2023-09-10

"条件なき大学" Jacques Derrida 著

小雨降りしきる中、古本屋で宿っていると、ある一文に引き寄せられる。おいらは暗示にかかりやすい...

「今からお話しすることは、おそらく、信仰告白のようなものとなるでしょう。あたかも自分の習慣を守らない許可を、自分の習慣を裏切る許可をみなさん方に求めるかのように振る舞う、そんな教師の信仰告白のようなものになることでしょう。」

「条件なき大学」とは、なんと大胆な題目であろう。ユートピアにでも誘おうというのか。ジャック・デリダは、自前の教育論で大雑把なテーゼを掲げる。それは、大学への信、特に、人文学への信である。大学は真理を公言し、真理に対して際限のない誓約を約束する、と...
真理の世界では、真実や真相が鍵となる。だが、なんでも議論の対象にでき、なんでも問い掛けができ、なんでもありの世界でなければ、深淵な思考は促せまい。思考を高めるためには、真実や真相だけでは足りないってことだ。それを尻目に文学の世界では、フィクションが大手を振って、まるで湯上がり気分の王子様気取り。悪魔や悪徳までも主役に仕立て上げる。デリダは、すべてを言う権利を文学調レトリックで唱えて魅せる。おまけに、きわめて難解な文体で、推理小説バリの演繹力を要請してきやがる...
尚、西山雄二訳版(月曜社)を手に取る。

「私の目からみると、文学はある種の特権を保持しています。文学はエクリチュールの出来事からこの特権を主題化するからです。また、文学はその政治的な歴史を通じて、『すべてを言うこと』を原理的に説明することに結びついているからです。『すべてを言うこと』によって、文学は独特な仕方で、真理、虚構、模像、学問、哲学、法、権利、民主主義と呼ばれるものに関係します。」
... ジャック・デリダ「中断付点」より

大学には自由なイメージがあり、大学は自由な研究の場であるべき、との主張にも頷ける。しかし、研究にはカネがいる。予算が貧弱だと、ろくな研究もできまい。では、スポンサーは?国が予算をつければ、国家や官僚が主導することになる。自由を信条とする大学が政治権力の影響下にあるとは、これいかに。現実に、大学は独立を主張することができずにいる。無条件を原則としたところで、同じこと。結局、教育論ってやつは、合目的性なんぞとは程遠く、市場原理やナショナリズムと結びつく。

自由主義社会だからといって、なんでも言えるわけではない。発言の自由には、社会的な責任がともなう。カントは、自分の理性を公的に使用する時は、いつでも自由でなければならない、といったことを主張した。私的に使用する時は、極めて制限されるべきとしながら。カントが生きた時代は、教会権力や国家権力による露骨な検閲制度があったが、21世紀の今、そんな制度は殆ど見かけない。少なくとも民主主義国家では。
だからといって、検閲もどきの機能がなくなったわけではない。ネット社会では、理性の検閲官どもがリアルタイムで監視し、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。
人は、自分の自由を主張しながら、他人の自由には厳しい。特に、批判的な態度に対して。となれば、例えばヘーゲル哲学を理解しようとすれば、ヘーゲル的な方法と非ヘーゲル的な方法を同時に用いるような、そんな二重思考を試みることも必要であろう。それには、健全な懐疑心、あるいは、健全な批判精神が求められるわけだが、これを実践するにはよほどの修行がいる。
カントの批判哲学は、自らを対立する立場に置くことで、デリダ流の「脱構築」を図ったという見方もできよう。同じやり方で、条件なき大学を論じれば、同時に、条件付き大学を論じることになる。そして、理想と現実のギャップを埋める作業に追われ、ついには、自ら理想高すぎ感を認めざるを得ない。
だから、冒頭の宣言のように「信仰告白のようなもの...」というわけか。だからといって、人文学に教育を救え!などと責任を押し付ける気にはなれんよ。デリダ先生!

本書は、教育論を通じて労働説にも触れている。デリダには、マルクスの労働価値説に対して強い意識を感じる。労働価値説そのものは、政治算術という考え方を提示したウィリアム・ペティに発し、マルクスは労働の剰余価値に着目して、これと利潤との関係を論じて発展させた。現実に、労働が経済的価値を生み出すが、経済的に豊かになってくると生活の余裕を感じ、労働意欲にも差異が生じる。かつて多くを支配してきた強制的、受動的な労働と、わずかに経済的に余裕のでてきた能動的、積極的な労働との間にも、利潤や合理性に差異が生じる。
デリダは、労働の終焉によって目的を成す、といった見方を提示する。もっといえば、従来の労働は終焉し、これから真の労働が始まる... とでも言おうか。大学の研究を従来型の労働と見なすなら、これからの大学の研究は新たな形の労働によってもたらされる。それが、真の人間らしい生き方を意味するのか知らん。人生に合目的なんてものがあるのかもわからん。
ただ、デリダ流に言えば、労働という概念の再構築を促し、労働の「脱構築」ということになろうか。そして、いまだ真の労働は生じておらず、労働の終焉が起源説になるといった表現となり、本書に提示される「労働の終焉 = 目的」という図式になるのではないかと... こんな勝手な解釈では、デリダ先生に叱られそう。
それにしても、これほど読み手に様々な解釈と想像を強いる書き手も珍しい。M には、たまらん!

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