2022-11-13

"寺社勢力の中世 - 無縁・有縁・移民" 伊藤正敏 著

日本の文明や思想の源流は、その大半が中世の寺社にあるという。中世の寺社は、古代の寺社とも近世の寺社とも似ても似つかぬものだとか。それ故、学会では特に「中世寺社勢力」と呼ぶそうな...

古代に創建された東大寺、興福寺、延暦寺、高野山などが中世には変貌を遂げ、最先端技術、軍事力、経済力などを背景に、その勢力は幕府や朝廷を凌駕していたという。
信長の叡山焼き討ちの例を一つ挙げても、政治権力者たちは、何故、そこまでの惨殺行為に及んだのか、ずっと疑問に思ってきたところ。神や仏を後ろ盾にした思想が、しばしば権力とぶつかり、それが目障りだったことは確かであろう。だが、それだけか。別の何かを恐れてのことか...
寺社といえば、僧侶を中心とした仏教団体をイメージしてしまうが、ここでは宗教的な意味合いを超えた、もっと合理的な組織としての様子が伺える。

中世の自治都市といえば、堺の町を思い浮かべる。執政官により治められる自由都市として、イエズス会宣教師によって西欧に紹介され「東洋のベニス」と呼ばれた町である。そこには勝者も敗者もなく、堀によって他勢力を寄せ付けず、人々は平和に暮らしていると。しかも、当時の最新兵器である鉄砲の最大流通路でもあった。堺の町は、代わる代わる時の権力者が支配にかかったが、あらゆる政治的駆け引きをもって屈せずにきた。堺焼き討ちの日まで...
これに似た自治都市が日本には無数に点在したという。自由精神ってやつは、抑圧するほど反発する性質がある。21世紀の今でも、抑圧的な政治権力ほど、常に民衆を監視せねばならないという奇妙な理屈がつきまとう。独裁的な人物ほど民主的な風土を恐れると見える...
尚、伊藤正敏は、この寺社勢力を「境内都市」と呼んでいるが、どうも気に入らないらしい...

「境内都市というのはどうも語感が悪い。よい言葉を思いつかないので使っているが、自分でも気に入っていない。学会では境内町と呼ぶ人がいるが、門前町と似た小さな町のイメージがあり、日本の経済センターを呼ぶ言葉としては弱い感じがする。最後になるが読者にお願いがある、よいネームを考えていただきたい。よろしくお願いします。」

近代国家という枠組みが出来て以来、たいていの人は生まれてすぐ様、この枠組みに編入される。そこに自由はない。おまけに、疑問すら持たない。まさに奇跡的な自動化システムである。その裏で、社会に馴染めず孤立していく人々が少なからずいる。どんな集団社会にも、退避する場がいる。距離を置く場がいる。無闇に絆を煽る社会では、尚更。孤独ってやつは、集団の中にこそある...

中世にも、幕府や領主の元で主従関係を結ぶという枠組みがあり、同時に、はみ出し者の避難所も自然発生した。寺社の役割は、信仰的な救済だけでなく、村社会から追いやられた者、犯罪を犯して逃げ惑う者、政権争いに敗れて流人となった武士などの駆込み場ともなっていた。この場には、農民、職人、商工業者、武士など身分を超えた人材が集まってくる。大袈裟な見方をすれば、移民たちで活気づくアメリカ合衆国のような雰囲気さえ感じる。
避難民たちは過去を断ち切りたい。身分を捨て、生まれ変わって出直したい。国家に属す社会を有縁所だとすれば、社会を拒絶した無縁所。そこには夢と希望が溢れ、中には過去の栄光を取り戻さんがために、一時的に退避した武士もいる。
身分や家柄に囚われなければ、自然に能力主義が育まれ、才ある者が指導者となる。様々な書物に明るい僧侶の教えに導かれ、智慧が智慧を呼ぶ。自由な経済活動に自由精神の源泉を見れば、身分に囚われない組織構造に民主主義の源泉を見る思い...

しかしながら、自由放任ってやつは、やがて弱肉強食の性格を露わにする。議会制にも似た決議方式は、平等を建て前にすれば、難なく運営できよう。寺社ともなれば、神の前で平等が前提され、尚更。だが、集会や議会といった類いには派閥が蔓延り、事実上、派閥のボスが決定権を持つことに。まさに現代の縮図を見る思い...

「境内都市は、民主主義というより大衆社会の特徴が目立つのだ。外見上の議会制度をもち、民主主義的約束がありながら、議論を尽くした結果とはいいがたい決定が出る。皮肉なことにこれも現代大衆社会に酷似する。」

本書は、「国家 = 社会全体」という図式は、陥りやすい思い込みであると指摘している。では、現在の国家の概念はどうであろう。国家主義や愛国心と距離を置く人は多い。グローバル社会ともなれば、尚更。それは、他国を蔑むことによって自国を美化する連中の集まりにも映り、郷土愛のような自然に発する思いとはまったく別物に感じる。
そして、ネット社会にも、誹謗中傷の荒れ狂う裏で、無縁の仮想空間が拡がる。エンジニアの世界にも、企業や組織に所属せず、在野に生きる人たちがいる。オープンソースの世界には、ボランティア的な活動に励む人たちが多い。ひたすら自らの技術を磨こうと。ギークにも、ホワイトハッカーにも、そうした傾向を見つける。こうした世界も、ある種の無縁所に映る。
そして、21世紀の今、組織に所属する意味が問われる時代へ回帰するかに見えるのは気のせいであろうか。現在と中世とでは、無縁の概念も随分と違うであろうが、いつの時代でも無縁所の役割は大きいと見える。誰もが馴染める理想郷は、おそらくこの世には存在しまい...

ところで、日本の中世とは、いつ頃を言うのであろう。学校の教科書には、鎌倉幕府の成立(1185年)から室町幕府の滅亡、すなわち信長が将軍足利義昭を追放した時点(1573年)、とあったような。そう簡単に何年なんて割り切れるものではあるまい。学会でも、様々な論説があるようだ。
例えば、始まりの一つに、院政の開始とする説。すなわち、平安時代の摂関政治が衰え、白河上皇が実権を握った頃(1086年)。
終わりの一つに、信長が入京し、すでに将軍が死に体となった頃(1568年)とする説など。
しかし本書は、いずれのパターンとも相容れない。こと歴史では、政治権力者が主役を演じる表舞台に注目しがちだが、ここでは庶民に着目した裏舞台に注目している。
まず、始まりは... 1070年2月20日。祇園社が鴨川西岸の広大な地域を「境内」とし、朝廷から不入権を認められた日。これが京における無縁所の第一号というわけである。
そして、終わりは... 1588年7月8日。秀吉が刀狩令を布告した日。農村の武装解除として知られる法令は、全国レベルでの兵農分離を意味するが、同時に寺社に対しても適応されたという。つまり、無縁所の武装解除をもって終焉というわけである。

「人間には、縁などより先に、生の生活、生の感情、自然の尊厳がある。これを積極的価値として位置づけられたのが自然権思想である。縁切りとは、縁のために損なわれた人間の自然権を回復しようとする試みの、第一歩としての逃避である。その人々の思いが作り出した、非制度的制度こそが無縁所なのだ。中世とは、無縁所の時代だ。無縁所が息づいていた時代、これこそが中世である。開始は一〇七〇年、終了は一五八八年だ。」

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