2022-06-26

"貨幣改革論 若き日の信条" John Maynard Keynes 著

おいらは、経済学が大っ嫌いだ!義務教育時代に思いっきり劣等感を押し付けられた国語よりも。だがそれも、天の邪鬼な性癖が救ってくれる。
どんな学問であれ、專門知識の前では誰もが素人... そんなことを言ってくれた学者は誰であったか。元々数学者であったケインズも、一般理論の序文で、これを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい... といったことを書いてくれた。天の邪鬼でも、こうした言葉には素直に耳を傾け、勇気づけられるのであった...

さて、論語読みの論語知らず... という格言があるが、ケインズ知らずのケインジアン... というのも見かける。どんな理論にも的外れな批判はつきものだが、これに負けじと的外れな擁護派も湧いて出る。どんな学問分野にも、哲学を引き継がず、手段だけを持ち出す事例はわんさとあるが、特に経済学は顕著に現れる。この分野が人間学に根ざしているのを置き去りにして。いや、人間集団工学がそうさせるのか。
ケインズが指摘したように、マクロ的な視点とミクロ的な視点でまるで景色が違うのも、この分野の特徴である。彼が「貨幣改革論」を発表したのは四十の頃。経済学者としては遅咲きであったことも興味を惹く。経済学という分野は、專門に特化した高度な知識よりも、総合的な視野に立った知識のバランスこそが鍵となりそうな...
尚、本書には、「若き日の信条」、「自由放任の終焉」、「貨幣改革論」、「繁栄への道」、「戦費調達論」の五篇が収録され、宮崎義一、中内恒夫訳版(中公クラシックス)を手に取る。

「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。経済哲学および政治哲学の分野では、二十五歳ないし三十歳以後になって新しい理論の影響を受ける人は多くなく、したがって官僚や政治家やさらに煽動家さえも、現在の事態に適用する思想はおそらく最新のものではないからである。しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなく思想である。」
... 「一般理論」より

本書の流れは、こんな感じ...
まず、「若き日の信条」では、G.E. ムーアの「倫理学原理」とラッセルの「数学原理」に没頭した熱き日を振り返り、ベンサム主義嫌いを露わにする。若き日のケインズの眼には、功利主義が弱者切り捨ての論理に映ったようである。
そして、「自由放任の終焉」では、マクロ的な貯蓄や投資の調整、あるいは、適切な人口政策を説き、「貨幣改革論」では、金本位制を猛烈に批判し、物価安定のための管理通貨制度の導入を提言している。当時、大蔵大臣だったチャーチルは、真面目に金本位制への回帰を唱えていたらしい。

「保守主義と懐疑主義はしばしば結託するものであるが、おそらくは、そのうえに迷信まで加わって、金はなお色香衰えず魅力を保っているのである。十九世紀の変動のはげしい世界にあって、金がその価値の安定の維持に成功したことは、確かにすばらしいことであった... だが、将来の状況は過去の状況とは異なる。戦前に均衡を保たせた特殊条件が継続すると期待する十分な根拠はないのである。」

また、アメリカ政府のドル本位制には皮肉を交える。金本位制を維持すると宣言しておきながら、実のところ、金の価値にドルの価値を一致させるのではなく、ドルの価値に金の価値を一致させるために巨額を投じていたという。現在でも、世界通貨という地位をめぐって様々な駆引きがあるが、大国の論理というヤツか...

「口先だけで金本位制を維持していた最後の国で金の非貨幣化が行われたのであり、黄金の仔牛に代わってドル本位制が祭壇に安置された... これは、新しい叡智と古い偏見とを結びつけることが可能な富裕な国のやり方である。」

「繁栄への道」では、公共投資による需要創出の効果と、さらに、各国政府が協調できる世界経済会議の開催を提案している。
五篇に渡って、総じて論じている点は、経済状況に応じて、政府がなすべき基準を定めよ!といったところであろうか。経済政策を論じる場面というのは、たいてい不況局面であろうし、政府の役割が大きくなるのも頷ける。言い換えれば、経済循環がある程度機能している時は、政府は口出しすな!とも解せる。
しかしながら、政治家ってやつは、いつも存在感を強調したがる連中で、好況な局面では地元選挙民へ予算を捻出したり、同調できる政策であっても他人がやると反対する立場をとったりと、なんでも自分の手柄にしないと気が済まないと見える。政治ってやつは、本来は裏方の仕事であり、やたらと政治家が目立つ社会は、あまり健全とは言えまい...

ところで、ケインズは、大きな政府論者の代表のように言われるが、それは本当だろうか。公共事業の推進者、あるいは、バラマキ政治の代弁者のような言われよう。
確かに、大きな政府は累積する財政赤字の元凶となるが、経済危機や大恐慌のような局面では、強力な指導力を持つ政府が必要となる。景気には波があり、どんなに好況であっても不況の業種が必ず生じる。一時的な傾向に無理やりケインズ理論を適応し、特定の業種に助成金をバラ撒いたりすれば、経済全体を歪めてしまう。「戦費調達論」では、彼自身も愚痴をもらす...

「私は、自由社会に全体主義的方法を適用しようとするものだという攻撃を受けてきた。だが、これほど見当違いの批判はありえない。全体主義国家にあっては、犠牲の分配という問題は存在しない。それは全体主義国家が戦争の際に有する本来の利点である。政府の任務が社会的正義の要求によって複雑になるのは、自由社会においてのみである。奴隷国家にあっては、生産のみを問題とすればよいのである。貧困層や老年層は運を天にまかせるほかない。支配階級が特権をほしいままにするうえに、これほど都合のよい制度はない。したがって、本書の目的は、自由社会の分配制度を戦争の制約に適合させる方法を探すことである。」

ケインズが、戦争経済という概念を唱え、経済的に犠牲の再分配を論じていたというのは興味深い。結果的に、「戦費調達論」はヒトラーの手で実現されたとの評価もあるが、そう単純ではあるまい。
ちなみに、当時の日本には、戦争経済なんて概念すらなかったであろうし、情報に疎い体質、または、情報が希望的観測に利用される様は、現在でも伝統的に受け継がれているように見える...

ケインズ理論は万能ではない。というより、人間学において万能薬というものは、おそらく存在しないだろう。
例えば、日本では、バブル崩壊後、長期不況の中で金利が低下しても、物価水準は低迷したまま。ゼロ金利政策を打ち出したところで、デフレと不況の同居という難病を抱えている。その処方箋は、より大規模な財政政策を発動すべきか?それとも、日銀がインフレ率に大胆な数値目標を掲げ、なんでもありの金融政策によって実質金利をマイナスまで引き下げるか?あるいは、まったく別の視点から、構造改革を地道に推し進めて潜在能力を引き出すか?
こうした現象は、ケインズが想定した恐慌や失業とは別物のように映る。実際、金利がマイナスにまで低下しても、民間投資や個人消費が停滞を続けるなんて、誰も想像できなかったであろう。右肩上がりで邁進してきたツケのような。豊かな社会が引き起こした反動のような。あるいは、戦後、八千万に満たなかった日本の人口が、一億二千万まで増幅したことへの警鐘のような...
人間ってやつは、金銭的な欲望がある程度満たされると、別の欲望が芽生えはじめる。それが、より高度な欲望への移行か、低欲望への回帰かは知らんが...

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