2018-11-18

"推測と反駁 - 科学的知識の発展" Karl R. Popper 著

先日、知的自伝「果てしなき探求」では、いかにして批判的合理主義に至ったか、その思考プロセスを味わわせてくれた。ここでは、「過誤から学びうる」という命題を提起してくれる。世間でよく言われる「失敗から学ぶ」という試行錯誤法の応用例といったところか。それは、正しく問うことの難しさを暗示している。
人はみな、何かに依存しなければ生きてはいけない。ならば、何に依存して生きていくか。知識依存というのも悪くない。過誤を正すことによって真の知識を獲得する、という考えは一つのテーゼを示している。
しかしながら、過誤を自認することは至難の業。まずは過誤かどうかを判定するために検証してみることだ。検証するために反証してみることだ。反証に耐えうるなら、真の知識が見えてくるかもしれない。
いま、この検証と反証の試みを、表題の「推測と反駁」に対応させながら読み進める。とはいえ、真の知識とはなんぞや。自分にとって都合のよい範疇でしか、物事を知ろうとしないではないか。酔いどれ天の邪鬼に寛容さは皆無。知識主義を称するなら、なにゆえ権威や名誉に縋る。なにゆえ人目を気にする。まずは他の依存症から治療せねば。自省の道は険しい... 自立の道は険しい... 自由の道は険しい...

「経験とは、誰しもが自己の過誤に与える名称である。」... オスカー・ワイルド

ここに批判ネタとされる人たちは、それだけ偉大であることの証であろう。批判するに値するということである。プラトンも、アリストテレスも、ベーコンも、デカルトも、ライプニッツも、ロックも、バークリーも、ヒュームも、ミルも... カントには心酔しながらも彼とて免れない。カール・ポパーは主観を嫌っているようで、直観までも批判対象とする。帰納法も、直観も、信じないと豪語しているのである。思考する状態そのものが直観的であるような気もするが、とにかく非合理的な思考要素をすべて排除にかかる。
ポパー自身は、経験主義者でかつ合理主義者であることを表明している。にもかかわらず、その双方にも批判の目を向ける。「推測」「反駁」も、その原動力は批判に発するというわけである。だから、否定主義者などとあだ名される。いや、皮肉屋か。主題の「過誤」こそが経験的なのだから、確かに経験主義者ということになろう。
カントは、最も純粋なレベルの認識として、時間と空間をアプリオリという概念で論じた。ただ、それ以外にも先験的な認識というものが働くように感じるし、すべての認識を経験的で説明できるかは疑わしい。思考を試している状態が経験的といえば、そんな気もするが、突然の閃きもその思考過程に生じるのだから、経験的ということになりそうな気もしなくはない。すると、直観も経験的ということになるのだろうか。どうやら酔いどれ天の邪鬼の頭の中では、「経験」という用語にも疑いを持ち始めたようである。
また、合理主義といっても、精神的な合理性、肉体的な合理性、物理的な合理性など、視点をちょいと変えるだけで様々な合理性が見て取れる。実際、芸術家の合理性と政治家の合理性は真逆に映る。ここで言う合理性とは、道理に適っているか、ということが問われるが、その「道理」という用語の解釈がなかなか手強い。どうやら酔いどれ天の邪鬼の頭の中では、「合理性」という用語にも疑いを持ち始めたようである。ひょっとして、合理性とは解釈のことか。しかも都合よく。
いずれにせよ、最も純粋な認識論の領域において、批判を免れない哲学的論考などありえようか。そして、懐疑論は自己にも向けられることに。自己否定に陥ってもなお愉快になれるとしたら、いよいよド M の覚醒か。
反駁を喰らったからといって、それを失敗と評するようでは知識の高まりは望めまい。コペルニクスを偉大とするなら、プトレマイオスも偉大とせねばなるまい。アインシュタインも偉大だし、ニュートンも間違いなく偉大だ。過去の理論が科学的に否定されたとしても、その思考プロセスには敬意を払いたい。科学者や哲学者の目標は真理の発見であり、到達しえない限り永遠に近似を試みる。これぞ、ポパーの学問態度と言えよう。
「誤った合理主義は、巨大な機械とユートピア的な社会的世界との創造という考えに心を奪われている。ベーコンの『知識は力なり』とプラトンの『賢者の支配』という考えは、この態度... 根本的には、自分の卓越した知的天分を根拠にして権力を要求する態度... の別様の表現なのである。これと対照的に、真の合理主義者は、自分がいかにわずかしか知っていないか、ということを常に自覚しているであろう。そして、どんな批判的能力や理性をもっているにせよ、自分は他の人たちとの知的交流のおかげをこうむっているのだ、という単純な事実を意識しているであろう。それゆえ真の合理主義者は、人間を根本的に平等なものとみなし、人間の理性をば人間を結びつける絆だと考える傾向があるであろう。かれにとって理性とは、権力と暴力の道具の正反対のものである。すなわち、理性を、権力と暴力とを制御しうる手段とみなすのである。」

それにしても、マルクス嫌いとヴィトゲンシュタイン嫌いは本物のようである。マルクス主義批判においては、ポパーの故郷オーストリアにヒトラーが侵攻し、共産主義と国家社会主義が激しく対立した時代、社会民主主義は無力な空想家であり、マルクス主義に縋ったところで、これに幻滅した反マルクス主義がファシズムへ傾倒していく様を嘆く。ヴィトゲンシュタイン批判においては、有意味性の意義をめぐって激しく論争し、同時代を生きたことが余計に災いしたと見える。
ポパー論考の帰結を... 理論であろうが、自己であろうが、それを進化させる方法は、極限まで検証して反証し続けること... と解すれば、天の邪鬼な性癖にも通ずるものがある。
ちなみに、健全な懐疑心と啓発された利己心こそが知の原動力... を信条とする酔いどれ天の邪鬼は行動をともなわず、ただ好き嫌いで論ずるのみ。なので人間嫌いからは免れない。
「人間理性の能力、真理を判別する人間の能力に対する不信は、ほとんど例外なく人間不信に結びついている。だから、歴史的には、認識論上のペシミズムは人間堕落説と結びついていて、人間をその愚行や邪悪から救済するために、強力な社会的伝統を確立したり、強い権威を防禦したりすることを要求するようになる。」

1. 歴史法則主義批判
ポパーは、マルクス主義を「歴史法則主義」と呼び、これを科学的論考の立場から批判する。彼は社会科学を否定しているわけではない。科学的だからすべての現象を予測できるとする考えに反対しているのである。もっと言えば、社会科学の目的を歴史の予言を行うこととし、その予言は政治を合理的に行うために必要である、という考えに反対している。
さすが合理主義者を称するだけあって、科学という用語に対して、非常に敏感と見える。科学的なあらゆる分野で、よく見かける用語に「客観性」ってやつがある。理論や主張は、この用語によって確からしさを装うことができるので、政治屋や報道屋までも濫用する。だが、客観性は学問分野によっても程度があり、数学の純粋性は他を寄せつけない。つまり、科学にも程度があるってことだ。
カオスの世界では、熱力学の第二法則が警告している。完全な効率性を実現することは不可能だ!と。こと人間社会では、真理の近似性は確率論的ですらある。人間社会は、善意に満ちていない。人道に満ちていない。それでも、そこそこ善は機能する。統計的に。確率的に。だから、世間は楽天的でいられるのだろう。
しかしながら、功利主義の最大幸福の原理が、容易に慈恵的独裁のための言い訳にされる現実をどう説明するか。政治屋が政(まつりごと)を崩壊させ、金融屋が世界規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に晒し、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。この現実を、どう説明するか。社会科学における合理主義的アプローチは、自らの合理主義と懐疑主義の妥協をめぐってのものとなろう...
「陰謀によってなしとげられた結果が、めざされた結果と通常ははなはだ異なるのはなぜか。陰謀があってもなくても、これは社会生活において普通に起こることだからである。そしてこの指摘によって、理論社会科学の主要課題を定式化する機会が与えられる。すなわち理論社会科学の主要課題は、意図した人間的諸行為の意図せぬ社会的反響効果を明らかにすることである。」

2. 本質主義批判
あらゆる学問において、言葉の意味、とりわけ定義が重要だとする考えがある。ポパーはこれを「本質主義」と呼んで批判する。定義は完全ではありえないと。いや、言語システムは完全ではないと言った方がいい。だから、それほど目くじらを立てるな!というわけである。定義や用語の誤りが有害になることを心得ておかなければ、誤謬を肥大化させてしまうとの警告か。もっと柔軟に、それほど力まずに、様々な学問分野に触れ、多くの大著を読み漁ってみては... と誘っているようにも映る。
そもそも、人間をどう定義できるというのか?とりあえず言えることは、人間は動物である、ってことぐらい。では、それ以上のものとは?動物と区別できるものとは?言語の獲得か?技術の獲得か?
では、最先端技術の人型ロボットとの違いは?カント風に言えば、人間の尊厳は不可侵、といったことになろう。だが、人間の尊厳は人間自身で守るしかない。人間の存在そのものが自己言及の罠に嵌っているではないか。技術と知識の高度な発達が、人間性を失わせるのかは知らん...
また、あらゆる学問において用語が慣習化している。客観性を帯びているはずの専門用語でさえ、所属する組織や学派によって微妙にニュアンスが違ったりで、極めて文化的な側面を持つ。そのために、用語を知らない、あるいは間違った使い方をしている、などと罵り合い、本質的な議論を遠ざけてしまう。本質主義によって本質を見失うようでは本末転倒。経済学用語を学ぶと自己中心的になりやすいという説を聞いたことがあるが、その大前提に、経済学とは自分は損をしない方法論、という見方がある。
なるほど、定義や用語は権威主義に陥りやすい。専門用語が常識化すれば、その用語の解釈にすら疑問を持てなくなるだろう...

3. 有意味性批判
どのようにして、理論は科学的と呼ばれる地位を獲得できるだろうか。ここに、科学と疑似科学の境界をめぐる議論がある。ポパーは、考えうるいかなる事にも反駁できないような理論は、科学的な理論とはいえないとしている。反駁不可能というのは理論の長所とされがちだが、むしろ欠点だという。占星術のようなものは、反駁に値しない。そして、検証に耐えうるかがひたすら問われる。
さらに、科学と形而上学の境界設定をめぐる議論がある。形而上学は反駁不可能な領域にあり、科学とは距離を置く。だからといって無意味ということにはならない。彼は形而上学を否定しているわけではない。形而の上に位置づける、この大層な学問の意味性を問うことに懐疑的なようである。
そもそも真理に意味性が問えるのだろうか?意味性の検証って可能なのだろうか?そこで、ヴィトゲンシュタインの有意味性の基準を批判する形で論じている。ヴィトゲンシュタインの言葉「およそ語られうることは明晰に語られうる。論じえないことについては人は沈黙せねばならない。」ってやつには前々から惚れ惚れする。ただ、有意味性の基準で語られうるかと問えば、少々懐疑的にならざるをえない。意味性には言語限界説との結びつきもある。実際、無意味な言葉が精神安定剤になったりする。とはいえ、同じ時代を生きたがために、烈しい論争者に仕立て上げられるとは。やはり人間は近い者に対して感情的になりやすいと見える。遠い古代の死者たちには寛容であっても...

4. 弁証法批判
ポパーの立ち位置は批判的合理主義ということになろうが、反証主義とも言えそうである。反証的方法論に立脚する知的体系は、自然科学以外にも適応できうるようなことを語ってくれるのだから。反証や検証は、弁証法において要となる論考。にもかかわらず、ヘーゲルの弁証法を痛烈に批判し、「強化された独断論(ドグマティズム)」とまで言い放つ。彼はヘーゲル哲学を「同一性哲学」と呼ぶ。それは理性と現実との同一性を唱えたものだとか。現実と理想の区別もつかなず、もはや夢想とでも言いたげな。理性を理想像に位置づければ、合理的な観点が失われそうである。もはや世界は精神と同化してしまったというのか...
一方、カントの論考は「いかにして科学は可能であるか」という問いに発しているという。その思考法は、プラトンやアリストテレスにも見出すことができる。尤も、まだ科学が自然哲学と呼ばれていた時代ではあるが。へーゲルにも同じ出発点を見出すことができそうだが、カントの暴走した姿として捉えている。そして、マルクスとの強い結びつきから歴史的方法論を批判している。
純粋理性からの理論構築は、宇宙を観念と、いや精神と同一視するところまでいってしまったのだろうか。真理の近似値は、確率論的ですらある。では、歴史はこの確率を上げる方向にあるのだろうか。歴史を理解する上での弁証法は、より高次の疑問へと発展させているだろうか...
「マルクスの社会学は、ヘーゲルから、社会学の方法は歴史的でなければならず、社会学は歴史学と同様に社会的発展の理論にならなければならないという考えだけでなく、この発展は弁証法的に説明されなければならないという見解をも取り入れた。ヘーゲルにとって、歴史は観念の歴史であった。マルクスは観念論を見落としたが、歴史的発展の起動的な諸力は弁証法的な『矛盾』、『否定』、『否定の否定』であるというヘーゲルの学説を保存した。」
ポパーは、ヘーゲルには激しくても、弁証法的論考そのものを否定しているわけではない。あらゆる仕方を用いて疑問を呈し、けして独断的にならないという謙虚な態度こそ、科学的思考法ということであろう...
「弁証法の全発展は、哲学的体系構築に内在する危険に対する警告として受け取られるべきである。哲学はいかなる種類の科学的体系の基礎ともされてはならず、哲学者はその要求においてもっとずっと慎ましやかであるべきである、ということをわれわれはこの弁証法の全発展を見て思い起すべきである。科学者がきわめて有効に成し遂げることのできる課題の一つは、科学の批判的方法の研究である。」

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