2023-06-18

"精神科治療の覚書" 中井久夫 著

精神病棟をイメージさせるものに、鉄格子の窓や施錠された扉といったものがある。正気と狂気の境界として。それは、異常者を隔離するためのものか。それとも、純真な心の持ち主を保護するためのものか。そして、自分はどちらの側にいるのか...


精神病とは、どんな病を言うのであろう。一般的には、心の病と認知されている。心とは、なんであろう。漱石の「こころ」を読めば、それが傷つきやすいものということは分かる。しかし、心ってやつは気まぐれだ。はずんだり、沈んだり、いろいろしやがるし、こいつを正気に保つことは難しい。

身体の持ち主が、一度も身体を病まずに生涯を終えるとは考えにくい。ならば、精神の持ち主が、一度も精神を病まずにいることの方が異常やもしれん...


しかしながら、自分自身の精神が異常だと認めることは難しい。自己の存在否定にもつながる。日本の村社会では世間体も気になるところ。精神科にかかる人は、藁をも掴む思いであろう。

お座なりの精神安定剤を処方して、とっとと追っ払われるに違いないと思いつつも、あなたは何でもない!と追い返されることの少ない科ではある。分かるよ!分かるよ!なんて安易な慰めは、分かってたまるか!と却って意固地にさせる。

患者が口にしていないことまで言い当ててしまう医者もいる。しかしそれでは、すべてお見通しよ!と威圧感まで植え付けてしまう。

あらゆる病気で言えることだろうが、患者が主役でなければ、病に立ち向かうことも難しい。難病では尚更。死にたいと言っている患者の看病は辛い。死を目前にしてホッとすることすらある。

どんなに優秀な医者でも、患者の協力なしでは仕事はできまい。人間の精神を相手取るのにプロもアマもあるまい。精神科医とは、精神から距離を置くことのできる人を言うのであろうか。となれば、人間離れした職業と言えそうだ。精神にのめり込んだベテラン患者の方が当てになるやもしれん。そして、ニーチェやカフカの狂気にこそ救われる...


「病人でいることの方がまだしも幸せで、病気が治ればもっと過酷な運命が待っている人はたくさんいる。そういう人が積極的に治ろうという気を起こさないからといって責めることはできない。いわゆる『二次的疾病利得』と真っ向から戦って勝ち味はない。それは、人間の本性そのものと戦うことであろう。病気は不幸だが、世の中には病気以上の不幸も多いことを医者は忘れがちである。だから、『安心して病気が治れる』条件をつくるように、本人と話し合い、周囲に働きかけ、理解を求めることは、身体病の治癒を早めることが少なくない。」


本書は、患者と家族と医師の呼吸が合うか合わぬかを問題視している。治療は契約ではなく、合意に始まるという。そして、治療のテンポとリズムは、「律速過程」に注視せよ!と。

律速過程とは、いくつかの過程からなる複合的な過程がある場合、その進行速度は最も遅い素過程で決まるというもの。たいていの家族は焦り気味で、医師もそれに釣られる傾向があり、置いてけぼりを喰らうのは、いつも患者本人。分裂病ともなれば自己主張は極めて困難であり、周りの誰か一人が自己主張を強めれば悪循環となる。

問い掛けが、人を追い詰める。論理が人を追い詰める。論理思考の自己管理は意外と繊細で、強要すれば、さらに追い詰める。そして、患者も、医師も、家族も、弁証法的になっていく。つまりは、あらゆる矛盾とどう向き合っていくかってこと。

古くから、医者は哲学者であるべき!という考えもあるが、一理ある。とはいえ、人生の在り方なんそを問えば、回復過程が目的論に、因果論に、運命論に... 侵されていき、人生にうんざりする。

会話では、良き聞き手になれ!との助言をよく耳にするが、「聴く」と「聞く」では態度に違いがあるという...


「『聴く』ということは、聞くことと少し違う。病的な体験を聞き出すことに私は積極的ではない。聞き方次第では、医者と共同で妄想をつくりあげ、精密化してゆくことになりかねない。『聴く』ということは、その訴えに関しては中立的な、というか『開かれた』態度を維持することである。」


注目したいのは、患者と接する態度に「沈黙」を重要視している点である。人間の最も説得力のある態度は、沈黙やもしれん。それは二千年前、ゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動に見て取れる。

だが、この態度が最も難しいことは、三千年紀を迎えた今日の有識者たちの態度を見れば分かる。沈黙とは、孤独においてのみ機能するものなのか。いや、それはそれで独り言がうるさくてかなわん...


「おそらく、患者をことばで正気を証明せねばならないような状況に置くことは、患者の孤独を深め、絶望を生む。孤独な人に対して、それをことばでいやすことはできない。そばにそっといること、それが唯一の正解であろう。患者のそばに黙って三十分を過ごすことのほうが、患者の『妄想』をどんどん『なぜ』『それから』『それとこれとの関係は?』ときいてゆくよりずっと難しいことであるが...

なぜ、患者のそばに沈黙して坐ることがむつかしいのだろう。むつかしいことは、やってみればすぐ判る。奇妙に、しなければならない用事、待っている仕事、などなど思い出される。要するにその場を立ち去る正当な理由が無限に出てくるのである。このいたたまれなさを体験することは、精神科医となってゆくうえで欠かせない体験として人にすすめている。」


何事にもリスクはつきものだが、精神科医でいることにもリスクがあるという。それは、患者に対するリスクと自分に対するリスクであると。

すべての治療行為が試行錯誤のうちに施され、患者に対して負荷テストの意味を持つことは避けられない。患者がいかに好ましいと思っていても、その意味は変わらない。精神とは、それほど得体の知れないものだ。

対して医者はというと、カリスマ症候群に罹るケースも珍しくないらしい。そして、患者とカリスマ者は鏡像関係にあるという...


「患者は思考が吹き込まれる。カリスマ者は自分の思考を人に押し込む...

患者は自分の思考を抜き取られる。カリスマ者は他者の思考を奪う...

患者は自分をとがめる声を聞く。カリスマ者は他人をとがめる声を放つ...

患者は外部から自分が操られる。カリスマ者は自分が他者を操る...

患者は幻影を抱く。カリスマ者は他人に幻影を抱かせる...

患者は被影響体験をもつ。カリスマ者は他人に影響を与える快適な体験を自覚する...」 

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