2022-07-03

"モノここに始まる" John Beckmann 著

ここに収集された知識の群れは、分類すれば雑学ということになろう。いや、ウンチクのオンパレード!誰かからの又聞きの又聞きに、その又聞きの又聞きといった推定文体が押し寄せてくれば、まるで伝言ゲーム。
しかし、知識なんてものは、総じてそうしたものかもしれん。例えば、地球は丸く、自転しながら太陽の周りを公転している... なんて当たり前のことも、義務教育で叩き込まれただけのこと。自分の目で確かめたわけでもなければ、巷で馬鹿にされぬよう用心するばかり。疑うこともできなければ、宗教と何が違うのだろう。まるで、逆ガリレオ心理学、異端審問にでもかけてくれ!
そこで、ウンチクなら安心して疑ってかかれるし、なによりも好奇心を焚きつける。すべての物事に始まりがある。その根本にある動機は、やはり好奇心か。健全な懐疑心を保ちつつ知識を豊かに調和させるには、ウンチクあってこそ。好奇心が後押しすれば、どんな突飛な発想も受け入れられる...
尚、今井幹晴訳版(地球人ライブラリー)を手に取る。

本書が扱う題材は、あまりに多種多彩で目が回る。日用品では洗濯石鹸や黒鉛の鉛筆... 経済観念では複式簿記や錬金術... 発明技術では蒸気機関や携帯時計... 自然物ではチューリップや電気石... 嗜好品では手品や機械人形... 制度では公衆衛生や金融... と、仕込まれたネタは実に四十数個にのぼる。
博物学とやらが、いつの時代に始まったかは知らんが、古代ギリシア時代にその源泉を辿ることはできよう。万学の祖と称されるアリストテレスは、形而上学、倫理学、論理学、自然学、政治学など、多岐に渡って学問の道を切り開いてくれた。叡智とは、総合的な知識を得、それらを調和させることにあると言わんばかりに...
しかしながら、知識を深めれば、高度に専門化していくは必定。学問分野は多岐に渡って細分化され、時代とともに総合的な調和を求めることが難しくなっていく。
そして、ヨハン・ベックマンの試みに、学問の始まりに立ち返って博物学の始原を見る思い。なにごとも、その本質を知りたければ、事の始まりを探求すること、という考えは一理ある...

ベックマンが生きた時代は、18世紀後半。ヨーロッパでは実験科学が脚光を浴び、理論的な仮説から脱皮して実証的な見解が重要視されていく。彼は、ヨーロッパ圏の十ヶ国語を修得して暗黙の言語パスポートを手に入れ、実際に各地で見聞したものと古代文献とを比較しながら見識を広げていったという。
例えば、スウェーデンでは、鉱山での作業を通じて、鉱石や地質についての研究に没頭したとか。当時、石炭を始めとする鉱石が物事を動かしたり、変化させたりする原動力とされ、科学者たちが化け学に群がった。かのニュートン卿までも錬金術に執着したことは広く知られる。
本書では、天文学で惑星の名と金属の名の関連性に執着し、物質の根源を金属原子に求めるあたりは、周期表でエネルギーの根源を探っているようにも映る。時代の象徴を元素で表すならば、現在はシリコンといったところか。その視点は、唯物論的であり、機械論的であり、これを構造主義の始まりと見るのは行き過ぎであろうか...
また、経済学では、一般的なものと違い、民族学的であり、生態学的であり、さらに宗教的慣習までも含んでいる。これを厚生経済学の始まりと見るのは行き過ぎであろうか...
ベッグマンの思考回路には、物質面では原子論に立ち返り、社会面では人間の本性に立ち返る、といったパターンがあるようだ。そして、すべての始まりが人類の叡智によってもたらされ、すべての物事が自由と欲望に看取られていたとさ...

1. 文明人とは、文明の重荷を背負う人種か...
人口が溢れていくと、多種多様な職業が生まれる。技術で収入を得る者、人を楽しませて収入を得る者、人の苦しみを和らげて収入を得る者、そして、人を騙して収入を得る者など。
手品のように、太陽によってできる影、不思議な力をもつ電気、身体を映し出す鏡、金属を引きつける磁石など、自然現象を利用して大袈裟に演出して魅せれば、根拠のない迷信や秘跡、呪いや魔術といったものにのめり込む。火を使って感動を呼ぶ芸も多く編み出され、口から火を吹き出したり、花火職人もその類い。現在ではイルミネーションなどとお洒落に呼称される。
こうした芸は神をも恐れさせ、聖職者たちが実験科学に目くじらを立てるのも頷ける。そして、伝統あるメディチ家に枢機卿という特権を与え、科学の進歩を抑え込もうとした。人口密度が過剰になれば、娯楽が多様化する反面、働く機会を失う者も増え、犯罪も巧みになる。すべては人口論に看取られているのであろうか...
「文明社会は、子孫の繁栄という本能的な強い衝動を、どのように幸福に結びつけていったらよいかを教えてはくれず、結婚を苦しみに満ちたものにしたり、重荷にさせてしまう。文明から遠くへだたった未開の地に住んでいる人々は、このような悩みがないようだ。」

2. 価値あるブツには偽物が出回る...
価値が本当にあるかどうかは別にして、価値があると認められたものには偽物が出回る。添加物という発明品は、もともとはワインの味を台無しにする酸味を抑えるためのものであったが、やがて食品添加や食品保存などの本来の目的を見失い、俗悪な味を誤魔化すために用いる悪質業者が出現した。
庭を飾る優雅なチューリップは、貴族階級の象徴とされて価値が高まると、やがて市場で投機の対象となり、チューリップなんぞに興味のない連中までも先物相場に群がった。チューリップ狂は、経済学で忌まわしい記録として語り継がれ、市場価値の脆弱性を物語ってくれるが、今も尚、対象物を変えながら受け継がれている。
社交界で貴婦人たちが真珠の美しさを競えば、人造真珠を発明する者が出現した。ところで、真珠って本当に酢に溶けるの?クレオパトラ伝説が本当かどうかは知らんが、彼女は恋人と賭けをし、酢に漬けた真珠を自ら飲み込んで見せ、見事に賭けに勝ったとさ...
すべては価値の欺瞞か。現代風に言えば、価値の仮想化!うん~... 実にうまい言い方である。
錬金術もその類いか。古くから、物品を高価に見せるために金メッキという技がある。これに使用するアマルガムの性質を、古代人はよく知っていたそうな。多量の水銀を金属に練り合わせるとペースト状になり、これがアマルガムってヤツ。水銀は、金属と簡単に混じり合うが、土と混じり合わない性質があり、加熱すると蒸発するので、金や銀を含む鉱石などの物質から貴金属を分離するのに利用できる。金メッキの場合、アマルガムを塗って水銀が蒸発するまで加熱すれば、表面に金だけが残るって寸法よ。
現在では、水銀が有毒であることが知られ、歯科医院では歯の詰め物にも使われてきたので健康被害も囁かれる。
また、超伝導体としても知られ、最先端技術への応用が期待されるばかりか、古代遺跡でも発見され、考古学的にも意味深い存在となっている。
いずれにせよ、人類の叡智は、善にも悪にも作用する。どんなに優れた技術も、悪用は避けられそうにない...

3. なぜ記録をつけるのか...
記録をつける行為が、歴史の礎となっているのは確かである。日記をつける習慣は古くからあり、現在でも思い出を写真や動画に残したりと。それで生きた証しを残そうってか。死を運命づけられた知的生命体は、未練がましいってか。
ただ、記録が正確だとは限らず、欺瞞や誤謬がつきもの。忌まわしい過去に至っては抹殺されてきた。
古代ギリシアでは、病気にかかって健康が回復すると、その症状や治療法について書き記し、医術の神アスクレピオスの神殿に納めたという。この記録は、医学の父ヒポクラテスも利用したと言われる。
一方で、伝染病に関する検疫制度や防疫制度の記録はお粗末らしい。そんな記録を残せば、忌まわしい病の発祥地が、わざわざ自分の土地だと宣言するようなもので、国家の思惑が絡んできたことも想像に易い。
例えば、ペストについては、トルコ人はエジプトからきたと信じ、エジプト人はエチオピアから持ち込まれたと断言する。もちろんエチオピア人だって...
地理的には、レヴェント近郊のトルコと、トルコと頻繁に交易した地域で何度も発生しており、これらの国々で検疫制度が確立されたと言われる。それで、新型コロナの震源地はどこかって?そんなことは知らんが、政治的駆け引きは相変わらずのようである。
人間社会では、善であろうが、悪であろうが、情報は操作される運命にある。陰謀や謀略で用いられる医薬品に、秘毒というものがある。飲んだ人に気づかれぬよう軽い持病のような感覚を植え付け、徐々に生命を弱らせていく毒薬である。
十七世紀のイタリヤとフランスほど頻繁に造られ、巧みに使用された時代はないだろうって。いや、病気がなくなれば医者は儲からないし、秘毒だけにいつどこで仕込まれるやら。国家が関与すれば、隠蔽工作や文書改竄なんぞお茶の子さいさい。
ちなみに、あぶりだしインクの歴史は古く、古代ローマの詩人オヴィティウスは、親の目を忍んで恋人に手紙を書く手法を述べているという。恋文に暗号文の始まりを見る思い。セキュリティシステムだって適当に穴を仕込んでないと、誰もアップデートしなくなり、経済的に立ちゆくまい...

4. 人間の心理学には損得勘定が働く...
金銭感覚に貸し借りのバランスシートが根付いたところで、心理的には見返りの原理が働き、利息は膨れ上がるばかり。これが、イタリア式簿記、すなわち複式簿記の本性か。
そもそも宗教には施しの原理が働く。そして、貸し借りといった行為も、そうした慣習から始まったのであろう。ただ、孤児養育所などに入所する子供を集めるのはそれほど難しくないが、親代わりとなって面倒を見る人を集めるのは極めて難しい。
宗教では悪書は禁書とされるが、悪書が戒めとなったり、反省を促すところがある。善行が社会に必ず良い影響を与えるとは言えないし、盲目を奨励するところがある。貸し借りも、善悪も、そして、様々な知識にもバランスシートが必要やもしれん...
「キリスト教は慈愛や慈悲を人にほどこすことを信仰の中心にかかげているため、じつは血も涙もない残虐行為であるのに、それとは気づかずに善行であると思って押し付けることがある。かと思えば、貧困な人々に対してはいたって寛容で、あまりにも寛容すぎるために、かえって貧困者を増やしてしまう事実は否定できない...」

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