善...
こいつを語るには、決まりが悪い。脂ぎった天の邪鬼な心には、後ろめたささえ感じる。いいことをして、それが人のためになったり、社会の役に立ったりすると、清々しい気持ちにもなるが、むしろ反発しちまう。まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
西田幾多郎は、若かりし日の考えを惜しみなく披露してくれる。善とは、人格の実現のことを言うらしい...
「善とは自己の内面的要求を満足する者をいふので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、之を満足すること即ち人格の実現といふのが絶対的善である。」
本書には、「統一力」という用語がちりばめられる。思惟、意思、判断... こうした認識現象は、すべて統一力の作用だというのである。実在とは、意識活動であり、意識活動とは、主観の統一力の働きによって成り立つものらしい。その背後にあるのは、自己の存在意識。自己の奥底から込み上げる防衛本能が、そうさせるのか。無数の自由電子の集合体である精神なるものが、ある種の秩序を形成する。喜び、怒り、悲しみといった感情の表れも、ある種の統合的な精神状態。自我の克服とは、内面に生じる複合的作用を統一する力を言うのであろうか。おいらは、この統一力なるものを、調和させる感性、バランスさせるセンス、均衡させる能力... などと解している。
ところで、意識統一なるものは、自覚できるものなのだろうか。自我ですら手に負えないというのに。まったく哲学者ってやつは、凡人にあまりに高尚なものを要請してきやがる...
統一力ってやつは、極めて主観的な能力であろう。ただ、主観に閉じ籠もっていても、その能力は引き出せまい。客観との協調によってしか。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命であろう。主観の統一に客観の統一、そして双方の統一... これが理性ってやつか。
しかしながら、様々な矛盾に遭遇すれば、統一よりも分裂の方が楽になれる。精神分裂症も、ある種の自己防衛本能が働いているのだろう。無理やり統一して息苦しくなるぐらいなら、矛盾はそのままにしておきたい。おいらは理性ってやつが、大の苦手ときた。
そもそも、認識能力の根底にあるものとは、なんであろう。西田幾多郎は「純粋経験」なるものを持ち出す。それは、心理的色彩をもっているらしいが、主観というよりは客観との調和、いや、主客を超越した概念とでもいおうか。なにやらプラトン風のイデア論を彷彿させる...
「経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験其儘の状態をいふのである。」
西田幾多郎は、宗教のあるべき姿についても言及している。宗教とは神との関係、あるいは神との関係を求めてのもの。ただ、神に見返りを求めるなど、真の宗教心とはいえまい。宗教は自己の安心、自我の平穏のためにあるということさえ誤っているのかもしれん。その意味で、宗教は真理的であり、極めて哲学的なような気がする。
宗教ってやつは、愛を最高善に掲げるが、元来、愛とは統一を求める情念を言うらしい。自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛であるという。神の作用が万物の統一作用であるなら、神の他愛はその自愛となる。そして、神の御前で主客の統一を見るのであろうか。となると、現存する宗教は、実に宗教らしくない!ということになる...
「宗教的要求は自己に対する要求である。自己の生命に就いての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが既にわれ生けるにあらず基督我にありて生けるなりといつた様に、肉的生命の凡てを十字架に釘付け了りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の交換、生命の革新を求めるのである。... {略)... かくして宗教的要求は、人心の最深最大なる要求である。」
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