2023-09-03

"精神について" Jacques Derrida 著

原題 "De l'esprit"
ドイツ語では "Geist"、ラテン語では "Spiritus"、英語では "Spirit"、そして、日本語では「精なる神」と書く。これらの用語は、人間性を表明する重要な意味を持つが、同時に、得体の知れない存在であることを黙認している意味もある。
同じ母国語を用いる人々の間でも、この用語のニュアンスは微妙に違うであろう。時には情熱的に、時には狂乱的に、時には哲学的に、時には弁証的に... それで議論が成り立っているのだから、やはり人間ってやつは、得体の知れない存在である。翻訳するのも困難であろうが、そこは慣例によって、だいたい一対一の語で定義づけされる。でないと、議論も成り立つまい...
尚、港道隆訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

「De l'esprit` これは大いにフランス語的なタイトルだ。Geist の le geistige や le geistliche(精神的なもの)を聴き理解できるようにするには、あまりにもフランス語的にすぎる。しかしだからこそ、ひとはおそらく、それをドイツ語としてもっとよく聴き取ることになるだろう。おそらく、いずれにせよ、その語を翻訳の試練にかけるべく一外国語の方から鳴り響かせておくならば、いやむしろ語の翻訳に対する抵抗を試練にかけるなら、われわれはこの語のドイツ性にもっと的確な形で敏感になるであろう。そして、われわれが自分の言語(ラング)を同じ試練に従わせるならば...」

副題には、「ハイデッガーと問い」とある。
ジャック・デリダは、ハイデッガー相手に、どんな対決姿勢を見せるというのか。ハイデッガーは著作「存在と時間」の中で警告したという。「いくつかの用語を避ける(vermeiden)べきである」と。それは、回避や否認という意味ではなさそうだ。存在を論じるには存在という用語から距離を置け!といった意味であろうか。翻訳できない用語があることを知れ!といった意味であろうか。そして、「精神」という用語も...
デリケートな用語を文章に直接流し込むと、文体のバランスを欠く。そうした用語から距離を置く記述のテクニックに、引用や原注といったやり方もある。
「精神」とは、神に近づきたいという切望から生じた用語であろうか。神を論じたければ、神という概念を創出した人間を論じる方が合理的かもしれない。それで存在を論じるのに無を論じるってか。自由意志を本望とする書き手は、自らの自由を拘束する。哲学ってやつは、チラリズムに看取られているらしい...

「私の知る限り、ハイデッガーは一度もこう自問しなかった。精神とは何か?と。」

デリダは熱く語る。「精神とは火、炎、燃焼である」と。
ちなみに、キェルケゴールは... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは、それ自身に関係する関係の... と、精神の正体をあらゆる総合的な関係で語った。
関わるものに対する情熱によって、あるいは、情熱をもって関わることによって自己が形成されていく。自己実現も、自己啓発も、自己陶酔も、自己泥酔も、なんらかの情熱に導かれ、精神あるところに、熱エネルギーを感じずにはいられない。
しかし、デリダの熱には、もっと重い意味が込められているようである。彼は、ホロコーストの時代を生きたアルジェリア出身のユダヤ系フランス人。古来人類は、街を焼き、建物を焼き、書物を焼き、そして、人間を焼いてきた。集団的な情熱が大衆を煽り、集団的な狂気が非人道的な行為へ走らせる。精神ってやつは、危険である。燃え上がると、更に危険である。
ハイデッガーは、精神を悪と認めつつ、その内にある純粋性を救おうと苦悶したようである。しかも、非キリスト教的に。だが西欧人にとって、キリスト教の呪縛から逃れることは容易ではあるまい。西欧哲学の弱点が、ここにあるのやもしれん。デリダは、それを指摘しているのだろうか...

「私は、亡霊と炎と灰とについてお話しようと思う。そして避ける(éviter)が、ハイデッガーにとって、何を言わんとするのかについて...」

デリダが唱える「エクリチュール」という概念は、なかなか手ごわい。とりあえず、思惟する主体の言明、あるいは、書き手の本質の言明、とでもしておこうか。
主体を言明する有効な方法に、書くという行為がある。書くことによって、思惟する自己を確認することができる。主観を観察するのに、客観的な視点は欠かせない。
だが、あまり文体や書き方に集中すると主体そのものを見失い、今度は思惟する自我と対決することになる。エクリチュールという概念をもってしても、やはり自我は手に負えないと見える。ならば、自我を避けるしかあるまい。だが、避けようにも自我の実体すら見えてこない。
ところで、デリダの文体は、翻訳の手口を拘束すると見える。翻訳者の愚痴まで聞こえてきそうな...

「翻訳は常に危険と裏腹だ。翻訳は文化の豊かさに寄与することもあれば、その足を引っ張ることもある。功罪の危うい活動である。そこに、我有化の欲望を持ち込むなら、デリダのテクストそのものを読んでいないという結果を排出するしかない。自ら著名をしたい欲望に突き動かされるのであれば、それ自体を私は否定しないが、そのことがデリダの問いかけを逸する確率を高くする。また翻訳するたびに、翻訳の政治性を改めて考えることを強いられる。『私はまだ読まれていないのではないか』という、不遜との印象を与えかねないデリダ最後のインタヴューでの発言も改めて真摯に受け取りたいと思っている。沈黙と饒舌との間に介在する沈黙の中で...」
... 港道隆

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