2023-08-27

"ジャック・デリダ入門講義" 仲正昌樹 著

精神を相手どれば、難解な認識論に放り込まれ、次々と造語が編み出される。哲学とは、そうしたものか...

人間の意思には、認識できる領域と、認識できない領域とがある。後者は思いのほか広大であるばかりか、精神そのものが得たいの知れない存在ときた。
そこで、疑問に思う。
「精神」という用語に、誰もが同じイメージを抱いているのだろうか、それで論争は成り立っているのだろうか、と。「精なる神」と書くぐらいだから、なにやら霊感的なものを感じる。おそらく、こいつを論ずる者は、人間は心のある生き物!魂のある生命体!といった定義が前提されるのだろう。それも確信をもってのことかは知らんが...

精神を相手どれば、どんな言語を用いるにせよ、言語体系の限界に挑むは必定。ある時は、ニュアンスの違いを穴埋めするために。ある時は、まったく違う概念を説明するために。またある時は、論争相手を追っ払うために。すべての中立な立場にあるメタ言語なるものが、この世に存在するかは知らん。あるとしたら、数学ぐらいであろうか...

デリダの場合、脱構築、差延、代補、現前の形而上学、エクリチュール、痕跡、パルマコン、コーラ、パレルゴン、憑在論... といった定義の難しい用語のオンパレード。おまけに、 文学風レトリックが多重に絡み、まるでゴルディオンの軛。それは、マニアックな読者を誘うための演出か。あるいは、上っ面な論者を排除するための技法か...
難解な書ってやつは、ほんの一部分だけでも理解した気分になれれば、それだけで達成感が得られ、その感情連鎖がたまらない、麻薬のような存在ではあるのだけど。いや、無力感もなかなか。おいら、M だし!
それにしても、こいつが入門書だというのだから、頭が痛い...

「従来の左派的なテクストは、文体や用語は難しくても、批判の対象とゴールがはっきりしていたので、一定の国語力さえあれば何となく理解することができた。しかしポストモダン系のテクストは、そもそも何をテーマにしているのかさえ分からないことが少なくない。」

さて、ジャック・デリダは、アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。ホロコーストの時代を生き、民族を焼き尽くす炎に、精神の内から燃え上がる炎を重ねて論じて魅せる。
古来人類は、街を焼き、建物を焼き、書物を焼き、そして、人間を焼いてきた。三千年紀が幕を開けると、そうした焼却行為の伝統は、仮想空間での大炎上として受け継がれる。人体を焼くよりマシか。いや、手段が巧妙化しているだけに、余計に厄介やもしれん...

「ヨーロッパの知識人は、その『精神』の名において、ナチスとかファシズム、唯物論、ニヒリズムなどの『野蛮』に対抗しようとしてきたわけですが、それに対してデリダは、その『精神』というのは、実は、『炎と灰』をもたらす『神の霊』、ユダヤ人を燔祭の犠牲として要求した『霊』、ヨーロッパに取り憑き、祓ったはずなのに何度も何度も戻ってくる『亡霊』と同じではないか、と示唆しているわけです...」

1. 音声中心主義と差延
言語学で見かけるラングとパロールという用語は、それぞれ言語と語り言葉といった意味がある。ソシュール言語学では、ラングを社会的な規約に基づく言語体系、パロールを個人的な使用による言葉といった関係にある。
デリダの場合は、書かれた言葉、あるいは書く行為を意味するエクリチュールに注目し、パロールとの関係において論じているという。これを「音声中心主義」というそうな。音声というからには、書かれた言葉というより、語られた言葉という意味合いであろうか...
人間は、何かを明確に認識しようとする時、言語化を試みる。記述することによって、確実な知識にもなる。その記述の差異によって物事の存在を確実に認識でき、物事の再現では言語化や記号化に頼るわけだ。
しかしながら、一旦確認済みの差異も、時間の経過とともに認識の差異が生じる。人間ってやつは、時間とともに変わっていくものだ。それが進化か、退化かは知らんが...
デリダは、差異と時間的な遅延を組み合わせた「差延」という用語を持ち出す。この語は、著作「声と現象」(前記事)でも遭遇したが、音声中心主義では重要な位置づけにあるらしい。認識対象を言語で代弁するなら、時間とともに代弁に差異が生じ、代弁の代弁が必要となり、さらに代弁の代弁の... と。これが「代補」ってやつであろか。ニーチェの永劫回帰にも通ずるような...
すると、「脱構築」という用語もおぼろげに見えてくる。それは、構築物を再構築し、さらに再構築物を再構築し... すなわち、破壊と創造の輪廻ということになろうか...

2. エクリチュールと責任
書く行為、あるいは語る行為を「エクリチュール」というそうな。パロールは、語り言葉という意味だが、さらに語り手の意思を込めた用語のようである。
自ら文体を構築しようとすると、ある種の自己陶酔に見舞われる。主体が文体に乗り移り、逆に、文体が意思や思考を誘導するってこともある。言語で自己を形成する限り、エクリチュールの支配は免れまい。
たいていの書き手はエクリチュール内で帳尻を合わせようとするが、デリダはそんな努力にあまり興味がないようである。矛盾に出くわせば、それを自然に受け入れる。
しかしながら、言葉を発すれば、そこに責任がつきまとう。一貫性がなければ、猛烈な批判にも晒される。精神を相手取るのに、そんなことを気にしても、しょうがないといえば、そうかもしれん。
この世には、心に響く言葉がある。そこに理屈はない。一貫性も期待できない。それでも心に響くのはなぜか。究極の言葉に、沈黙という行為もある。ナザレの大工の倅は、沈黙によって磔刑を受け入れ、すべての責任を背負った。デリダは幼い頃、神霊的な熱狂の言葉が危険であることを、ゲッペルス文学博士によって目の当たりにしたことだろう。お喋りな理性屋どもが言葉を安っぽくするのも道理である...

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