2022-11-06

"読書論" 小泉信三 著

読書スタイルは、十人十色。読書を論じ始めると、独り善がりにもなる。そして、体験談となるは必定。読書家が論じれば、それに興味を持つ人もまた読書家であろうし、類は友を呼ぶ... とは、よく言ったものである。今更、読書の有用性を説いても詮無きこと。読書の悦楽なんぞ語るまでもあるまい。個々の思い入れに委ねるばかり。とはいえ、何を読むかとなると、達人の意見も聞いてみたい。クチコミやオススメの嵐が吹き荒れる社会では、特に...

たいていの読書家は精読を勧める。本書も例に漏れない。但し、ある程度多く読むことも勧めている。本当は、精読が正論なのであろう。しかし、人生は短い。速読術を会得したいところだが、それには鍛錬がいる。
合理的に生きるために、まずは良書を読むこと。良書を読むには、悪書を読まぬこと。とはいえ、悪書を知らずして、良書を知ることも叶うまい。有意義に生きるためには、無駄な生き方も学ばねば。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体の、いわば宿命。対義的な表現では、論語読みの論語知らず... ってのもあるし、マルクス読みのマルクス知らず... ってのも耳にする。
ちなみに、おいらはマルクス知らずのマルクス嫌いで、本書が高く評価している「資本論」は、いまだ手が出せないでいる。その第一巻第一篇が要約される「経済学批判」を読んだ時は感銘を受け、少し近づけそうな気がしたが、「共産党宣言」を読んで思いっきり引いてしまった。ToDo リストには未練がましく居座ってやがるけど...

ゲーテは「ファウスト」の中で、聖書に記される「始めに言葉ありき」という文句を「始めに行動ありき」と改めた。神は言葉で善悪のすべてを掌握できるらしいが、人間は自ら行動してみないと、なかなか善悪の判断もできない。技芸の道には、習うより慣れよ!という格言があり、プログラミング言語の修得でもおまじないとされる。言い訳じみた言葉を探す前に、やってみよう!学ぶとは、そういうことなのだろう。
とはいえ、大著を前にすれば、やはり尻込みする。まずは一冊、じっくりと、一ヶ月ぐらいかけて。すると、その経験が基準になって読書体力がつき、恐怖心も薄れていく。興味のない本に手を出しても苦痛が残るだけ。読書空間には、常に自由な空気を充満させておきたい。ノルマなんて無用!抑圧的なものはすべて排除!それで、何のために読むか?って。そこに本があるから...

さて、本書は、何を読むべきか、如何に読むべきか、について助言し、何を如何に読んだかを物語ってくれる。読書範囲は好奇心とともに拡がっていく。好奇心は、まずは認識すること、まずは知ることに始まる。興味ある一冊を読み、心を動かされるものがあれば、そこから引用や参考文献を辿る。
貧乏性のおいらは、買った本の活字を隅々まで拾わないと気が済まない。そんな面倒臭い性分が大嫌い。一冊を読むのに思いっきり時間を浪費し、多くを読むのが大の苦手ときた。
しかしながら、活字を拾うのと精読とではレベルが違う。
そういえば、丸谷才一が書いていた... まとまった時間があったら本を読むな。本は原則として忙しい時に読むもの。まとまった時間があれば考えよ!... と。
本書の立場も、読書は目的ではなく、あくまでも思考のための手段の一つ。考えるために本を読む!といったところか...

「読書の良習慣はしばしば読書家の悪癖と相隣りする。よく読書するものに往々自ら見、自ら考えるに怠惰なものが少なくないのは惜しむべきことである。」

また、再三反復して読むことを勧めているが、これが一番の難題やもしれん。気に入った音楽なら何度聴いても飽きないし、映画だって感動すれば何度だって観ちまう。なのに、本となると。二度、三度と読み返していくうちに、新たな境地が開けるかもしれないのに...
学生時代に読んだ「論語」は、いつか読み返そうと思いつつ、三十年が過ぎた。自分のテーマ曲のような本といえば、プラトンの「饗宴」あたりになろうか。いや、キェルケゴールも捨てがたい。いやいや、カントも、ゲーテも、シェイクスピアも... うん~、一生悩んでなさい!しかし、こういう悩みは楽しくて、いかんわ!

「殊に複雑な構造を持つ交響曲の如きは、始めてただ一回それを聴いて、直ちにその美しさ或いは大さの全体を解し、味わうというごときことは到底あり得ない。名曲は反復して聴くべきものであり、それによって始めてその真価を知り、或いはいよいよその真価を知ることが出来る。そしてまた、斯く反復して聴くに堪えるか否かということが、その真価の最も確実なテストとなる。」

さらに、せっかく読んだ内容を忘れちまうのではもったいない!というので、理解を深める目的で、読書覚え書きを残すことを勧めている。自分で文章に起こすとなると、熟考しないわけにはいかない。
だが、そのために言語力が問われ、更に面倒な課題をつきつけられる。言語力をつける方法の一つとして翻訳を勧められたり、言葉を合理的に記述する難しさを思い知らされたりと。
まさか!読書論を読んで、文章論をつきつけられようとは...

「畢竟推敲がいかに大切であるかというに帰着する。推敲とは唐の一詩人が僧敲(ハク)月下門としようか僧推(ハス)月下門としようか迷って苦心したというところに由来するという、その語源も示しているように、いかに適当の場所に適当な言葉を用いるかの吟味選択を指していうのであるが、篩にかけて字句を捨てることは、その最も重要の部分をなすものと知るべきであろう。」

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