2023-08-20

"声と現象" Jacques Derrida 著

声を中心に据えた哲学とは、如何なるものであろう...
どうやら現象学の視点から論じたものらしい。現象といっても物理現象とは、ちと違う。それは、極めて主観的な感覚に発するもの。人間の知覚能力は、その対象が客観的で物理的な存在と一致すれば、明らかな現存を認識できるが、その一方で、空想や幻想、あるいは錯覚までもリアルな意識にしちまう特性がある。しかも、この特性が、自我と結びついてしまうと、眠っていた誇大妄想癖をも呼び覚ます...

哲学書によく見かける現象に、用語が多義化するところがある。精神を限界まで探究すれば、言語の限界に迫ることになり、難解な用語が入り乱れるのも致し方あるまい。それだけに哲学者の個性が露わになる。
ジャック・デリダの場合、自我に劣らず手ごわい。まず、文体や用語からして難解!「現前」に、「現前性」に、「再 - 現前」に... なんのこっちゃ!
présent, présence, présentation, re-présentation という語を邦訳すると、こうなるらしい。
さらに、差異と遅延から「差延」という造語を編む。人は物事を認識する時、差異を感じ取って言語化を試みる。しかし、その差異を確認したにもかかわらず、時間の経過とともに、認識そのものに差異が生じる。差異の差異、そのまた差異の差異... 過去の自分は、もう自分ではないのだ。
対象を認識する時、言語によって再現するしかないとすれば、言語は実体の代替物となる。すると、実態と認識にも差異が生じる。対象を記述する文章化の過程で、誤謬を犯すこともしばしば。アンチノミーを前に、帳尻を合わすこともできない。言語は手ごわい。文体が主体の中に入り込み、意志や思考をごちゃ混ぜにしちまう。しかし、言語を介して自己を形成する限り、言語の支配から逃れることはできまい...
尚、高橋允昭訳版(理想社)を手に取る。

「してみれば、現象学的『沈黙』をもとの姿で構成しうるのは、二重の排除もしくは二重の還元を経ることによってにほかならない。すなわち、指標的伝達における、私のなかでの『他者との関係』の還元と、より高次な意味層の外にある事後的な層としての『表現の層』との、二重の排除がそれである。この二つの排除のあいだの関係においてはじめて、声の審級はその奇妙な権威を聞かせるであろう。」

声というからには言語を論じ、言語というからには記号を論じることになる。言語や記号といった実存性も、アニマにも似た感覚がある。
本書の趣向も、まず記号論に触れ、言語論を通じて、音声論へと向かう。そして、言語機能が備える二つの特性「表現作用」「指標作用」を区別しながら、声が演じる精神作用を物語ってくれる。表現と指標の区別は、意味を伴うか伴わないか、意志が伴うか伴わないか、といったこと。

まず、声には言語と同様、情報伝達の機能があり、伝え手の意図と受け手の解釈が一致しないという問題がつきまとう。情報理論の父と呼ばれるシャノンは、情報の意味ではなく、ひたすら量を論じた。そうすることによって数学で記述でき、確率論に持ち込むことができる。うまいこと割り切ったやり方である。

では、伝達手段としての音声を精神現象として眺めると、どうであろう。音声には、物理的な周波数特性とは別に、心に響く声というものがある。しかも、それは言語化されているとは限らない。
巷では、声が大きいほど注目され、言葉巧みに存在感が演出される。まったく騒々しい社会である。
実存を強調すれば、表現の仕方や意味の与え方を重視することになる。淡々と表記する指標は、おまけか。いや、冷静な目を向けると、客観的な実存という見方もできよう。人を惑わすのは、表現の方か。いやいや、客観を装った指標ほどタチの悪いものはあるまい。例えば、論者が持ち出す統計的指標ほど当てにならないものはない。
小説家ともなると、巧みな文章で行間まで読ませようとする。言うまでもなく、行間には文字がない。つまり、無に実存性を与えようと仕掛けてくるわけだ。
ナザレのお人は黙って磔刑を受け入れ、その解釈を巡っては三千年紀の幕が開けても論争が絶えない。彼は、沈黙によってすべての責任を背負ったのか。だとすると、真の説得力は、沈黙の方にあるのやもしれん。言葉を安っぽくしているのは、お喋りな理性者どもか...

記号や表現は、まばたきをしている間に過ぎ去ってゆく。まずはじっくりと、沈黙の声に耳を傾けるべし。だが、神は何も語っちゃくれない。ならば、己の声に耳を傾けてみるべし。それでも、周りの声を己の声と勘違いするのがオチ。神の声を聞くのに資格がいるのかは知らんが、己の声を聞くのにもよほどの修行がいる。声の哲学とは、結局は沈黙の哲学を言うのであろうか。そしてそれは、古来、自然哲学者たちが唱えてきた「己を知る!」ということになろうか...

「デリダによれば、プラトンからアリストテレス、ルソー、ヘーゲル等を経てフッサールにまでいたる西洋の哲学は、現前の形而上学を基軸として展開された『ロゴスとフォネーの共犯』の歴史である。それは、絶対的な『自分が話すのを聞きたい』であり、そのため、つねに書字を貶め軽んじて内面的な声(フォネー)に特権を与えてきた。この動向は、形而上学を批判すると称するフッサール現象学にも同じく認められるところである。」
... 高橋允昭

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