2022-06-12

"法の原理 人間の本性と政治体(コモンウェルス)" Thomas Hobbes 著

トマス・ホッブズは、権威主義や絶対君主制の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。政治体制は、アリストテレスがやったように君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、どれも根本原理は同じはず。つまりは、人間の本性に則ったシステムでなければ機能しないってことだ。ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼なら、民衆も狼ってか...
歴史を振り返れば、君主制は専制政治や独裁政治へ、貴族制は寡頭政治へ、民主制は衆愚政治へと変容してきた。ただ言えることは、民主制は貴族制よりマシだった、君主制より遥かにマシだったということぐらい。いまだ人類は、崇めるほどの政治体制を手に入れられずにいる。ならば、政治体制を問うより、統治そのものの在り方を問う方が合理的やもしれん。それは、人間とは何かを問うことになろう...
尚、田中浩, 重森臣広, 新井明訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書には、「自由」という言葉が散りばめられる。それは、人間が人間たるに最も必要な要素ということらしい。アリストテレスは、民主制の原理を自由精神に求めたが、ホッブズもこれを継承していると思われる。
但し、自由には制約がある。他人の自由を侵害しない程度に自由。この限りにおいて、平等と両立しうる。
そのための指針として、本書では自由精神と自然状態の考察に半分以上が割かれる。理性が命じる自然法が生起する様、あるいは、自然的人格によって生じる信約といったものを政治的人格に対応づけながら。自由といっても、個人の抱く自由は実に多種多様で、一筋縄ではいかない。だからこそ、人間の本性から論ずるべき、というわけか...
そして、その自然法から導かれ、それを補完するための市民法の在り方を考察する様を、前記事で触れた「市民論」の姉妹書として眺めている。コモンウェルスの成員相互の安全だけでなく、共通の敵に対する安全保障までも視野にいれるあたりは、やがて訪れる近代国家への布石か。いや、怪物リヴァイアサンへの布石か...

法の原理を問うにしても、対象のほとんどは愚人であり、戒律というより刑罰によって機能する側面が大きい。そもそも法とは、命令であり、自由とは対極にある。
それでも、市民法が自然法に適って制定されていれば、自由と矛盾しないばかりか、うまく適合できるという。自然法とは、道徳哲学を総括したようなものか。
本書は、自然法を聖書の言葉で確証しているが、宗教に頼るところに法の限界を見る。自由は自発的な情念に発するが、宗教は自発性としばしば対立するばかりか、盲信を歓迎する。
古来、知識は宗教と反目し、迫害の対象とされてきた。異端書とされたグノーシス文書、コンスタンティノープルで焼かれた多くの書物、知の女性ヒュパティアの虐殺など、枚挙にいとまがない。キリスト教の迫害を受けなければ、科学の進歩は千年早まったとも言われる。ホッブズは、異端審問にかけられたガリレオとも交流があったようで、当時、公にされなかったらしい。繰り返される記憶と知識の抹殺。これも人間の定めというものか...

ホッブズは、人間の弱さを指摘しながら、自発的に生きることを奨励する。評判に頼るのは、成功を遂げても自分自身の力によるものではない、と。術策や虚偽に頼るのは他人の無知に依拠している証である、と。怒りっぽいのも、祖先を自慢するのも自律性に欠ける、と。自分より劣った人と反目したり争うことも、戦争を終わらせる力が欠如している、と。つまりは、これらは自分の意志で生きていない証というわけである。
民主制を機能させるための重要な要素に、統治者の説明能力というものがある。ただ、雄弁とは、話を信じ込ませる能力にほかならず、宗教と似たところがある。現在でも、プレゼンテーションなどとスマートに呼ばれ、絶大な評価を受ける。自分の意志で生きていれば言葉に惑わされることもなかろうが、よほどの修行がいる。扇動者にとって、意志を持たない者が意志を持ったつもりで同意している状態ほど、都合のよいものはない。

ホッブズは断じる、「民主政は、実際には演説者から成る貴族政である」と。そして、統治者の力を強力なものにせよ!権力を集中させよ!承認された統治者の行為が罰せられることもない!と。このあたりの言葉を拾えば、絶対君主制の支持者と言われても仕方があるまい。
しかしながら、統治の正当性においては、国家は人民の合意によって構成されることを大前提とし、人民の生命の安全を保障することを最重要事項に掲げている。「統治の信約は、強制力が与えられていなければ安全を保障できない...」と。「安全の保障がなければ、いかなる私的権利も譲渡できない...」と。「民衆の福祉は至高の法という一語に尽きる。そしてこの言葉の意味するところは、民衆の生命の保存というだけではなく、一般的には民衆の便益と福利であると理解されるべき...」と。
結局、法の制定においては、政治体制を見るより、人間を見よ!ということか。これぞ、法の合理性というものか...

ところで、伝統的に哲学者たちが唱えてきたものに、徳治主義ってやつがある。そりゃ、清廉潔白で公明正大な統治者が居れば、それに越したことはない。この世にそんな人物が居たとしても、それを引き継ぐ者は愚人。理想郷は現実世界を歪め、却って厄介となる。
人間社会は、実に多くのパラドックスに看取られている。政治屋が不公平な社会制度を乱発すれば、金融屋が世界規模の経済危機に陥れる。愛国主義者が敵国をでっち上げれば、平和主義者もまた戦争や紛争を黙認する。教育屋は教養を偏重させ、友愛者は愛を安っぽくさせ、有識者は知識を振りかざし、理性者までも批判の言葉を浴びせかけ、大衆はというと誹謗中傷の嵐に煽られる。言葉ってやつは、学問を可能ならしめるが、その効用は、相互の情念を扇動することも、鎮静することもできる。
また、人間ってやつは、大きな権力を手にすると、必ずと言っていいほど傲慢になる。しかも当人が、それに気づかない。こうした性質は、人間らしさでもある。
感情を持ち、情念を持つことが、長所であり短所あるからには、理性や知性では解決できない領域がある。その領域では、理性や知性は却って論争の道具とされる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとっては、長所と短所、善と悪、正と邪といったものが、協調し、調和してこそ精神的合理性が得られるというもの。人間にとって自己評価ほど当てにならないものはないが、だからといって、それを怠るわけにもいくまい。この行為のみが自省へと導くであろうから...

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