2019-06-23

"20世紀音楽" Hans Heinz Stuckenschmidt 著

音楽評論家として名高いハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミット。だがここでは、音響哲学者と呼んでおこう。音階やオクターヴといった音楽理論は、ピュタゴラスの時代から数学的に論じられてきた側面がある。音楽は、帰納的なものか、演繹的なものか、と。確かに、ポリフォニーには数学的な原理が見て取れる。
しかし、だ。音を楽しんでこその音楽。心を虜にする音の響きを、数学が支配する客観性の領域に押しとどめるのはもったいない。それは共通主観というものか。あるいは、もっと形而の上にある普遍性というものか。シュトゥッケンシュミットは、数学と反数学の狭間から論じようと試みる。人間には、多くの出来事を同時に感知し追求する能力があり、この能力は訓練によって磨かれる。しかも、こうした感性は帰納的にも演繹的にも発展させられる。数学の美に対称性という概念があるが、音楽にもシンメトリーな美を感じる。生を崇めれば死も崇められ、より高められた苦悩の形式は、生を敵視する衝動までも思い描く。
ただ、既成概念を崩壊させていく中で、シンメトリーを無視した律動構造までもが現れると、人類は本当に対称性という概念を凌駕したのか、と問いたくなる。変革の時代というのは、その機運が強まれば強まるほど、古い観念を否定するだけでなく、すべてを抹殺にかかるところがある。論理学でいうところの全否定ってやつが働くのだ。20世紀とは、自由の暴走の時代であったのか。いずれにせよ、21世紀、22世紀へと移りゆくにつれ、深淵な20世紀論が語られていくであろう...
「19世紀後半のあらゆる芸術には、ロマン派の苦悶が重くのしかかっている。エクトル・ベルリオーズやバイロン卿のパトスと世界苦は、リヒャルト・ヴァーグナーの哲学では、救済の理念のなかに避難所を見いだす、一種の苦難崇拝にまで高められいてる。芸術はずっと前から表現のまったく主観的な手段となり、感情の横溢は古来の形式の限界をふみこえてしまっていた。この意味で、ヴァーグナーは、単に無限なるものを志向するロマンティックな努力をした偉大な理論家というだけでなく、芸術のうえでは絶対に犯してはいけない法則などはもうないと考える世界像を最初につくりあげた人だった。」

本書は、芸術の歩みを社会動向の投影と見て、歴史的洞察で味付けしてくれる。情緒的なものを表現する芸術は、原理的に、本能的に、形式とやらに反抗し、ある形式が支配的な力を持つと、その逆を行く預言者が出現する。モーツァルトには、すべての法則に逆らうかのような旋律が出てくる。
しかし、法則を正しく理解しなければ、正しく逆らうことはできまい。芸術家たちは、模倣に明け暮れながら独自性を目覚めさせていくかに見える。ラファエロしかり、シェイクスピアしかり。健全な懐疑主義を放棄すれば盲目となるばかり。彼らは、そうなることを極端に恐れ、義務や使命にまで高めていくかに見える。偉大な模倣者とでも言おうか。
ここでは、ヴァーグナー信奉者が反ヴァーグナーを目覚めさせていく様子が伺える。その流れはドビュッシーを通じて強まっていったという。形式上のタブーの崩壊では、十二音技法の創始者と目されるシェーンベルクを論じている。シェーンベルクの音楽はなぜ分かりにくいか... 協和音と不協和音の区別が消え... シンメトリーを無視したリズム... などと。十二の音が短い空間に相次いで登場し、しかも同じ音の反復は最小限に抑えられる。それは構成上の必然性からくるのか、あるいは直観が命ずるのか。シェーンベルクは国家社会主義の民族政策によって生存を脅かされた一人で、特に自由という概念に敏感だったと見える。保守派のブラームス党と革新派のヴァーグナー党との対立の余韻が残る時代、新たな自由という風潮をもたらしながらも、そこに孕む危険性を真っ先に感じ取ったのもシェーンベルク自身だったという。ストラヴェンスキーの技法は、彼の技法につながるものだとか。電子音楽の成し遂げた総合的音楽の可能性もまた、シェーンベルクに帰着するという。
新たな秩序が、変化の挙げ句に伝統的な形式に流し込もうという試みに回帰する、ということがある。たまには密教的な抒情詩に立ち返ってみるのも悪くない。どんな学問分野でも技術に凝りすぎると、本質的なものを見失う。そして、この新たな秩序を救ったのもシェーンベルクであったのか...

自由を重んじる芸術精神は、純粋な個人の能力だけでなく、社会的抑圧の反発から生じるところがある。19世紀に栄華を極めた王侯貴族の芸術は、20世紀になると市民的な芸術へと解放され、宗教観にも世俗的な使命が与えられた。19世紀の芸術の中でブルジョア芸術が育まれ、20世紀に開花したという見方もできるだろう。
その影で、二つの大戦を経験するという暗い時代。ファシズムやスターリン主義を旺盛にし、非寛容な政治的作品が溢れる中、芸術活動は警察国家の非人道への抗議という形で現れる。戦争レクイエムを奏で...
芸術家たちが真に芸術に没頭していくと、自然に政治的な思惑から解放され、人類の普遍性に訴えようとするものなのか。音楽家だけでなく、文学者にしても、美術家にしても。こうした衝動は、宗教弾圧の時代にも起こった。ユングが言う集団的無意識ってやつが働くのか...
「自由の状態というものは耐えがたい。この悲しい真理は社会生活ばかりでなく、精神の全領域にも妥当する。どんな法則も存在しないか、あるいは認識されないために、あらゆる可能性が開かれているような状態におかれると、芸術的創造はかえって困難になる。もろもろの形式は感情の裁量に任され、形態と無形態とのあいだにはっきりした境界がひかれなくなる。」

古くから哲学は、パトスとロゴス、感情と理性、主観と客観といった対立を論じてきた。音楽を理論づける上でも、同じような論争を見かける。ただ、理性の擁護者の方が楽であろう。客観的な法則を引き合いに出せば済むし。感情の擁護者は、得体の知れない精神という実体を主観的に唱えるしかない。
音響学的に問えば、騒音と音色を分けるものとは何か?という問題にぶつかり、音響スペクトルを分析しても物理的に区別することは難しい。絶対音感の持ち主ともなると、楽器の奏でる美しい音でも組み合わせによっては騒音に感じると聞く。こうした感覚は、音響現象が極めて生理的なものであることを示している。
ライプニッツは、モナド論の中で「予定調和」なる根本原理を唱えた。肉体と魂は、あたかも協調して振る舞っているかに見えるが、実は肉体は魂があたかも存在せぬかのごとく振る舞い、魂もまた肉体が存在せぬかのごとく振る舞う、といったことを。確かに、人間精神の本質は無意識の側にありそうだ。
一方で、サイバネティックスのように、人間自体が複雑な伝達系や情報システムにほかならないという見方もある。確かに、人間という存在は機械仕掛けのオートマトンに過ぎないのかもしれない。
音楽の構成要素を、音高、音の長さ、音量、音色、そして、音空間などで定義して音の素材を解明したところで、精神の中で総合体として生じる実体をどう説明するか。それは、人間精神の実体が解明されるまで先送りされるであろう。もし仮に、それを AI が解明したとしても、AI は人間なんぞに答えを教えてくれはしないだろう。思考の鈍臭い構造物に付き合っている暇はないと...

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