2022-06-05

"市民論" Thomas Hobbes 著

人間どもは、人間にとって神か、それとも悪魔か...
人と人とが交流すると、互いに共感し合い、共同体なるものが形成される。だが同時に、互いに似た者同士が集まると、種族と種族とを比べ、国家と国家とを比べ、そこに優越主義が棲み着き、たちまち狼に変貌する。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体には、何かと比べなければ意識すら働かせることができないのだから、それも致し方あるまい。
それにしても、人間どもの帰属意識は如何ともし難い。どんな善人でも、協調意識を煽り、同族意識を煽り、これに宗教心が絡むと、寄ってたかって自由と平等を奪い合い、残虐行為ですら平然とやってのける。どんな賢者でも、感情を理性と思い違いし、憎悪を判断力と履き違える。孤独を必要以上に恐れ、集団の中で自己存在を肥大化させる人間どもの性癖は、如何ともし難い。
そして、人間どもとは距離を置く方が合理的に見えてきますが、いかがでしょう... ホッブズ先生!

アリストテレスは、「人間はポリス的動物である」と定義した。ポリスとは、自由市民が形成する共同体のようなもの。この集団社会で問われるべきは、自由市民に適った法の在り方と、それが自由市民たちによって制定されるプロセスである。自由市民というからには、奴隷ではない。単なる奴隷の管理人でもない。自由ってやつは、なかなか手ごわい。誰もが権利として主張するだけに、余計に手ごわい。卓越した個人によって、ようやく見えてくる観念だけに、さらに手ごわい。市民全体に卓越性を求めるとは、アリストテレスも酷なことを...

トマス・ホッブズは、もう少し現実的に、自由、命令権、宗教という観点から「市民論」とやらを語ってくれる。それは、共同体の在り方を問うているようなもの。自由権の観点から、自然状態や自然法、あるいは契約の役割を論じ、命令権の観点から、国家の条件や自己存在とその防衛、あるいは、権力や権利が生じる原理を論じ、これらの正当性を、宗教、すなわち、キリスト教の教義に求めている。
まず、人間というものを問い、次に市民というものを問い、最後にキリスト教徒としてなすべき務めが叙述される。権利や正義の由来は、キリスト教の本質に基づいていると...
尚、本田裕志訳版(京都大学学術出版会)を手に取る。

ホッブズは、絶対君主権の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。確かに、権力者に強い力を与えよ... 権力を分割すべてきではない... といった記述を散見する。臣民はその権利によって暴君を殺すことができる... という誤謬から、どれだけの善人だった王の命を奪ったことかと嘆き、君主権の正当性をキリスト教の法に求め、証明までやってのける。やや強引に...
ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼とはよく言われることだが、ホッブズの眼には民衆も狼に映ったことだろう。
まず、人間社会には名誉や体面をめぐる争いがあり、内紛や戦争の種には憎悪や嫉妬が絡む。すべては、自己存在とその防衛に動機づけられる情念。理性があれば欠陥も見えてくるが、欠陥は非難の種となり、理性者の猛攻撃を受ける。彼らは、本当に理性者なのか。理性は抑圧とも相性がよく、強制執行にもつながる。
となれば、理性こそが揉め事の種か。いや、それだけではあるまい。知性もまた、相手を蔑む情念を駆り立てる。進化するためには疑問をもつことも必要だが、疑問を持てば不満も生じる。
となれば、無知の方がましか。いや、無知は無知で扇動の種となる。結局、どんな情念をもってしても、人間は揉め事がお好き!群がる習性は如何ともし難い...

「人間の心を苦悩によってさいなむことの最たるものは、あらゆる事物の不足、もしくは生存と品位を保つために必要な事物の欠乏である。そして、富というものは勤労によって調達され倹約によって守られなければならない、ということを知らぬ者はないにもかかわらず、窮乏した人々はみな、まるで私財をすり減らしたのは国の取り立てのせいであるかのように、自分の怠惰と贅沢から国家の統治へと過失を転嫁するのが常である。」

しかしながら、キリスト教の法は自然法であり、市民社会で平和を保つには自然法だけでは不十分である。無論ホッブズもそれを心得ているから、法の制定とその運営を論じている。ただ、市民論のようなものを語れば、共和制の機能性を唱えることになり、晩年は、王党派から裏切り者呼ばわれもしたようである。
国家形態は、君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、権力と権利の在り方を問えば、どれも大して変わらない。仮に公明正大な君主がいれば、まったく問題なし。むしろ、民主制より機能するだろう。だが、権力ってやつは、一旦手に入れちまうと人を狂わせるもので、君主はことごとく僭主と化す。たった一人の君主でも不十分、周りが追従できる体制でなければ。となれば、理想高過ぎ感は否めない。
自然法は、民衆の合意事項ではなく理性の命令であり、なによりも自己に命令する。したがって、悪魔とは約定しないだろうし、啓示がなければ神とも約定しないだろう。こと集団社会では、理想が高すぎると暴走するもので、毒を以て毒を制すの原理が最も機能しやすい。これが権力分立の本音であろう...

道徳哲学者たちは、法の原理を倫理や道徳と結びつけて唱えてきた。自発的で自然な行為として、理性のないところに法の実践なし!と。
しかしながら、現実の法律は罰則によって機能している。自発的というよりは、受動的で、強制的で、威圧的ですらある。これに巻き込まれて、義務までも半強迫観念となる。
奴隷にも二種類あるらしい。信用されて多少の自由を享受する奴隷と、獄舎や足枷に縛られて労働を強いられる奴隷と。前者は主人に対して義務を負い、後者は義務なんぞ負う必要がないばかりか、義務なんて概念すら生じないだろう。自由市民はというと、やはり前者で、義務を負って自然法を遵守する立場。では、主人は誰だ?
自然法ってやつは、道徳法則のようなもので、これを機能させるには自分自身の持つ理性に頼ることになる。ただ、理性ってやつは脆い。実に脆い。自分の理性に自信を持った時点で、すでに理性は暴走を始めている。
しかも、理性は言葉と結びついて機能するだけに、言葉の道具にされやすい。似た用語に正義ってやつもあるが、これも扇動者の言葉の道具として悪名高い。ネット社会ともなれば、こうした言葉は気晴らしの道具とされ、言葉の嵐が吹き荒れる。
結局、神の言葉に縋るしかないってことか。しかし、神の言葉を耳にするには、資格がいるらしい。というより、神という概念を編み出したのは、人間の弱さの証しであろう...

「自然状態、すなわち統治することもされることもない人々の状態がそうであるような絶対的自由の状態とは、無政府状態であり敵対的状態であること、そのような状態を避けるための規制が自然の法であること、国家は最高命令権なしには存在することができないこと、最高命令権を保持している人々には、端的に、言いかえれば神の命令に反しないすべてのことに関して、服従しなければならないこと、これらのことは本書のここまでの部分において、合理的根拠と聖書の証言によって立証された。市民の義務の完全な認識のために欠けていることは、神の法ないし命令とは何かを知るという、この一事である。」

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