2023-08-06

"ローマ帝国衰亡史 新訳" Edward Gibbon 著

「すべての道はローマに通ず」という古い格言があるが、三千年紀が幕を開けても尚、色褪せるどころか輝きを増してやがる。「ローマは一日にして成らず」というのもそうだが、本書に限っては、軽妙な文章に乗せられ、一日で読み干しちまった。なんて、もったいないことを...
ローマ帝国史といえば、エドワード・ギボンの名を耳にする。だが、彼の著作「ローマ帝国衰亡史」はいかんせん大作で、ToDo リストに居座ったまま。そこで本書は、この大著から代表的な章を掻い摘んでくれる。それでも、八百ページもの重み。やはり一日にしてしまってはもったいない。じっくりと読み返すとしよう...
尚、中倉玄喜編訳版(PHP研究所)を手に取る。

「昇るものは沈み、生まれるものは死に、朽ちるべきものは朽ちる。」... モハメッド

偉大なローマ帝国は、いかにして滅亡したのか。歴史家の間でも、様々な意見が飛び交う。義務教育では、ゲルマン民族の大移動がその原因だと教わったが、それではあまりに皮相的だ。直接の原因が外敵であったにせよ、様々な要因が複雑に絡んだ結果であることは免れまい。だからこそ多面的な教訓となる。タキトゥス著「年代記」によると、早々繁栄期に自壊の道を辿っていたことが見て取れる。
もともと共和国であったローマは、、初代皇帝アウグストゥスの時代から帝政へと移行した。当初の皇帝たちは、共和国の理念を引き継ぎ、あるいは、引き継いだように見せかけ、元老院も体面上の役割は果たしていたとさ...
共和国の伝統は、古代ギリシア文明を吸収しながら、異文化の中に優れたものを見つければ、積極的に取り入れる。占領地でも風習や宗教などに寛容で、周辺地域の部族から見れば、ローマは憧れな存在でもあったとさ...
やがて、僭帝たちは支配欲と領土拡大欲に憑かれ、伝統的な共和国精神が失われていく。かつての寛容性は影を潜め、血なまぐさい権力闘争に、異教徒の迫害に、蛮族と呼ぶ人々へのあくどい仕打ち... と。人が至福にある時、その背後に迫りつつある衰運を見抜くことは極めて難しい。帝国の臓腑には、慢性的な平和による害毒が徐々に広がり、人心は次第に画一化していったとさ...

「繁栄が衰亡の原理を動かしはじめ、衰微の要因が征服の拡大とともにその数を増やし、やがて時間や事件によって人工的な支柱がとり除かれるや、この途方もない構造物は、みずからの重みに耐えきれず倒壊したのだ。ローマ帝国滅亡の過程は、しごく単純にして明らかである。むしろ驚きを禁じえないのは、何ゆえにかくも長く存続することができたのか、という点にある。」

1. 東西分裂から滅亡のカウントダウン
ローマ帝国の滅亡時期となると、東西分裂後、西ローマ帝国の滅亡をもって... とする意見も見かける。ローマ帝国と呼ぶからには、首都はローマでなければ... という見方はできよう。東ローマ帝国は、ローマらしくないローマ帝国である。というより、ローマからコンスタンティノポリスへ遷都した時点で...
国民の構成も、ローマ人からギリシア人が主流に。そこで、ビザンティン帝国というオリエンタルな呼称がある。ギボンも、西ローマ帝国の滅亡で筆を置こうとした節があるらしい。
しかし、ビザンティン人は、自らをローマ帝国の正統な後裔と位置づけたという。ローマ精神は失っていないというわけか。
国家建設を論じる時、アイデンティティは重要な位置づけにある。そもそも東西に分裂した意図も、あまりに巨大化した帝国を効率よく統治するための政策の一環であり、権力闘争などによる内部分裂ではないようである。しかも、東側の統治者の方が、西側より優れた皇帝を輩出したという経緯もある。そして、コンスタンティノポリスの陥落物語は、衰亡史のクライマックスを飾るに相応しい...

2. キリスト教の存在感と一神教の影響力
国家の形成を論じる時、宗教や信仰を無視できない。共和制の時代、ユピテル神を頂点に多くの神々を崇拝していた。それは、国家的祭儀の形をとりながら、国政とも強く結びついていた。領土拡大とともに、他国の新たな神々が入ってくる。この多神教の世界が、他の神々を受け入れる寛容性となり、共存、融合するようになったという。
かつては、蛮族同士の争いからローマに庇護を求め、そのまま帝国領地に定住するといったケースも多く、すでに蛮族大移動の種が蒔かれていたようである。
しかし、一神教を崇めることによって皇帝の神格化がはじまり、キリスト教が国教となる。一神教は寛容性を欠く側面がある。なにしろ、他の神を認めないのだから。そして、異教徒迫害が正義となる。ニ世紀、リヨンの司教聖エイレナイオスが「異端反駁」で四つの福音以外を異端とした。もともと異端の側にあったキリスト教は、秘密主義を通して多くの福音が点在したはずだが...
四世紀、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認したが、それは政治が混乱する中でキリスト教徒との妥協であったのだろうか。当初はそうかもしれんが、コンスタンティヌス帝はローマ皇帝として初めてキリスト教徒となり、ニカイア公会議ではアタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした。ここから、異端派の排除が一気に加速する。
善悪の対立構図は、大衆を扇動するには実に分かりやすく、効果的である。絶対的な神の存在は、相対的な認識能力しか持ち合わていない知的生命体にとって荷が重すぎるのやもしれん。人間味あふれる不完全な神々と戯れている方が身の丈であろう...
そして、この時代の正統派と異端派の分裂は、後のローマ・カトリック教会とギリシア正教会の二大宗派、さらに、プロテスタント宗派を加えるという流れに通ずるものがある。
また、信仰や宗教の教訓としては、政治を司る者が中立を保つことの大切さと、その難しさを物語り、政教分離といった近代政治思想へも通ずるような...

3. ローマ精神と民族大移動
帝国精神は共和国の伝統によって支えられ、蛮族の自発的な臣従に見て取れる。ローマの司法権が及ぶ土地を拡大するにつれ、これに属すことを誇りとする国民精神が育まれていく。東方の遊牧民フン族が西へ移動すると、蛮族が帝国領内に流れ込み、新たな臣民となって割譲された地域に定住するようになったという。このような形でローマ帝国は蛮族を受け入れるようになったとか。
しかし、蛮族は蛮族である。統治者たちの差別意識がむごい仕打ちとなれば、暴力には暴力を。これが、蛮族大移動の原理であろうか。強制された威厳は脆い。これが人間法則というものか。統治の観点からも、自由を排除するより多様性や寛容性といった価値観を受け入れる方が、はるかに合理的であろう。
ローマ帝国史には数々の暴君が出現するが、その都度、改善を試みた賢帝が出現し、そんなところにローマ帝国が長く存続できた要因の一つがありそうである。
そして、この時代の民族大移動が、近代国家の形成を担う民族マップになっていることも興味深い。二十一世紀の今日、欧米諸国で難民や移民を積極的に受け入れる慣習を見かけるが、そこに古典回帰を見る思い。なるほど、すべての道はローマに通ず...

「表向き『共和国』という名称と体面とを維持した初期の皇帝らによる巧妙な政策、多数の軍事僭帝によって引き起こされた国内の混乱、キリスト教の発展と各宗派、コンスタンティノポリスの建設、帝国の分裂、ゲルマン人やスキタイ人の侵入と定着、国内法の制定・編纂、モハメッドの性格と宗教、教皇の現世支配、シャルルマーニュによる西ローマ帝国の復興とその後の衰微、ラテン人による東方への十字軍遠征、サラセン人やトルコ人の征服事業、東ローマ帝国(ビザンティウム)の滅亡、中世におけるローマ市の状況と変遷等々、まことに、各種の原因とそれにつづく現象とが、かくまでに興趣に富むさまざまなかたちをとって現れている歴史はほかにない。しかしながら、この主題の重要性や多彩性を大いに強調する歴史家も、だれであれ、かならずしや自己の力量不足を痛感せざるを得ないことだろう。」
... エドワード・ギボン

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