人間である条件とはなんであろう。こんなことを自分に問えば、人間失格の烙印を押されちまう。ハンナ・アーレントも、随分と酷なことを...
しかし彼女は、これを問わずにはいられない時代を生きた。家は上層中産階級のドイツ系ユダヤ人。両親は知的職業の社会主義者。ただ、彼女自身は伝統的な宗教儀式から離れ、いわゆる若い世代に属していたようである。
マールブルク大学でハイデガーやブルトマンに学び、フライブルク大学ではフッサールに師事し、ハイデルベルク大学ではヤスパースに... そんな彼女にして、政治活動家へ向かわせた条件とは...
社会主義ユダヤ人の娘という立場は、ナチズムが猛威をふるう時代では特別な意味があったことだろう。パリへ亡命するも、フランス敗北とともに強制収容所へ。なんとかアメリカ政府が発行したビザを手に入れ、難を逃れるも...
市場経済が世界恐慌で醜態を晒し、民衆が自由主義世界に幻滅する中、隣の芝生は青い... と言うが、よその世界が良く見えるもので、社会主義がもてはやされたのも、そうした流れがある。
ハンナの場合、労働に価値を求める点ではマルクス主義的。だが、労働と仕事を区別する点では反マルクス主義的。隷属的な労働と職人的な仕事とでは、人間として意味するものがまったく違う。それは、21世紀の現在でも問われていること。なにやらヘーシオドス風の原点回帰を思わせるような... ルネサンス風の精神回帰を思わせるような...
しかしながら、人間ってやつは、知能があるゆえに、理性を纏うがゆえに、自己破壊への衝動を抑えきれない。その意味では、シュンペーター風の自業自得論にも通ずるような...
尚、志水速雄訳版(中央公論社)を手に取る。
ハンナの危機意識には、三つのものが見て取れる。
一つは、ナチズムとスターリニズムの台頭。巨大な暴力が世界を全体主義へと向かわせる。彼女の言葉には、革命の時代が来たと鼓舞するレーニンのような高揚感は見られない。
二つは、画一化した大衆社会。労働が大量消費と結びつき、世界を食い尽くしていく。芸術作品ですら保存の対象から消費の対象へ。
三つは、世界に蔓延していく疎外という精神現象。科学や生産技術の高度化が、人間というものを見失わせる。核兵器や人工衛星などの開発で、地球に拘束されない宇宙的な立場を確立し、ますます人間優越主義を旺盛にしていく。
「共通世界の条件のもとで、リアリティを保証するのは、世界を構成する人びとのすべての共通の本性ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。しかし、対象が同一であるということがもはや認められないとき、あるいは、大衆社会に不自然な画一主義が現われるとき、共通世界はどうなるだろうか...」
自己をしっかりと見つめなければ、社会像も曖昧になっていく。現実をしっかりと見据えなければ、理想像も空想化していく。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命である。ハンナの目には、20世紀に出現した大衆社会が、私的領域も、公的領域も消滅した世界に映ったようである。確かに、大衆(体臭)は臭い!「人間の条件」とは、人間の危機を物語った書というわけか...
生きるために人間は、実に多くの人工物を編み出してきた。組織、生産、技術、知識... そして、労働と。古代都市国家の時代、労働は奴隷のものであった。労働の力学法則ってやつは、文明がどんなに高度化しても、あまり変わらんようだ。いや、高度化するほど顕著になるのかも...
ただ、彼女の言う「仕事」という概念は、古代から受け継がれる「哲学する」という行為の延長上にあるような。仕事とは、金儲けだけのものではあるまい。喰うためだけの手段でもあるまい。ボランティアだって、立派な仕事。自己を見つめるための手段とするなら、いくらでも仕事は見つけられる。これぞ、私的領域というものか。
個人が仕事をすれば、何らかの関係を持つことになり、その先に、公的領域までも開けてくる。人がなんらかの活動をすれば、その反作用として同時に受難者となる。それが、活動の力学法則というものか。
この際、関係の対象が、物理的なものか、仮想的なものか、そんなことはどうでもいい。仕事とは、人間であるための手段というわけか...
「どんな活動においても、行為者がまず最初に意図することは、自分の姿を明らかにすることである。これは止むを得ず活動する場合でも、自分の意志から進んで活動する場合でも同じである。どんな行為者でも、行為している限り、その行為に喜びを感じるのはそのためである。というのも、存在するものは、すべて、あるがままの自分を望むからである。さらに、活動においては、行為者であることはいくらか拡張されるから、喜びは必然的にそれに従う... だから、活動が隠された自己を明らかにしないなら、いかなるものも活動しないだろう。」
... ダンテ
ところで、人間に生物的な存在以上のものがあるのだろうか。自然界の一員であることを忘れちまった生命体に。それを放棄しちまった存在に...
宇宙に存在するあらゆる有機体は熱機関として働く。人間だって、喰って排泄するだけの存在。エネルギーをやりとりするからには、物質同士で何らかの関係を持つことになる。
しかも、同族同士で結びつこうとする性質があり、周期表に並ぶ原子族同士でも分子構造を持たずにはいられない。物質がなんらかの関係を持とうとするのは、万有引力の法則がそうさせるのだろうか...
人間社会でも、この同族の性質は保たれたまま。アリストテレス風にいえば、人間は社会的存在ということになるが、同時に集団依存症を患い、生まれつき奴隷説は未だ健在ときた。孤独を忌み嫌うのは、物質の特性であろうか...
人間目的なるものを知っている人間が、この世にいるのかは知らん。神とやらに与えられた使命があるのかも知らん。ただ、そう思い込むことは簡単だ。思い込みは、経験から生じる。経験が人を賢くするのか、愚かにするのか。いずれにせよ、経験は人と共有できる。自分自身が経験しなくても、他人の経験から学ぶこともできる。
人工知能ともなると、大量の経験データを瞬時にダウンロードできる。データがなければ、バカすぎるほどの判断力しか示せないヤツが、大量にデータをダウンロードした瞬間から、人間を超えた能力を発揮しちまう。コンピュータ科学が唱えるデータ共有とは、夢と希望に満ちた概念かは知らんが、実に恐ろしい。失敗したデータから学ぶことを忠実に実行する人工知能。対して、失敗を恐れすぎるほどに恐れる人間、あるいは、失敗なんぞとっくに忘れちまう人間。人間であるかどうかの境界面は、このあたりにあるのだろうか。
コンピュータが人間に近づけば近づくほど、人間は自分自身に問わずにはいられない。人間とは何者か?人間の役割とは何か?そして、人間であるとはどういうことか?と...
「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪えられる。」
... イサク・ディネセン
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