酔しながらも彼とて免れない。カール・ポパーは主観を嫌っているようで、直観までも批判対象とする。帰納法も、直観も、信じないと豪語しているのである。思考する状態そのものが直観的であるような気もするが、とにかく非合理的な思考要素をすべて排除にかかる。
ポパー自身は、経験主義者でかつ合理主義者であることを表明している。にもかかわらず、その双方にも批判の目を向ける。「推測」「反駁」も、その原動力は批判に発するというわけである。だから、否定主義者などとあだ名される。いや、皮肉屋か。主題の「過誤」こそが経験的なのだから、確かに経験主義者ということになろう。
カントは、最も純粋なレベルの認識として、時間と空間をアプリオリという概念で論じた。ただ、それ以外にも先験的な認識というものが働くように感じるし、すべての認識を経験的で説明できるかは疑わしい。思考を試している状態が経験的といえば、そんな気もするが、突然の閃きもその思考過程に生じるのだから、経験的ということになりそうな気もしなくはない。すると、直観も経験的ということになるのだろうか。どうやら酔いどれ天の邪鬼の頭の中では、「経験」という用語にも疑いを持ち始めたようである。
また、合理主義といっても、精神的な合理性、肉体的な合理性、物理的な合理性など、視点をちょいと変えるだけで様々な合理性が見て取れる。実際、芸術家の合理性と政治家の合理性は真逆に映る。ここで言う合理性とは、道理に適っているか、ということが問われるが、その「道理」という用語の解釈がなかなか手強い。どうやら酔いどれ天の邪鬼の頭の中では、「合理性」という用語にも疑いを持ち始めたようである。ひょっとして、合理性とは解釈のことか。しかも都合よく。
いずれにせよ、最も純粋な認識論の領域において、批判を免れない哲学的論考などありえようか。そして、懐疑論は自己にも向けられることに。自己否定に陥ってもなお愉快になれるとしたら、いよいよド M の覚醒か。
反駁を喰らったからといって、それを失敗と評するようでは知識の高まりは望めまい。コペルニクスを偉大とするなら、プトレマイオスも偉大とせねばなるまい。アインシュタインも偉大だし、ニュートンも間違いなく偉大だ。過去の理論が科学的に否定されたとしても、その思考プロセスには敬意を払いたい。科学者や哲学者の目標は真理の発見であり、到達しえない限り永遠に近似を試みる。これぞ、ポパーの学問態度と言えよう。
「誤った合理主義は、巨大な機械とユートピア的な社会的世界との創造という考えに心を奪われている。ベーコンの『知識は力なり』とプラトンの『賢者の支配』という考えは、この態度... 根本的には、自分の卓越した知的天分を根拠にして権力を要求する態度... の別様の表現なのである。これと対照的に、真の合理主義者は、自分がいかにわずかしか知っていないか、ということを常に自覚しているであろう。そして、どんな批判的能力や理性をもっているにせよ、自分は他の人たちとの知的交流のおかげをこうむっているのだ、という単純な事実を意識しているであろう。それゆえ真の合理主義者は、人間を根本的に平等なものとみなし、人間の理性をば人間を結びつける絆だと考える傾向があるであろう。かれにとって理性とは、権力と暴力の道具の正反対のものである。すなわち、理性を、権力と暴力とを制御しうる手段とみなすのである。」

それにしても、マルクス嫌いとヴィトゲンシュタイン嫌いは本物のようである。マルクス主義批判においては、ポパーの故郷オーストリアにヒトラーが侵攻し、共産主義と国家社会主義が激しく対立した時代、社会民主主義は無力な空想家であり、マルクス主義に縋ったところで、これに幻滅した反マルクス主義がファシズムへ傾倒していく様を嘆く。ヴィトゲンシュタイン批判においては、有意味性の意義をめぐって激しく論争し、同時代を生きたことが余計に災いしたと見える。
ポパー論考の帰結を... 理論であろうが、自己であろうが、それを進化させる方法は、極限まで検証して反証し続けること... と解すれば、天の邪鬼な性癖にも通ずるものがある。
ちなみに、健全な懐疑心と啓発された利己心こそが知の原動力... を信条とする酔いどれ天の邪鬼は行動をともなわず、ただ好き嫌いで論ずるのみ。なので人間嫌いからは免れない。
「人間理性の能力、真理を判別する人間の能力に対する不信は、ほとんど例外なく人間不信に結びついている。だから、歴史的には、認識論上のペシミズムは人間堕落説と結びついていて、人間をその愚行や邪悪から救済するために、強力な社会的伝統を確立したり、強い権威を防禦したりすることを要求するようになる。」

1. 歴史法則主義批判
ポパーは、マルクス主義を「歴史法則主義」と呼び、これを科学的論考の立場から批判する。彼は社会科学を否定しているわけではない。科学的だからすべての現象を予測できるとする考えに反対しているのである。もっと言えば、社会科学の目的を歴史の予言を行うこととし、その予言は政治を合理的に行うために必要である、という考えに反対している。
さすが合理主義者を称するだけあって、科学という用語に対して、非常に敏感と見える。科学的なあらゆる分野で、よく見かける用語に「客観性」ってやつがある。理論や主張は、この用語によって確からしさを装うことができるので、政治屋や報道屋までも濫用する。だが、客観性は学問分野によっても程度があり、数学の純粋性は他を寄せつけない。つまり、科学にも程度があるってことだ。
カオスの世界では、熱力学の第二法則が警告している。完全な効率性を実現することは不可能だ!と。こと人間社会では、真理の近似性は確率論的ですらある。人間社会は、善意に満ちていない。人道に満ちていない。それでも、そこそこ善は機能する。統計的に。確率的に。だから、世間は楽天的でいられるのだろう。
しかしながら、功利主義の最大幸福の原理が、容易に慈恵的独裁のための言い訳にされる現実をどう説明するか。政治屋が政(まつりごと)を崩壊させ、金融屋が世界規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に晒し、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。この現実を、どう説明するか。社会科学における合理主義的アプローチは、自らの合理主義と懐疑主義の妥協をめぐってのものとなろう...
「陰謀によってなしとげられた結果が、めざされた結果と通常ははなはだ異なるのはなぜか。陰謀があってもなくても、これは社会生活において普通に起こることだからである。そしてこの指摘によって、理論社会科学の主要課題を定式化する機会が与えられる。すなわち理論社会科学の主要課題は、意図した人間的諸行為の意図せぬ社会的反響効果を明らかにすることである。」

2. 本質主義批判
あらゆる学問において、言葉の意味、とりわけ定義が重要だとする考えがある。ポパーはこれを「本質主義」と呼んで批判する。定義は完全ではありえないと。いや、言語システムは完全ではないと言った方がいい。だから、それほど目くじらを立てるな!というわけである。定義や用語の誤りが有害になることを心得ておかなければ、誤謬を肥大化させてしまうとの警告か。もっと柔軟に、それほど力まずに、様々な学問分野に触れ、多くの大著を読み漁ってみては... と誘っているようにも映る。
そもそも、人間をどう定義できるというのか?とりあえず言えることは、人間は動物である、ってことぐらい。では、それ以上のものとは?動物と区別できるものとは?言語の獲得か?技術の獲得か?
では、最先端技術の人型ロボットとの違いは?カント風に言えば、人間の尊厳は不可侵、といったことになろう。だが、人間の尊厳は人間自身で守るしかない。人間の存在そのものが自己言及の罠に嵌っているではないか。技術と知識の高度な発達が、人間性を失わせるのかは知らん...
また、あらゆる学問において用語が慣習化している。客観性を帯びているはずの専門用語でさえ、所属する組織や学派によって微妙にニュアンスが違ったりで、極めて文化的な側面を持つ。そのために、用語を知らない、あるいは間違った使い方をしている、などと罵り合い、本質的な議論を遠ざけてしまう。本質主義によって本質を見失うようでは本末転倒。経済学用語を学ぶと自己中心的になりやすいという説を聞いたことがあるが、その大前提に、経済学とは自分は損をしない方法論、という見方がある。
なるほど、定義や用語は権威主義に陥りやすい。専門用語が常識化すれば、その用語の解釈にすら疑問を持てなくなるだろう...

3. 有意味性批判
どのようにして、理論は科学的と呼ばれる地位を獲得できるだろうか。ここに、科学と疑似科学の境界をめぐる議論がある。ポパーは、考えうるいかなる事にも反駁できないような理論は、科学的な理論とはいえないとしている。反駁不可能というのは理論の長所とされがちだが、むしろ欠点だという。占星術のようなものは、反駁に値しない。そして、検証に耐えうるかがひたすら問われる。
さらに、科学と形而上学の境界設定をめぐる議論がある。形而上学は反駁不可能な領域にあり、科学とは距離を置く。だからといって無意味ということにはならない。彼は形而上学を否定しているわけではない。形而の上に位置づける、この大層な学問の意味性を問うことに懐疑的なようである。
そもそも真理に意味性が問えるのだろうか?意味性の検証って可能なのだろうか?そこで、ヴィトゲンシュタインの有意味性の基準を批判する形で論じている。ヴィトゲンシュタインの言葉「およそ語られうることは明晰に語られうる。論じえないことについては人は沈黙せねばならない。」ってやつには前々から惚れ惚れする。ただ、有意味性の基準で語られうるかと問えば、少々懐疑的にならざるをえない。意味性には言語限界説との結びつきもある。実際、無意味な言葉が精神安定剤になったりする。とはいえ、同じ時代を生きたがために、烈しい論争者に仕立て上げられるとは。やはり人間は近い者に対して感情的になりやすいと見える。遠い古代の死者たちには寛容であっても...

4. 弁証法批判
ポパーの立ち位置は批判的合理主義ということになろうが、反証主義とも言えそうである。反証的方法論に立脚する知的体系は、自然科学以外にも適応できうるようなことを語ってくれるのだから。反証や検証は、弁証法において要となる論考。にもかかわらず、ヘーゲルの弁証法を痛烈に批判し、「強化された独断論(ドグマティズム)」とまで言い放つ。彼はヘーゲル哲学を「同一性哲学」と呼ぶ。それは理性と現実との同一性を唱えたものだとか。現実と理想の区別もつかなず、もはや夢想とでも言いたげな。理性を理想像に位置づければ、合理的な観点が失われそうである。もはや世界は精神と同化してしまったというのか...
一方、カントの論考は「いかにして科学は可能であるか」という問いに発しているという。その思考法は、プラトンやアリストテレスにも見出すことができる。尤も、まだ科学が自然哲学と呼ばれていた時代ではあるが。へーゲルにも同じ出発点を見出すことができそうだが、カントの暴走した姿として捉えている。そして、マルクスとの強い結びつきから歴史的方法論を批判している。
純粋理性からの理論構築は、宇宙を観念と、いや精神と同一視するところまでいってしまったのだろうか。真理の近似値は、確率論的ですらある。では、歴史はこの確率を上げる方向にあるのだろうか。歴史を理解する上での弁証法は、より高次の疑問へと発展させているだろうか...
「マルクスの社会学は、ヘーゲルから、社会学の方法は歴史的でなければならず、社会学は歴史学と同様に社会的発展の理論にならなければならないという考えだけでなく、この発展は弁証法的に説明されなければならないという見解をも取り入れた。ヘーゲルにとって、歴史は観念の歴史であった。マルクスは観念論を見落としたが、歴史的発展の起動的な諸力は弁証法的な『矛盾』、『否定』、『否定の否定』であるというヘーゲルの学説を保存した。」
ポパーは、ヘーゲルには激しくても、弁証法的論考そのものを否定しているわけではない。あらゆる仕方を用いて疑問を呈し、けして独断的にならないという謙虚な態度こそ、科学的思考法ということであろう...
「弁証法の全発展は、哲学的体系構築に内在する危険に対する警告として受け取られるべきである。哲学はいかなる種類の科学的体系の基礎ともされてはならず、哲学者はその要求においてもっとずっと慎ましやかであるべきである、ということをわれわれはこの弁証法の全発展を見て思い起すべきである。科学者がきわめて有効に成し遂げることのできる課題の一つは、科学の批判的方法の研究である。」

2018-11-11

"果てしなき探求 - 知的自伝(上/下)" Karl R. Popper 著

批判哲学とは、こういうものを言うのであろうか...
偉大な哲学は、その偉大さゆえに批判に晒され、欠点を指摘され... それでも回帰する。時にはネオ化し、狂信化し... それでも回帰する。さらに再解釈を試み、再評価され... やはり回帰する。古典回帰は永劫回帰のごとく...
一分の隙もない哲学は存在しない。一分の隙もない論考はありえない。哲学論考は言葉を用いて仕掛けるが、完全な言語システムなんぞ存在しないのである。もし仮に、人間が編み出した言語で人間精神を完全に言い表せるとすれば、人間が人間精神を完全に解明できたことを意味する。だが、そんなことは不可能だ。人間は自分自身の意識の正体すら知らないでいる。精神ってやつが単なる電子の集合体なのか?魂ってやつが素粒子の無数の塊なのか?あるいは形而上の何かなのか?具体的に答えたければ、宗教にでも縋ることだ。結局、人間の能力では誤認識を免れない。あとは、どう解釈して生きるか。どう自己満足感に浸るか。そして、後知恵によって自我をいかに脚色するか...
認識論には根本的な難題がある。無知を知るという問題が、それである。哲学の流行は盲目へといざない、ドグマ的な信条を無批判に受け入れさせる。そして、無知を知った時、その反動がより一層懐疑主義に走らせる。批判プロセスもまた時間の関数。いつの日か、確信と懐疑が調和できる時が来るだろうか。ここに、天の邪鬼な性癖に言い訳を与えてくれそうな書に出会えたことを感謝したい...

「人間の合理性は、原則に関しては不問に付しておくということにではなく、決して不問に付さないことにあり、定評のある原理にすがりつくことにではなく、何事も疑問の余地なしとみなさないことにある。」
... ギルバート・ライル

カール・ライムント・ポパーは、批判的合理主義の立場をとる。いや、批判というより常に検証の目を向けると言った方がいい。いやいや、検証というより反証の目を持ち続けると言うべきか。そして、偉人たちはことごとく彼の餌食に。プラトンしかり、アリストテレスしかり、ヘーゲルしかり、マルクスしかり。ポパー自身は非正統的カント主義者と考えた時期もあると告白しているが、そのカントしかり。
死人に対しては柔らかな論評でも、生きている者同士となると論争は激烈に。反論者がいるからそうなるのか。ウィトゲンシュタインしかり、ボーアしかり、シュレーディンガーしかり、アインシュタインには共感できるところが多かったようだけど。
どんなに偉大な哲学者も、どんなに偉大な思想家も、批判対象からは免れない。無論ポパーとて例外ではない。本書は、批判に至る思考プロセスを披露してくれるが、これを辿ると、哲学的思考や科学的思考の歴史を概観できる。人類の叡智とは、世代を超えた批判プロセスにあり!と言わんばかりに...

弁証法的方法論は、ヘーゲルやマルクスをはじめ実に多くの哲学者や思想家、あるいは科学者が建設的に採用している。そのやり方は極めて単純だ。一つの考えに別の考えを対立させ、発想をより高度な段階へ導くといった具合に。
対立すれば、そこに批判が生じ、批判が批判を呼び、より高度な批判へと昇華させる。批判のメタ論考化とでも言おうか。言葉と言葉を戦わせれば、より高度な言葉を求める。メタ言語化とでも言おうか。現在のビジネス会議でよく用いられるブレインストーミングもその類いで、異なるアイデアを戦わせながら、よりよいアイデアへ導くプロセスを重視する。
弁証法には、リズミカルな三拍子がある。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼがそれだ。正!反!合!だが、どんなにメタ化を推し進めても、結局はアンチノミーに呑まれる。だから、負けじと飲まずにはいられない。プラトンに酔い、アリストテレスに酔い、カントに酔い、ショーペンハウアーに酔い、キェルケゴールとともに狂えれば、それで愉快になれる。敬意をもった批判でなければ、こうはいくまい。
疑問を感じなくなれば、思考は停止状態に陥る。とはいえ、健全な疑問を持ち続けることは至難の業。下手すると屁理屈屋に成り下がる。だとしても、思考の弁証法的交換をやれば、前より賢くなったような気分になれる。まったく魔術的な方法論である。
ところで、ベートーヴェンやモーツァルトまでも批判できる境地とは、どういうものを言うのであろう。少なくとも批判できるだけの自分なりの定説がいる。酔ったままなら、感化されたまま。自分なりの対位法を見つけられなければ、定旋律に縛られたまま。そして、ポパーに酔えば、ポパー哲学という定旋律に縛られたまま。自己実現や自己発見なんぞ到底おぼつかない。それでもいい。永遠に縛られたままでも悪くない。おいらは、M だし...

1. 演繹的方法論 vs. 帰納的方法論
ポパーは自ら演繹主義を表明し、科学的問題はすべて演繹的方法によって解決できると豪語している。帰納的方法を演繹的方法に置き換えることに成功したとまで主張しているのである。ここに真の科学とエセ科学の境界を見出し、マルクスの科学的社会主義や、フロイトやアードラーの精神分析学を批判している。ポパーに対する主な批判は、この帰納的思考における言及であろう。この酔いどれ天の邪鬼でさえ、ちと反論したくなる。
それはともかく、演繹法と帰納法のどちらが王道かと問えば、おそらく前者であろう。普遍言明と単称言明を対立させれば、前者の方が圧倒的に説得力がある。帰納法は一つの反証によって崩れる脆さを含んでいるが、演繹法による帰結は反証の余地を与えない。そこで、ポパーは反証可能性を問うことに注力しているが、その反証を重ねていく方法論が、逆に帰納法的に映るのは気のせいであろうか。帰納法といえば、ユークリッド原論に記される数学的なものを想像してしまうが、哲学で言う帰納的思考とは違うものなのだろうか。マルクス主義批判には惚れ惚れするけど...
実際、人間社会では帰納法的思考の役立つケースが多すぎるほどに多い。言わば、確率論的な解決策である。その意味で、帰納法は準定理といった位置づけになろうか。情報化社会では、ほぼ確実、ほぼ正解というのが結構役に立つ。検索アルゴリズムでは、完全な答えを求めるよりも、80% ぐらいの満足度で結果を出す速度が優先される。現代人は多忙なのだ。すべての問題をポパーが言うように演繹的に解決できるならば、それに越したことはない。だが、それは非現実的。やはり邪道なしでは、王道の輝きも弱まる...

2. 形而上学的プログラムとしてのダーウィン主義
形而上学は、ほとんどトートロジカルなもので、いわば言葉遊びのところがある。主な議論の対象が、精神という得体の知れない代物となれば、多様な表現法が可能となり、同義語、類語、反復語が乱立する。
ポパーは、量子力学の主観主義的な理論に反対する。量子力学は統計的に解釈される傾向にあり、ハイゼンベルクの不確定原理も統計学的である。統計的な解釈とは、ある状態として存在する可能性を確率論的に解釈するということ。ボーアの理論に対しては、理解の一切の放棄であり、探求の放棄であるとして皮肉る。
「ボーアは、見方によれば、量子力学は理解可能でないと、つまり古典力学だけが理解可能であり、量子力学が部分的にしか、しかも古典力学を介してしか、理解できないという事実を、われわれは甘受しなければならない、と主張していたのである。」
シュレーディンガーの「生命体は負のエントロピーを食べている」という主張に対しては、負のエントロピーを糧にしているのは生命体だけの特徴ではないと反論する。スティームエンジンも、石油ボイラーも、自動巻き時計も、動力源はすべて環境から秩序を吸い取っていると。シュレーディンガーの著作「生命とは何か」が偉大な書であることを認めつつも...
しかしながら、ポパーは形而上学的な論考を馬鹿にしているわけではない。いや、むしろ楽しむかのように「形而上学的プログラム」と題して、科学理論の一つとしてテスト可能な枠組みを提示している。その一つに、ダーウィン主義をあげている。ダーウィン主義はテスト可能な理論ではないが、その枠組の一つと捉え、いや、それ以上のものがあると捉え...
「状況理論としてのダーウィン主義は次のように理解できる。限られた可変性をそなえた存在物(エンティティ)のいる、限られた不変性をもった世界(枠組)があるとする。このような場合、もろもろの存在物のうちのあるもの(枠組の諸条件に適合するもの)は存続しうるが、他のもの(諸条件と衝突するもの)は排除されるであろう。これに加えて、生命あるいは、より特殊的には、自己増殖的だがそれにもかかわらず可変的な物体がありうる特殊な枠組 -- 一連の、おそらくは稀で、きわめて独特な諸条件 -- が存在すると仮定する。そうすると、試行と誤り排除の考えあるいはダーウィン主義の考えがただ単に適用できるようになるだけでなく、ほとんど論理的に必然的になる状況が与えられる。そのことは、その枠組か生命の発生が必然的であるということを意味しない。」
発生が必然的でないとすれば、確率論的ということ、統計的だということになりそうだが...
ダーウィン理論は、常に起こるのではなく、むしろ非常に特殊なケースにおいて適用されるということ。おそらく比較的安定した原子核は不安定なものよりも多量になる傾向があるのだろう。同じことは化学的化合物にもいえそうである。ダーウィン主義がほとんど普遍的に受け入れられたのは、最初の非有神論的理論であったからだという...

3. 言語論と本質主義
言葉の意味、とりわけ定義が重要だとする考えは、学問をする者の多くが同意するだろう。これをポパーは「本質主義」と呼んでいる。
しかしながら、この本質主義への反発が、ポパー自身の知的発展を決定的なものにしたと回想している。言葉の真の意味について悩んだり、議論したりすることが、危険と意識するようになったというのである。しかも、15歳ぐらいで。彼は若くして、言語の柔軟性というものに気づいていたようである。
それぞれの分野で用いられる専門用語は、客観的な意思疎通を目指して編み出される。にもかかわらず、その専門用語でさえ所属する組織によって使い方が違ったり、使い手によって微妙にニュアンスが違ったりする。ポパーは言葉の意味についての問題を本気になって力んでしまっては、逆に本質を見失うと助言してくれる。言語システムを不完全なものと素直に受け入れ、あらゆる大著を肩の力を抜いて読もうよ、ってな具合に...
「もろもろの文字は、言葉を明確に表現するうえで、単なる技術的または実用的な役割しか演じていない。... 言葉もまた、理論を明確に表現するうえで、単に技術的または実用的な役割を演じるだけである。」
そして、別宮貞徳が指摘した翻訳についての言及を見つけた。実は、この文句に出会いたくて、この書を手に取ったのである...
「なんかの翻訳をやったり、翻訳について考えたことのあるものなら誰でも、文法的に正確でほとんど文字通りの翻訳といったものはない、ということを知っている。すべてのすぐれた翻訳は原典の解釈である。重要な原文のすぐれた翻訳はすべて理論的再構成でなければならないとまでさえ私はいいたい。したがって、それはかなりの注釈を含みさえするであろう。すべてのすぐれた翻訳は忠実であると同時にかつまた自由でなければならない。ついでながらいっておくと、純粋に理論的な著述の一篇の翻訳を企てる場合には美的配慮は重要ではないと考えるのは誤りである。理論の内容は伝えているがある種の内的均整美を表現できていない翻訳がまったく不十分なものでありうるということを知るには、ニュートンとかアインシュタインのような理論を考えてみさえすればいい...」

2018-11-04

"フロイトの使命" Erich Seligmann Fromm 著

アリストテレスは、師プラトンを友と呼んだが、彼以上に真実を友とした。ここでは、フロイトを超えようとした新フロイト派の雄が、師の精神分析を試みる...
成功することで破滅するタイプの人間が、確かにいる。精神分析学の創始者ジークムント・フロイト。この偉大な精神分析医にして、自らの精神分析には疎いと見える。真理と理性への尋常ではない情熱がゆえに、権威主義とその偏狭ぶりを露わにし、自己中心的な依存と誇りの葛藤に苛む。彼は孤独であった。孤独に悩み、孤独への妥協を許さず、孤独へ向かう勇気を誇りとし、矛盾の蔓延する超自我の中をさまよう。
エーリッヒ・フロムは、自我ってやつがいかに手に負えないヤツかを物語る。とはいえ、学説から見出される誤謬を批判していると、一緒に最も価値ある部分までも放棄してしまう危険がある。ヒトラー主義やスターリン主義へ傾倒していく時代、フロイトは合理主義者としての最後の砦のような存在で、ラテン語の格言 "Sapere aude.(知ることを恐れるな!)" を体現したような人物だったと評している...

フロイトとは、どんな人物だったのか?彼の批判者たちが噂するような官能的で無教養な退廃的ウィーン人だったのか?それとも、彼の後継者たちが信じるような偉大な教師で、反対者にも親切に接した人物だったのか?一人の人間分析において、世間の悪口や名声はあまり当てにならないとしても、彼がある公式に出会ったことは事実である。それは快楽原理と呼ばれる。
「快楽は積極的な悦びよりはむしろ、不快さや苦痛の緊張からの解放である。」
一つの人物像としては、アインシュタインとの共著「ヒトはなぜ戦争をするのか?」の中で垣間見ることができよう。二人は互いに平和主義者として共感し、人間が喜んで戦争に参加する心理について書簡を交わしている。それは、死の本能に根ざしていること... 文明が進化するにつれ、破壊的傾向が超自我の形で内在化すること... 自由主義者も、社会主義者も、愛国心を旺盛にさせるのは、自我を集団の中に埋もれさせることによって、個人の重荷を軽減させようとしていること... といったことである。
「フロイトの、本能を理性によって支配するという基本的な理想が、自分の宿命を方向づけることは普通の人間の力では不可能である、という深い不信の念と結びついているのを知る。これこそフロイトの生涯の悲劇の一つである。ヒトラーの勝利の一年前、彼は民主主義の可能性に絶望し、唯一の希望として勇気のある、自分の欲望をおさえる選民達の独裁を主張した。精神分析を受けた選民のみが、無智の大衆を指導し、支配できるということが、その希望ではなかったろうか...」

理性の力を信じる点では、フロイトは啓蒙時代の子供であったという。しかしながら、大きな子供ほど手に負えないものはない。母や妻への母性愛への強い依存と女性蔑視との対立や、友人や弟子への依存と強い独立意識との対立から、二重人格性を覗かせる。
女性を男性より下位に置きたいという欲求は、強迫的ですらあったという。女権解放問題ではジョン・スチュアート・ミルを批判し、馬鹿げた人間性のない男と言い放ったとか。偏見に満ちたヨーロッパの伝統精神に反対しながらも、女性問題となると伝統的な考えに固執する。
蔑視感情は、師や同僚や弟子にも向けられる。理論上の反対意見を提出する人たちとは、ことごとく絶好状態へ。精神分析学という構想を与えた良き指導者ブロイエル、親友フリース、さらに、弟子のユング、アドラー、ランク、フェレンツィらも離れていく。ユングには「私の息子であととり」と発言したこともあったとか。フロイトの性格における受容的な依存症と誇り高き独立像との葛藤は、凄まじいものがあったようである。

また、自らの英雄列伝をナポレオンやハンニバルと重ね、さらにはモーゼとの同一性を唱えたという。
「モーゼが賤しいユダヤ人から生まれなかったように、ちょうど私もユダヤ人ではなくて、王族の子孫である。」
彼の名からしてユダヤ系であることは想像に易いが、ここに父親への反発心を覗かせる。母親の子供への愛は父親のものとは違う。父の愛は子供の行為に応じて与えられるが、母の愛は無条件に与えられる。そして、自分の血筋を呪ったのかは知らんが、晩年のモーゼ研究に執念を見せる。モーゼがヘブライ人ではなく、エジプト人であったことを証明しようと...
この思慮深い男が、権力を振りかざした野蛮人がユダヤ人の抹殺を図った時代に、なにゆえユダヤ人の英雄伝を抹殺にかかったのか。合理主義の極致を示しながら、自ら合理主義に致命的な一撃を喰らわそうとは...
正統フロイト理論と正統マルキシズム理論との間には、奇妙な関連性があるという。フロイト派は、個人的な無意識を見て社会的な無意識を見ようとしなかったが、マルクス派は反対に、社会行動における無意識的要因を鋭く意識しながら、個人的な動機を評価する点で甚だ盲目であったと。
フロイトは、人間としての自分を自慢しなかったが、自らのもつ使命には誇り高かったという。その権威的な支配欲は、けして虚栄心や利己心と無縁とは言えまい。彼は、自己統制的人間になることを強すぎるほどに求め、無意識の領域までも理性によって統制できると信じていたが、それも自己満足に過ぎなかったということか。自ら課した使命に憑かれ、自らの使命に溺れていく独りよがりの末路は、ある種のナルシシズムを思わせる。
「個人の無意識を理解するためには、自分の属する社会の批判的分析が前提であり、欠くことのできないものである。フロイト派の精神分析学が自由主義的中産階級の態度を捨てて、社会一般に目を向けることができなかったという事実は、その狭さと、個人の無意識を理解するという特殊な領域に結局とどまってしまった一つの理由なのである。」