2018-11-11

"果てしなき探求 - 知的自伝(上/下)" Karl R. Popper 著

批判哲学とは、こういうものを言うのであろうか...
偉大な哲学は、その偉大さゆえに批判に晒され、欠点を指摘され... それでも回帰する。時にはネオ化し、狂信化し... それでも回帰する。さらに再解釈を試み、再評価され... やはり回帰する。古典回帰は永劫回帰のごとく...
一分の隙もない哲学は存在しない。一分の隙もない論考はありえない。哲学論考は言葉を用いて仕掛けるが、完全な言語システムなんぞ存在しないのである。もし仮に、人間が編み出した言語で人間精神を完全に言い表せるとすれば、人間が人間精神を完全に解明できたことを意味する。だが、そんなことは不可能だ。人間は自分自身の意識の正体すら知らないでいる。精神ってやつが単なる電子の集合体なのか?魂ってやつが素粒子の無数の塊なのか?あるいは形而上の何かなのか?具体的に答えたければ、宗教にでも縋ることだ。結局、人間の能力では誤認識を免れない。あとは、どう解釈して生きるか。どう自己満足感に浸るか。そして、後知恵によって自我をいかに脚色するか...
認識論には根本的な難題がある。無知を知るという問題が、それである。哲学の流行は盲目へといざない、ドグマ的な信条を無批判に受け入れさせる。そして、無知を知った時、その反動がより一層懐疑主義に走らせる。批判プロセスもまた時間の関数。いつの日か、確信と懐疑が調和できる時が来るだろうか。ここに、天の邪鬼な性癖に言い訳を与えてくれそうな書に出会えたことを感謝したい...

「人間の合理性は、原則に関しては不問に付しておくということにではなく、決して不問に付さないことにあり、定評のある原理にすがりつくことにではなく、何事も疑問の余地なしとみなさないことにある。」
... ギルバート・ライル

カール・ライムント・ポパーは、批判的合理主義の立場をとる。いや、批判というより常に検証の目を向けると言った方がいい。いやいや、検証というより反証の目を持ち続けると言うべきか。そして、偉人たちはことごとく彼の餌食に。プラトンしかり、アリストテレスしかり、ヘーゲルしかり、マルクスしかり。ポパー自身は非正統的カント主義者と考えた時期もあると告白しているが、そのカントしかり。
死人に対しては柔らかな論評でも、生きている者同士となると論争は激烈に。反論者がいるからそうなるのか。ウィトゲンシュタインしかり、ボーアしかり、シュレーディンガーしかり、アインシュタインには共感できるところが多かったようだけど。
どんなに偉大な哲学者も、どんなに偉大な思想家も、批判対象からは免れない。無論ポパーとて例外ではない。本書は、批判に至る思考プロセスを披露してくれるが、これを辿ると、哲学的思考や科学的思考の歴史を概観できる。人類の叡智とは、世代を超えた批判プロセスにあり!と言わんばかりに...

弁証法的方法論は、ヘーゲルやマルクスをはじめ実に多くの哲学者や思想家、あるいは科学者が建設的に採用している。そのやり方は極めて単純だ。一つの考えに別の考えを対立させ、発想をより高度な段階へ導くといった具合に。
対立すれば、そこに批判が生じ、批判が批判を呼び、より高度な批判へと昇華させる。批判のメタ論考化とでも言おうか。言葉と言葉を戦わせれば、より高度な言葉を求める。メタ言語化とでも言おうか。現在のビジネス会議でよく用いられるブレインストーミングもその類いで、異なるアイデアを戦わせながら、よりよいアイデアへ導くプロセスを重視する。
弁証法には、リズミカルな三拍子がある。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼがそれだ。正!反!合!だが、どんなにメタ化を推し進めても、結局はアンチノミーに呑まれる。だから、負けじと飲まずにはいられない。プラトンに酔い、アリストテレスに酔い、カントに酔い、ショーペンハウアーに酔い、キェルケゴールとともに狂えれば、それで愉快になれる。敬意をもった批判でなければ、こうはいくまい。
疑問を感じなくなれば、思考は停止状態に陥る。とはいえ、健全な疑問を持ち続けることは至難の業。下手すると屁理屈屋に成り下がる。だとしても、思考の弁証法的交換をやれば、前より賢くなったような気分になれる。まったく魔術的な方法論である。
ところで、ベートーヴェンやモーツァルトまでも批判できる境地とは、どういうものを言うのであろう。少なくとも批判できるだけの自分なりの定説がいる。酔ったままなら、感化されたまま。自分なりの対位法を見つけられなければ、定旋律に縛られたまま。そして、ポパーに酔えば、ポパー哲学という定旋律に縛られたまま。自己実現や自己発見なんぞ到底おぼつかない。それでもいい。永遠に縛られたままでも悪くない。おいらは、M だし...

1. 演繹的方法論 vs. 帰納的方法論
ポパーは自ら演繹主義を表明し、科学的問題はすべて演繹的方法によって解決できると豪語している。帰納的方法を演繹的方法に置き換えることに成功したとまで主張しているのである。ここに真の科学とエセ科学の境界を見出し、マルクスの科学的社会主義や、フロイトやアードラーの精神分析学を批判している。ポパーに対する主な批判は、この帰納的思考における言及であろう。この酔いどれ天の邪鬼でさえ、ちと反論したくなる。
それはともかく、演繹法と帰納法のどちらが王道かと問えば、おそらく前者であろう。普遍言明と単称言明を対立させれば、前者の方が圧倒的に説得力がある。帰納法は一つの反証によって崩れる脆さを含んでいるが、演繹法による帰結は反証の余地を与えない。そこで、ポパーは反証可能性を問うことに注力しているが、その反証を重ねていく方法論が、逆に帰納法的に映るのは気のせいであろうか。帰納法といえば、ユークリッド原論に記される数学的なものを想像してしまうが、哲学で言う帰納的思考とは違うものなのだろうか。マルクス主義批判には惚れ惚れするけど...
実際、人間社会では帰納法的思考の役立つケースが多すぎるほどに多い。言わば、確率論的な解決策である。その意味で、帰納法は準定理といった位置づけになろうか。情報化社会では、ほぼ確実、ほぼ正解というのが結構役に立つ。検索アルゴリズムでは、完全な答えを求めるよりも、80% ぐらいの満足度で結果を出す速度が優先される。現代人は多忙なのだ。すべての問題をポパーが言うように演繹的に解決できるならば、それに越したことはない。だが、それは非現実的。やはり邪道なしでは、王道の輝きも弱まる...

2. 形而上学的プログラムとしてのダーウィン主義
形而上学は、ほとんどトートロジカルなもので、いわば言葉遊びのところがある。主な議論の対象が、精神という得体の知れない代物となれば、多様な表現法が可能となり、同義語、類語、反復語が乱立する。
ポパーは、量子力学の主観主義的な理論に反対する。量子力学は統計的に解釈される傾向にあり、ハイゼンベルクの不確定原理も統計学的である。統計的な解釈とは、ある状態として存在する可能性を確率論的に解釈するということ。ボーアの理論に対しては、理解の一切の放棄であり、探求の放棄であるとして皮肉る。
「ボーアは、見方によれば、量子力学は理解可能でないと、つまり古典力学だけが理解可能であり、量子力学が部分的にしか、しかも古典力学を介してしか、理解できないという事実を、われわれは甘受しなければならない、と主張していたのである。」
シュレーディンガーの「生命体は負のエントロピーを食べている」という主張に対しては、負のエントロピーを糧にしているのは生命体だけの特徴ではないと反論する。スティームエンジンも、石油ボイラーも、自動巻き時計も、動力源はすべて環境から秩序を吸い取っていると。シュレーディンガーの著作「生命とは何か」が偉大な書であることを認めつつも...
しかしながら、ポパーは形而上学的な論考を馬鹿にしているわけではない。いや、むしろ楽しむかのように「形而上学的プログラム」と題して、科学理論の一つとしてテスト可能な枠組みを提示している。その一つに、ダーウィン主義をあげている。ダーウィン主義はテスト可能な理論ではないが、その枠組の一つと捉え、いや、それ以上のものがあると捉え...
「状況理論としてのダーウィン主義は次のように理解できる。限られた可変性をそなえた存在物(エンティティ)のいる、限られた不変性をもった世界(枠組)があるとする。このような場合、もろもろの存在物のうちのあるもの(枠組の諸条件に適合するもの)は存続しうるが、他のもの(諸条件と衝突するもの)は排除されるであろう。これに加えて、生命あるいは、より特殊的には、自己増殖的だがそれにもかかわらず可変的な物体がありうる特殊な枠組 -- 一連の、おそらくは稀で、きわめて独特な諸条件 -- が存在すると仮定する。そうすると、試行と誤り排除の考えあるいはダーウィン主義の考えがただ単に適用できるようになるだけでなく、ほとんど論理的に必然的になる状況が与えられる。そのことは、その枠組か生命の発生が必然的であるということを意味しない。」
発生が必然的でないとすれば、確率論的ということ、統計的だということになりそうだが...
ダーウィン理論は、常に起こるのではなく、むしろ非常に特殊なケースにおいて適用されるということ。おそらく比較的安定した原子核は不安定なものよりも多量になる傾向があるのだろう。同じことは化学的化合物にもいえそうである。ダーウィン主義がほとんど普遍的に受け入れられたのは、最初の非有神論的理論であったからだという...

3. 言語論と本質主義
言葉の意味、とりわけ定義が重要だとする考えは、学問をする者の多くが同意するだろう。これをポパーは「本質主義」と呼んでいる。
しかしながら、この本質主義への反発が、ポパー自身の知的発展を決定的なものにしたと回想している。言葉の真の意味について悩んだり、議論したりすることが、危険と意識するようになったというのである。しかも、15歳ぐらいで。彼は若くして、言語の柔軟性というものに気づいていたようである。
それぞれの分野で用いられる専門用語は、客観的な意思疎通を目指して編み出される。にもかかわらず、その専門用語でさえ所属する組織によって使い方が違ったり、使い手によって微妙にニュアンスが違ったりする。ポパーは言葉の意味についての問題を本気になって力んでしまっては、逆に本質を見失うと助言してくれる。言語システムを不完全なものと素直に受け入れ、あらゆる大著を肩の力を抜いて読もうよ、ってな具合に...
「もろもろの文字は、言葉を明確に表現するうえで、単なる技術的または実用的な役割しか演じていない。... 言葉もまた、理論を明確に表現するうえで、単に技術的または実用的な役割を演じるだけである。」
そして、別宮貞徳が指摘した翻訳についての言及を見つけた。実は、この文句に出会いたくて、この書を手に取ったのである...
「なんかの翻訳をやったり、翻訳について考えたことのあるものなら誰でも、文法的に正確でほとんど文字通りの翻訳といったものはない、ということを知っている。すべてのすぐれた翻訳は原典の解釈である。重要な原文のすぐれた翻訳はすべて理論的再構成でなければならないとまでさえ私はいいたい。したがって、それはかなりの注釈を含みさえするであろう。すべてのすぐれた翻訳は忠実であると同時にかつまた自由でなければならない。ついでながらいっておくと、純粋に理論的な著述の一篇の翻訳を企てる場合には美的配慮は重要ではないと考えるのは誤りである。理論の内容は伝えているがある種の内的均整美を表現できていない翻訳がまったく不十分なものでありうるということを知るには、ニュートンとかアインシュタインのような理論を考えてみさえすればいい...」

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