短い時間に魂を燃え尽くして逝った人たちがいる。アルチュール・ランボー、ジョン・キーツ、ハート・クレインらが... 日本にも石川啄木、生田春月、中原中也らが... そして、ディラン・トマスである。
詩人というものは、つくられるものではなく、生まれ出るものらしい。何がこのような人種を創出させるのか。果てしない探求によって虚無感を自ら駆り立て、自我との対決から自己を破滅させる。この型の人間は、自ら破滅できる人々を引き寄せるかに見える。言葉への要求が高すぎると、そうさせるのか。朗読旅行へ出かけては交流会を催し、聴衆の愚鈍な質問にも愛想よく答え、モラリストを演じきる。お寺さんの法話会のごとく。説教好きのなせる業か。ソーシャルネットワークでは、いちいちコメントに反応するだけで気を狂わせるものだが、詩人ともなると、世界の救世主となることを期待する輩を相手にしなければならない。俗人と接触すればするほど、創作意欲を減退させていくとは。詩人にとって、朗読会の開催は義務なのか。書くだけでは不十分なのか。詩人が散文に救いを求めたって、いいじゃないか。芸術家が啓蒙家になる必要はあるまい。人間喜劇をわざわざ悲劇で演じることもあるまい...
「如何なる詩人も、自らの詩のなかにのみ生きることは出来ない。又その詩のみで生きることも出来ない。」
理想の言葉とは、意味と音調が完全に調和しているものを言うのであろう。それは、自己の度量で受け入れられる分には精神安定剤となるが、その度量を越えた途端に吐き気を催す。詩が分かりにくいのは、なにも読者を困らせようというわけではあるまい。芸術は抽象性とすこぶる相性がいい。普遍性に訴えると言葉を曖昧にさせる。崇高な言葉は概して曖昧に見える。
しかし世間は、あまりにも具体的な言葉を求めすぎる。明快さを求めすぎる。それゆえ疲れる。そして、神を信じない者が神を称える詩を読むことに意義を求めようとは...
ディランの浪費癖は酒のせいらしいが、酒で紛らわし... 愛に溺れ... この放蕩ぶりはなにも詩人の専売特許ではあるまい。死を思わずして詩が書けるのか。生とのギャップがそうさせるのか。いや、詩とは、死そのものの体現なのか。ウェールズ訛りの断末魔には、BGM にストラヴェンスキーの「放蕩児の遍歴」がよくあう...
「ぼくは自分の中に、野獣と天使と狂人を持っている。そしてぼくの究明は彼らの行為に関り合い、ぼくの問題は彼らの征服と勝利、また転落と異変であり、ぼくの努力は彼らの自己表現である。」
「誰が この迷路のなかで
この潮の満引と 鱗の小路のなかで
月がふくらませた貝殻のなかで 身をまるめ
魚類の家と地獄の上に畳まれた
倒れた町の船の帆へ逃れるのか
神の緑の神話にひれ伏そうともしないで?
塩の写真を 風景の悲しみをひろげよ
神の描いた油絵のなかで愛せよ
更に人間から鯨までを映し出せ
緑の子供が 聖杯のように
ベールと尾びれと火と渦まきを通して
時を 画布の小路の上に見ることが出来るように...」
「誇り高くして死ねず 破れ盲いて彼は死んだ
暗黒の道で。そして顔もそむけなかった
冷く優しき男は埋葬した誇りで勇敢であった
あの暗黒の日に。ああ 永遠に
彼よ朗々と生きよ 遂に臨終の時に
山を横切り草の下に恋し そこに生きよ
長い群の中で若く 迷うことも
静まることもなく あの死の遅き日々には...」
2019-06-16
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